第二章 吸血鬼はネット通販がお好き 11

 風呂場の暗闇の中で、とらはあくびをしながら起き上がる。

 あくびをしながらも、風呂場の壁を通り抜けて家の中で誰かが動いている音がするので、アイリスはまだいるのだろう。

 それは織り込み済みなので、固まり軋む全身を伸ばしながら風呂場を出ると、

「ユラ! お願い! 協力して!」

 アイリスが美しい金色の後ろ髪を見せて、とらの足元にひれ伏していた。

「……言っておくが、土下座は別に誠意を訴えるポーズでもなんでもないからな。現実にはやりすぎて誠意が疑われかねない奴で……」

「あなたしか頼れないの!」

 アイリスはとらを遮って悲鳴に近い声を上げる。

「お前の場合、それマジで言葉通りだよな。どうしたんだよ」

「指令が来たの! 緊急度が高いファントム……吸血鬼の担当になっちゃったの!」

「ほー、良かったじゃないか。いや、緊急度が高いってんなら治安的にはよかないんだろうが、アイリスの能力が評価されてるってことだろ」

「そ、それが……相手の主な潜伏先が、池袋駅の西口側の繁華街なの」

「ほー、西口の繁華街」

「それで……確定している潜伏先で内偵しなきゃいけないのが、地下のライブハウスで」

「ほー、地下のライブハウス」

「目標ファントムが現れるのは午後七時以降なの」

「ほー、午後七時以降」

「……一人で、たどり着ける気がしない……」

「仕事やめれば?」

「お願いユラ! 一緒に戦えなんて言わないから! 事前調査だけでいいから! お願い! ご飯奢るから! 入場料とかあるなら払うから、一緒に来て!」

「嫌だよ」

 とりあえず拒むが、アイリスがそんなことくらいで引き下がらないことは分かっている。

 とらは想像する。

 近年の池袋西口の繁華街は世間一般の抱くイメージより圧倒的に治安が良くなっており、積極的に危険なところに飛び込まない限り、普通ならばトラブルに遭うことは少ない。

 だが、アイリスはお世辞抜きで美人であり、誇張抜きで重度の男性恐怖症である。

 吸血鬼どころか吸血鬼に操られている人間にも抵抗できないほどだから、キャッチやナンパに遭って抵抗できずに妙な場所に連れ込まれる可能性もある。

 そんなことになったら寝ざめが悪いし、逆にそこでやみじゆう騎士団の修道騎士が本領を発揮して大立ち回りをした末に彼女が警察に目をつけられた場合……。

「最悪、俺のところまで警察の手が及ぶか……はぁ……」

 今でこそ殊勝に頭を下げているアイリスだが、とらは自分の財布や持ち物の中に、件の『灰になったときの迷子札メモ』が戻ってきていないことに気付いていた。

 アイリスが返し忘れているのか、意図して持ったままなのかは分からないが、万一何かの機会にアイリスが誰かに捕まった場合、アイリスを捕まえた組織の手は、間違いなくとらに及ぶだろう。

「……いいよいいよ分かったよ。調査だけなら付き合ってやる」

「本当っ!?」

「その代わり俺の迷子メモ返せ。俺はお前のメインの仕事には絶対付き合わないからな」

「ありがとう! ありがとうユラ! 調査が終わったら必ずメモ、返すわね」

 やっぱりこいつ、メモを意識して確保していやがった。

 そしてとらの吸血鬼の耳は、日本語が達者なアイリスの、微妙な言い回しを決して聞き逃さなかった。

「何を調査が終わるまでとか言葉に幅持たせてんだ! 一回だけだ! 一日だけだ!」

「お願いよおお!! 後生だからああ!!」

「聖十字教徒が後生とか言ってんじゃねぇええ! 俺だって仕事があるんだよおお!!」

 一回だ一回じゃないの不毛な言い争いは、この後とらが出勤するまで続けられた。

 そして最終的にアイリスがとらをコンビニまで追いかけてきて、イートインコーナーに居座ってむらおかにまたあれこれ言われる段になり、とらが折れることになるのだった。


    ※


 今更だが、アイリスが修道騎士だなんて話は嘘なんじゃないかととらは思い始めた。

 東京メトロ副都心線のぞう駅から池袋駅まで一駅。

 改札を出て東武百貨店側に上がってから地上に出て、ファミリー向け、若者向けのイメージが強い東口側と違い、大人の繁華街のイメージが強い一角。

 夜九時、とらとアイリスは、池袋北口側の繁華街を歩いていた。

 アイリスはとらの左腕に自分の腕を絡めながら、とらにぴったり寄り添って歩いている。

 雰囲気だけながら、繁華街の雰囲気に酔ったカップルに見えるだろうが、実態はひたすら道行く人々に怯えてアイリスがまともに歩けないため、とらが支えて歩いているような状況だった。

「……っ」

 時々とらの左腕を強くアイリスが引くのは、呼び込みの店員や、キャッチすれすれのホストと目が合う時だ。

 明らかに怯えの反応なのだが、道を歩いていれば偶然誰かと目が合ってしまうことなど誰にでもあるし、店先の呼び込みは繁華街でなくてもどんな商店でもやる所はやる。

「お前そんなんでよく日常生活送れるな」

 ファントムの潜伏先の内偵ということで、今日のアイリスは私服らしい白いブラウスと黒いサロペットスカートの上からタータンチェック柄のコートを羽織っている。

 タータンチェックはスコットランドの民族衣装のはずだし、その下も修道服との差がとらには分からなかったが、そんなことよりも問題なのは、アイリスの容貌が、とらの想像以上に人目を引くという事実だった。

 内偵先で目立ってしまうという懸念に加え、繁華街の客引きにやたらと声をかけられる。

 そしてアイリスは声をかけられる度に、びくりと身を震わせてとらを引き寄せるのだ。

 腕に伝わってくるのは、小刻みな震え。

「……大丈夫か? 今日はやめといたほうがいいんじゃないか?」

 アイリスのこれは、男嫌いというよりもっと深刻な事情に根差した男性恐怖症ともいうべき反応だ。

 これほど反応が激甚なのであれば、吸血鬼此木このぎの取り巻き相手にやられたというのも頷けるが、それ以前の問題としてイギリスを出るときと日本に入国するとき、イミグレのやり取りは大丈夫だったのだろうか。

 吸血鬼やその他のファントムだったら大丈夫だと言うし、実際とらは大丈夫なのだが、とらの家族であり攻撃性皆無のらくのときですらあの有様だ。

 今回アイリスが担当になったという新しいファントムの潜伏する地下クラブまではあと少しだが、街中ですらとらから離れられないようでは潜伏先に乗り込んだところでどんな調査ができると言うのか。

「おい、大丈夫か、もうすぐ着くぞ」

「う、うん……」

 アイリスは頷いて、決死の様子で顔を上げた。

『Stage Bar Crimson Moon』

 地下に降りる階段の入り口には、ネオンの看板でそう記されていた。

 とらとアイリスが並んで降りられないほど狭く急な階段。

 建物の規模からいってそこまで手狭な地下室ではなさそうだが、それでも『ステージ』と看板を掲げている以上、客が自由に動きまわれるエリアはそう広くはないだろう。

 入り口のボードには恐らくステージに登壇予定のミュージシャンらしき名前が羅列されている。

 階段の壁にはいかにも若いスタンダードなバンドチームからメタルな雰囲気を感じさせるバンドチームまで、ポスターが所狭しと貼り付けられており、この店がどのような傾向のミュージシャンを招いているのかが概ね想像がついた。

 階段の上に立つと、地下からスピーカー越しの重低音がせりあがってくるのが聞こえてくるのだ。

 もし登壇するミュージシャンの熱狂的なファンで店が埋め尽くされていたら、アイリスは入店すらできないのではなかろうか。

「ヘヴィメタほど激しくはなさそうだが、クラシックみたいなお上品さもなさそうだ。今日は店の場所を把握したってことで帰った方がよさそうじゃないか」

「そ、そ、そうね、それでいいかも」

 本気か、振り返って突っ込もうとしたそのときだった。

「げっ」

 そこに見知った顔を見つけてとらは驚いたし相手も驚いた。

とらさん?」

あかちゃん!?」

 先日の深夜とは打って変わって派手な装いのむらおかあかが、決まり悪そうな顔でそこにいたのだった。

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