第二章 吸血鬼はネット通販がお好き 8
『副都心』と呼ばれる池袋、新宿、渋谷の三つの都市の中で、池袋は最も地理的な色分けが激しい。
残る二つの新宿や渋谷は、駅を中心に放射状に人口密集地帯が広がって行き、その拡大してゆく商業圏の果ては、隣接する別の商業圏と重なっている。
だが池袋は、鉄道の線路、そして駅によって東と西が完全に分断され、それぞれカラーが全く異なる。
感じ方に個人差はあるものの、東と南側は広くファミリー向け。西と北側は良くも悪くも大人向けの発展を遂げてきた。
結果、東と南は夜やや眠り、西と北は昼やや眠る街である。
いずれにせよ、東京を代表する一大繁華街を擁する街であることに変わりはなく、アイリスはそんな繁華街を避けるルートを、スリムフォンの道案内アプリで検索した結果。
「ウツノミヤに行くことはないと思うけど、初めて乗る電車はやっぱり緊張するわ」
アイリスは、都電雑司ヶ谷駅から都電荒川線に乗り、東池袋四丁目駅で下車した。
荒川線はトラムであるため駅のロケーションは開放的で、下車してすぐにアイリスは、目的地であるサンシャイン60を仰ぎ見ることができた。
メインストリートの裏手の複雑な小道を抜けて、サンシャイン60の膝元に潜り込んだ。
サンシャインに入ると、地上も地下も多くの人で賑わっているが、アイリスは顔を伏せながらなんとか人波をかき分け進んでゆく。
「大丈夫……まだ、日は高いんだから……大丈夫……」
自分でも自覚はしているのだが、日中は結構大丈夫なのだ。
宇都宮まで行ってしまったときなど、それこそ電車内には多くの男性がいて、入れ代わり立ち代わりアイリスの隣に立ったり座ったりしたものだ。
黒い修道服は日本で人目を引く装いだとは分かっているが、それでも道行くほとんどの人が直近に待ち受けている『自分の用事』のために動いている。
だから、誰もアイリスを見ても、意識は向けない。彼女と関わろうとはしない。
「すいませーん! 台車通りまーす!」
「は、はいっ!」
だから唐突に声をかけられても、ぎりぎりパニックを起こさず通路を避けて、どこかのお店のスタッフを先に通すなんて芸当もできる。
問題は、夜。
夜の闇の中で出会う男性は、たとえどんなに明るい街中であろうとも、怖い。
「……本当にこっちよね」
案内通りに進むと、徐々に徐々に人が減ってきて、どうやら一般の買い物客が立ち入らないオフィス棟まで踏み込んだようだ。
急激に外からの光が少なくなり、人々の雑踏が遠ざかり、日本語の案内だらけの周囲にアイリスの不安が少し増すが、
「あっ」
「あ! す、すいませ……」
前をよく見て歩いていなかったために、突然角から出てきた誰かとぶつかってしまった。
「大丈夫ですか!」
「はい、大丈夫です。急いで歩いていましたもので……あら?」
アイリスが体当たりしてしまったのは、アイリスより頭一つ小柄な、着物をまとった黒髪の女性だった。
年はアイリスと同年代のようで、だからアイリスも落ち着いて詫びることができた。
「何か?」
「いえ、最初思っていたよりお若い方なので、驚いてしまって」
「はぁ……?」
アイリスは心の中で首を傾げた。
日本人の年齢は年齢よりも幼く見えると聞いていたが、どんなに贔屓目に見ても、この女性が自分を「若い」と評するような、五歳も十歳も年上には見えなかった。
「とにかく、お互い怪我がなくてよかった。ダーク・クロス・ナイツの事務所はその角を曲がったところですよ」
女性はそう言って会釈しアイリスの横をすっと通り抜ける。
「あ、ど、どうも」
アイリスが小さく一礼してすれ違ったその瞬間、
「宇都宮の餃子は、美味しかったですか?」
かすかに侮るような、ささやきが耳にまとわりつき、はっと振り返ると、
「どういうこと」
そこにはもう、着物姿の女性どころか人の姿そのものが無かった。
アイリスは思わず息を呑む。
ダーク・クロス・ナイツ。
身を隠す場所などどこにも無いオフィス棟の廊下におぞましいものを感じながら、アイリスは思わず左手が腰のハンマーに伸びそうになるが、
「まずは、仕事よね」
気を取り直して、手元のスリムフォンの地図と、あの女性が指し示した方向が一致していることを確認する。
そしてそこから二十メートルほど歩いたところで、
「……本当にここ?」
だが透明なガラスの向こう側に見えるのは、パソコンが設えられた三つの席。
そのうち二つは空席で、奥に見える扉は決してその更に奥に広大な何かがあるようには感じられない。
だが一つだけ埋まっている席のパソコンに向かっているのは明らかに年配のシスターで、そのシスターはアイリスに気付くと立ち上がって彼女を出迎えてくれた。
「いらっしゃい。シスター・イェレイ。私は
「初めましてシスター・ナカウラ。着任のご挨拶が遅くなりまして、申し訳ありません」
アイリスはスカートのすそを小さくつまみ膝を曲げて礼を取り、中浦は胸に手を当て小さく礼をしてそれに応える。
ふくふくとした頬に、丸い眼鏡がよく似合う、修道服を脱げば日本中どこにいても不自然ではない女性だった。
「綺麗な日本語ね。どうぞ入って。驚いたでしょう? 小さなオフィスで」
「いいえ、騎士団は身軽さが第一だと思っております。ただ、もう少し秘められた場所にあるものと思っていました」
「小さな旅行代理店の店舗があったところを居抜きで借りたの。予算が無くてね。さぁさ座って。小さな駐屯地だから、堅苦しい挨拶は無用よ」
「失礼いたします」
アイリスは促された椅子に座ると、中浦はカウンターテーブルを挟んで反対側に座る。
そうするとなるほど、かつてここが旅行代理店だったということがよく分かった。
「さぁどうぞ」
「頂戴します」
アイリスは上品な湯飲みに出された薫り高い日本茶を一口含み頬が緩みそうになり、
「着任早々、吸血鬼を一体撃滅しましたね。ご苦労さまです」
「うぇっほぅ!」
危うく緩んだそばから全部吹き出すところだった。