第一章 吸血鬼は朝帰りできない 5
「っはっ!?」
肺が空気を感じ取り、全身に血と熱が巡り、
「はぁっ……はあっ……こ、ここは……」
周囲は闇に包まれていたが、閉鎖空間ではない。
空気を感じ取った瞬間、嗅覚が活動しはじめ、そこが慣れた場所であることを
「家……か?」
沈んで冷たい空気。そして、手と尻の下にある硬い感触は、自宅のバスルームだ。
「とりあえず、生きて帰れたか」
間違いなくここは、
「あークソ……また色々仕切り直しか。面倒くせぇ」
頭を掻きながら、暗闇の中で周囲を見回す。
照明をつけなくても、
ここ十年、目覚めはいつもこの何の変哲もない集合住宅用のバスルームだ。
小さな換気扇がついているだけで窓も無いが、夜勤明けに帰ってきて入浴したいときに備え、防水デジタル時計がシャンプー類の隣に置かれている。
「一体何日過ぎたのか……
これまでの経験上、灰になった場合、一週間以内に家に帰れれば御の字である。
過去には半年以上戻れなかったこともあった。
今日が何月何日か分からないが、無断欠勤が連続した末にクビになっていることは間違いないだろう。
かつて幾度も繰り返した展開に暗澹たる気持ちになりながら、
時計には、十二月三日、午後七時の表示。
「たった一日? いや、オール明けでトラブルに首突っ込んだんだから、一日経ってない!?」
そして
「無い……! じゃあ、一体誰が……!」
「え」
「あ」
バスルームの中で灰から元に戻ったばかりの
「っ~~~~っ!!」
「ごめんっっ!!」
女性が声なき悲鳴を上げながら買い物袋をハンマー投げが如く振りかざして
扉一枚隔てて怒りの衝撃が伝わってきた後、玄関の扉が開いて誰かが出てゆく気配がした。
黒ずくめではなかったが、今のは間違いなく昨夜、いや今朝、妙な男達に絡まれているところを助けた女性だ。
「ん? 待てよ?」
灰になってしまったのに一日と経たず家に戻ってこられたのは、恐らく彼女のおかげだ。
だが普通の人間であれば、目の前で人間が灰になったら平静でいられるはずはないし、その灰をわざわざ知らない人間の家に届けるようなことはしないだろう。
一体どんな理由でこんな時間までこの場に残っていて、あまつさえ近所のコンビニで買い物をしてきたのかは知らないが、
「おい! もしかして君は!」
「せめて服着てから出てきなさいよっ!!」
「ごめんっ!」
女性は玄関ドアのすぐ横でしゃがみ込んでいた。
高さ的に『ご対面』させてしまった可能性が高い。
「えーっと一昨日コインランドリー行ったときの洗濯物この辺に放り出して……ん!?」
自分も赤面しながら、洗うだけ洗って畳みもせずに放り出しておいた洗濯物の山を探ろうとして、肝心の山そのものが無いことに気付く。
「あれ? ん? んん?」
チェストと呼ぶのも躊躇われるカラーボックスの引き出しを開けると、多少癖になってしまった皺が見えるものの、
よく見ると、部屋の中が色々と片付いている。
シンクに放りっぱなしの食器は洗われているし、その食器が収められている水切り籠は、水垢だらけだったはずなのにきちんと磨かれていた。
「まさか、あの子が?」
「そろそろいい!? いい加減寒いんですけど!」
返事があった。
聞き耳でも立てていたのだろうか。
「あっ! す、すまない! すぐ着るから!」
「裸のまま一体何してるのよバカなの!」
至極まっとうな突っ込みに返す言葉も無い。
とにかく下着とスウェットだけを何とか引っ張り出し、
「どうぞ」
そう声をかけると、
「助けてもらった恩が無ければ、それこそ警察に通報してるところよ」
黒ずくめでないとかなり印象が違うが、それでもご対面のせいか
「書いてあることは本当だったのね」
こうして私服姿を見ると、まだ少女の面影が残る年齢かもしれない。
彼女はそう言うと、着ているパーカーのポケットから財布を取り出した。
それは紛れもなく
「……男物なら変な人に絡まれにくいと思って、服を借りたわ」
「あ、ああ、そう」
服とは着る人間が違うと、ここまで印象が変わるものか。
人と話すときにはうつむきがちになるものの、整った目鼻立ちは美しく、この格好で外を歩き回っていたら、全く別の理由で絡まれそうだった。
もちろんこれ以上機嫌を損ねる意味もないので黙っていたが。
「それと、これ返すわ。中、改めて。今コンビニで、五百円だけ借りたけど」
パーカーのポケットから取り出されたのは、
見ると彼女が持っている袋には、コンビニ弁当が入っていた。
「ああ、いや、それくらいはいいんだけど……どうして普通にレンジ使って弁当温めようとしてるんだ」
「外で待ってたらぬるくなっちゃったからよ」
「あ、そう」
女性は自然に
安物の電子レンジからはカレーの香りが漂い始め、
「あっ! スプーン入ってない! ちょっとスプーン借りるわよ」
だがそれはそれとして、勝手にカトラリー類を漁っている少女にそのまま黙ってカツカレーを食べさせるわけにはいかなかった。
「おい、あのさ」
「あ! そうだ!」
話しかけようとしたところを明確に遮られた。
「突然あんなことされたから言いそびれるところだったわ。いくらあなたが真冬に粗末なものをそのままにして外に出るようなモンスターだったとしても、言うべきことは言わないと」
女性は
「今朝は助かったわ。改めて感謝するわね」
「前置きで全部台無しだ! ……ってそんなことよりも……!」
「あ、できた」
今度はレンジのピー音が
「悪いけど、朝から何も食べてないから」
「……どうぞ」
有無を言わさぬ語気に押され、
女性はレンジの中から危なっかしい手つきで熱々のカツカレーを取り出すと、
「……えっと」
「アイリス」
「え?」
「アイリス・イェレイ。私の名前」
「アイリス、アイリスか。俺は……」
「ユラ・トラキ。財布の中の解説書、自分で書いたんでしょ。わざわざゴミ袋まで持ち歩いて。だからここに連れてくることができて、こうやって元に戻れたんだから」
「い、いやそりゃまぁそうだけど……問題はそこじゃなくて」
「何よ。灰になったことを言ってるなら、灰を集めてるとき手がべたべたして気持ち悪かったけど、慣れてるわ」
悪意が無くとも、そしてたとえ真実だったとしても、若い女性から面と向かって『キモチワルイ』と発声されるのは、どれだけ人生経験を積んでも堪えるものだ。
「いやいやいや?」
それ以前に、人が目の前で灰になるのを『慣れている』とはどういうことなのか。
第一それを今日の朝食のメニューを話すように、カツカレーを食べながら平然と言ってのける彼女は、一体何者なのか。
そうこうしているうちに、アイリスはあっという間にカツカレーを食べ終えてしまったらしく、満足そうに息を吐いた。
「う……」
その様子を見て、今度は
そう言えば、今日の
部屋に残るカレーの香りとアイリスの食いっぷりに
そしてこの奇妙な女性は、蒼い瞳で真っ直ぐ
「でも、吸血鬼もカレーの匂いでお腹を鳴らすとは知らなかったわ」
太陽の光を浴びて灰となり、闇とともに目を覚ます。
人の血を吸い、超常的な力を発揮する。
「俺も何か食う。確か、カップラーメンの買い置きがまだ残ってたはずだ」
そう言って立ち上がった
「吸血鬼も、カップラーメン食べるのね」