第一章 吸血鬼は朝帰りできない 5

「っはっ!?」

 肺が空気を感じ取り、全身に血と熱が巡り、とらは声にならぬ叫びと共に目を開いた。

「はぁっ……はあっ……こ、ここは……」

 周囲は闇に包まれていたが、閉鎖空間ではない。

 空気を感じ取った瞬間、嗅覚が活動しはじめ、そこが慣れた場所であることをとらに教えてくれた。

「家……か?」

 沈んで冷たい空気。そして、手と尻の下にある硬い感触は、自宅のバスルームだ。

「とりあえず、生きて帰れたか」

 間違いなくここは、とらの自宅であるマンションのリビングだった。

「あークソ……また色々仕切り直しか。面倒くせぇ」

 頭を掻きながら、暗闇の中で周囲を見回す。

 照明をつけなくても、とらの目はバスルームの暗闇を見通すことができた。

 ここ十年、目覚めはいつもこの何の変哲もない集合住宅用のバスルームだ。

 小さな換気扇がついているだけで窓も無いが、夜勤明けに帰ってきて入浴したいときに備え、防水デジタル時計がシャンプー類の隣に置かれている。

「一体何日過ぎたのか……むらおかさんには悪いことしたな。絶対あの愚痴飲み会が原因でバックれたと思われただろうな」

 これまでの経験上、灰になった場合、一週間以内に家に帰れれば御の字である。

 過去には半年以上戻れなかったこともあった。

 今日が何月何日か分からないが、無断欠勤が連続した末にクビになっていることは間違いないだろう。

 かつて幾度も繰り返した展開に暗澹たる気持ちになりながら、とらは防水時計の日付を見て、思わず目を疑った。

 時計には、十二月三日、午後七時の表示。

「たった一日? いや、オール明けでトラブルに首突っ込んだんだから、一日経ってない!?」

 そしてとらは慌てて首元に手をやった。

「無い……! じゃあ、一体誰が……!」

 とらが思わずバスルームから飛び出したそのときだった。

「え」

「あ」

 とらは、近所のコンビニの買い物袋を手に提げた金髪碧眼の女性と鉢合わせた。

 バスルームの中で灰から元に戻ったばかりのとらは当然のように裸だった。

「っ~~~~っ!!」

「ごめんっっ!!」

 女性が声なき悲鳴を上げながら買い物袋をハンマー投げが如く振りかざしてとらの顔に叩きつけようとするが、間一髪、とらが扉を閉めた。

 扉一枚隔てて怒りの衝撃が伝わってきた後、玄関の扉が開いて誰かが出てゆく気配がした。

 黒ずくめではなかったが、今のは間違いなく昨夜、いや今朝、妙な男達に絡まれているところを助けた女性だ。

「ん? 待てよ?」

 灰になってしまったのに一日と経たず家に戻ってこられたのは、恐らく彼女のおかげだ。

 だが普通の人間であれば、目の前で人間が灰になったら平静でいられるはずはないし、その灰をわざわざ知らない人間の家に届けるようなことはしないだろう。

 一体どんな理由でこんな時間までこの場に残っていて、あまつさえ近所のコンビニで買い物をしてきたのかは知らないが、とらは自分の『正体』を迂闊に吹聴されては困るのだ。

「おい! もしかして君は!」

「せめて服着てから出てきなさいよっ!!」

「ごめんっ!」

 とらはバスルームを飛び出し、勢いのまま玄関の扉を開け、即閉めた。

 女性は玄関ドアのすぐ横でしゃがみ込んでいた。

 高さ的に『ご対面』させてしまった可能性が高い。

「えーっと一昨日コインランドリー行ったときの洗濯物この辺に放り出して……ん!?」

 自分も赤面しながら、洗うだけ洗って畳みもせずに放り出しておいた洗濯物の山を探ろうとして、肝心の山そのものが無いことに気付く。

「あれ? ん? んん?」

 チェストと呼ぶのも躊躇われるカラーボックスの引き出しを開けると、多少癖になってしまった皺が見えるものの、とらの洗濯物がきちんと畳まれてしまわれていた。

 よく見ると、部屋の中が色々と片付いている。

 シンクに放りっぱなしの食器は洗われているし、その食器が収められている水切り籠は、水垢だらけだったはずなのにきちんと磨かれていた。

「まさか、あの子が?」

「そろそろいい!? いい加減寒いんですけど!」

 返事があった。

 聞き耳でも立てていたのだろうか。

「あっ! す、すまない! すぐ着るから!」

「裸のまま一体何してるのよバカなの!」

 至極まっとうな突っ込みに返す言葉も無い。

 とにかく下着とスウェットだけを何とか引っ張り出し、

「どうぞ」

 そう声をかけると、

「助けてもらった恩が無ければ、それこそ警察に通報してるところよ」

 黒ずくめでないとかなり印象が違うが、それでもご対面のせいかとらの顔をまっすぐ見られないその顔つきは、間違いなく今朝の女性だ。

「書いてあることは本当だったのね」

 こうして私服姿を見ると、まだ少女の面影が残る年齢かもしれない。

 彼女はそう言うと、着ているパーカーのポケットから財布を取り出した。

 それは紛れもなくとらの財布で、もっと言えばあまりサイズの合っていないパーカーとジャージのボトムスは、とらの物を着ているらしい。

 とらの視線に気付いたのか、少し決まり悪そうに眉根を寄せる。

「……男物なら変な人に絡まれにくいと思って、服を借りたわ」

「あ、ああ、そう」

 服とは着る人間が違うと、ここまで印象が変わるものか。

 とらが着ても野暮ったさが全開になるだけなのに、彼女が着るとちょっとしたファッション雑誌のカジュアル特集ページのようなことになる。

 人と話すときにはうつむきがちになるものの、整った目鼻立ちは美しく、この格好で外を歩き回っていたら、全く別の理由で絡まれそうだった。

 もちろんこれ以上機嫌を損ねる意味もないので黙っていたが。

「それと、これ返すわ。中、改めて。今コンビニで、五百円だけ借りたけど」

 パーカーのポケットから取り出されたのは、とらの財布だった。

 見ると彼女が持っている袋には、コンビニ弁当が入っていた。

「ああ、いや、それくらいはいいんだけど……どうして普通にレンジ使って弁当温めようとしてるんだ」

「外で待ってたらぬるくなっちゃったからよ」

「あ、そう」

 女性は自然にとらの部屋の電子レンジに、少し角が凹んでしまっている、カツカレーらしいコンビニ弁当を入れて温め始めた。

 安物の電子レンジからはカレーの香りが漂い始め、とらは急激に空腹を意識する。

「あっ! スプーン入ってない! ちょっとスプーン借りるわよ」

 だがそれはそれとして、勝手にカトラリー類を漁っている少女にそのまま黙ってカツカレーを食べさせるわけにはいかなかった。

「おい、あのさ」

「あ! そうだ!」

 話しかけようとしたところを明確に遮られた。

「突然あんなことされたから言いそびれるところだったわ。いくらあなたが真冬に粗末なものをそのままにして外に出るようなモンスターだったとしても、言うべきことは言わないと」

 女性はとらに向き直ると、美しい姿勢で頭を下げた。

「今朝は助かったわ。改めて感謝するわね」

「前置きで全部台無しだ! ……ってそんなことよりも……!」

「あ、できた」

 今度はレンジのピー音がとらを邪魔する。

「悪いけど、朝から何も食べてないから」

「……どうぞ」

 有無を言わさぬ語気に押され、とらは頷く。

 女性はレンジの中から危なっかしい手つきで熱々のカツカレーを取り出すと、とらの家の狭苦しいダイニングに置かれているテーブルの上に放り投げるように置き、椅子に座ってもりもりとカレーを食べ始め……ようとして、最初の一口目で、舌を火傷したのか目を白黒させながら百面相をし始める。

 とらは自分の部屋なのに妙に居心地の悪さを感じながら、何となく向かいに座った。

「……えっと」

「アイリス」

「え?」

「アイリス・イェレイ。私の名前」

「アイリス、アイリスか。俺は……」

「ユラ・トラキ。財布の中の解説書、自分で書いたんでしょ。わざわざゴミ袋まで持ち歩いて。だからここに連れてくることができて、こうやって元に戻れたんだから」

「い、いやそりゃまぁそうだけど……問題はそこじゃなくて」

「何よ。灰になったことを言ってるなら、灰を集めてるとき手がべたべたして気持ち悪かったけど、慣れてるわ」

 悪意が無くとも、そしてたとえ真実だったとしても、若い女性から面と向かって『キモチワルイ』と発声されるのは、どれだけ人生経験を積んでも堪えるものだ。

「いやいやいや?」

 それ以前に、人が目の前で灰になるのを『慣れている』とはどういうことなのか。

 第一それを今日の朝食のメニューを話すように、カツカレーを食べながら平然と言ってのける彼女は、一体何者なのか。

 そうこうしているうちに、アイリスはあっという間にカツカレーを食べ終えてしまったらしく、満足そうに息を吐いた。

「う……」

 その様子を見て、今度はとらの腹が鳴った。

 そう言えば、今日のとらはアイリスと同じく『朝から何も食べていない』状況だった。

 部屋に残るカレーの香りとアイリスの食いっぷりにとらの腹が鳴り、当然のようにアイリスもそれを聞きつける。

 そしてこの奇妙な女性は、蒼い瞳で真っ直ぐとらを射貫きながら、口元に付いたカレールーでそのミステリアスな雰囲気を全て台無しにして、言った。

「でも、吸血鬼もカレーの匂いでお腹を鳴らすとは知らなかったわ」

 太陽の光を浴びて灰となり、闇とともに目を覚ます。

 人の血を吸い、超常的な力を発揮する。

 とらは、本物の吸血鬼であった。

「俺も何か食う。確か、カップラーメンの買い置きがまだ残ってたはずだ」

 そう言って立ち上がったとらの背を見たアイリスは、自分のカツカレーに目を落とし、苦笑した。

「吸血鬼も、カップラーメン食べるのね」

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