第一章 吸血鬼は朝帰りできない 3

「お前、まさかっ!」

「ずっと、ずっと我慢してたんだ! でももう無理なんだ!!」

 上顎と下顎に、とても人間とは思えぬ鋭い犬歯。

 眼鏡の奥に光る、赤黒い光。

「人間の女の血を飲みたいんだよおおおお!! そうでないと俺はああああああっ!」

 思いきりとらを殴りつけてくる力は、そのそうからは信じ難い威力でとらを打ちのめした。

「ぐっ!!」

 脳が揺れる。大男の半分も質量が無さそうなのに、的確にとらの動きを封じてくる。

 衝撃一つ一つは、とらの意識を奪うほどではない。だが。

 体が感じる気温が、高くなる。

 朝が迫ってきている。

 暴力よりも、死よりも、その『面倒』がもたらす恐怖が頭をよぎった瞬間だった。

「んがっ!」

 軽い苦鳴とともに唐突に覆いかぶさる力が消え、とらの視界を『夜』が横切った。

「大丈夫ですか!」

 明瞭な日本語とともに、夜の流星の如くに……。

「……ハンマー」

 黒ずくめの女の右手に握られた白銀のハンマーが振るわれた。

 日曜大工に使いそうなサイズの、とらの家の戸棚にもある、だが、明らかに尋常ではない光を放つ精緻な彫刻が施されたハンマーだ。

「う、ぐぎぃ……!」

 全身を圧迫する圧力が消え、飛び起きたとら

 見ると小男が少し離れた暗闇で、額を手で押さえながらこちらを睨んでいる。

 その手の隙間からこぼれているのは、血ではない。

 とらもよく知っている、白く薄汚れた粉末状のそれは『灰』だ。

「「逃がすかっ!!」」

 とらと女の声が重なった。小男が背後の陰に溶け込み逃げようとしたからだ。

「クソっ!!」

 小男はすぐに身を翻し、空いている方の手をこちらにかざした。

 その爪の先が突如赤く光り、赤く細い糸状の何かがとらと女目掛けてほとばしる。

「マズい! あれは……っ!」

 とらは鞭のようにしなる赤い筋が『血』の筋であることと、鋭い切れ味を持っていることを知っている。

 それを今目の前の女に知らせる手段も時間も無かった。

 だが女は、

「せあっ!!」

 およそ精密な動作をするのには不適切と思われる白銀のハンマーで、その血の筋を弾き飛ばした。

「マジかよ」

 とらもそうだが、男も驚いたようだ。赤い筋を女に集中させようとするが、女は鋭い身のこなしとハンマー捌きでその全てを回避する。

「クソクソクソクソ! お前まさかっ!!」

「観念しなさい! もうあなたが逃げられる暗闇は無いのよ!」

 民家のブロック塀に小男を追い詰めた女がそう宣言した瞬間、とらは女と小男の間に割り込み、女をかばった。

「危ねぇっ!!」

 小男が放った血の筋の一端が、地面に転がっていた無数の小石を粘着させていた。

 小男は指をほんの僅か動かして、いかなる魔法か、それらを爆散させる。

「っ!!」

 とらは咄嗟に女の顔と目をかばうが、それでもかばいきれなかった彼女の額を、弾丸のように小石のつぶてが掠めた。

「あっ!」

 腕の中で女の苦鳴が響く。女の額から、派手に血が飛び散る。

 そしてそれがとらの口元にも、飛んだ。

「へ、へひひ……」

 してやったりという様子で弱々しく笑う小男の声が耳を打った瞬間、とらは、 

「この野郎、嫌なことさせんじゃねぇよ」

 頭に血が上った。

 とらは指で頬に付いた赤い染みを拭い、それを口に軽く入れた次の瞬間、とらの姿は虚空に溶けた。

「なっ!」

「ひっ!!」

 女はもちろん、小男もそれを見て悲鳴を上げる。

 とらはそのとき既に、男の背後に実体化していた。

「気のせいだよ。酔っぱらってんだろ」

 虚を突いたわけでも超スピードを出したわけでもない。

 文字通りとらの体が黒い粒子となって空中に掻き消え、小男の背後に瞬間移動したのだ。

 とらはそのまま小男の首に手を回し、

「時間考えろバカ野郎」

 自らの瞳と、小男の首を掴む掌を赤く光らせた。

 それだけのことで小男の目から邪悪な光が消え、気絶したようにその場に倒れ伏す。

 それと同時に、

「う……ああ……」

「げ……お……」

 連れの二人の男が目を剥いて前夜の酒宴のものと思しき色々をその場に吐き戻した。

「いくらなんでも態度が妙だと思ったが、そういうことか」

 恐らく大柄な男達は、この小男の『目』に思考を束縛されていたのだろう。

「あんたら、こいつの知り合いか?」

「知り合い…………いや、昨夜、居酒屋で初めて……」

 とらは男達の言い訳を適当に聞き流し、大柄な男の懐に手を伸ばす。

 背広の内ポケットには名刺入れが入っていて、その中の一番たくさんある名刺と男を見比べた。

「なるほど。あんたらみたいな手合いを見つけて、それを隠れ蓑にしてきたってことか」

 名刺には、誰でも知る大企業の名が記されていた。

「あいつにいいように使われちまったことには同情する。でもな、あんた達にさっきみたいな気性があんのは事実だ。俺達は魔法使いじゃない。無い心は作り出せないからな」

 とらは男達の前にしゃがみ込むと、威嚇するように瞳を赤く光らせ、軽く手を払った。

「もう行け。始末は俺がつけといてやる。これに懲りて二度と深酒なんかするな。普通の人間なら、跳ねのけられるはずなんだからな」

 あらかた吐き戻したらしい男達は怯えた顔で頷くと、襲い掛かっていた女性には目もくれず、おぼつかない足取りで早朝の雑踏へ這う這うの体で逃げてゆく。

「ったく、時間がねぇってのに……あっ!」

 とらは忌々し気に空を見上げながら、地面に落ちてしまったスリムフォンを恐る恐る取り上げた。

 そして想像通りヒビが入っている画面に顔を顰めながらも、何とか電話機能を呼び出す。

 顔を上げて耳に電話機を当てるその瞳からは既に、赤く禍々しい光は消えていた。

「もしもし。ああ、朝早く悪いが急ぎだ。自制の効かねぇバカを止めたが、気付くのが遅れて警察に通報しちまった。こいつは時間的に警察が来る前に灰になる。俺の携帯の現在位置見てくれ。そこにいる。ああ、それじゃな」

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