第一章 吸血鬼は朝帰りできない 2

 どこかのビルの屋上看板に掲げられている温度計は冬の早朝らしく1℃となかなかの値を出していたが、とらの体感温度はどんどん上昇する。

「予報ズレてんのか! もしもし! もしもし! 多分事件です!」

 少しずつ光の白さが増す空を憎々し気に睨みながら、とらはすぐに『現場』に到着した。

「クソ、マジかよ!」

 耳に当てたスリムフォンは既に一一〇番に繋がっているのに、とらは悪態をいた。

 アスファルトの地面に倒されている若い女性と、それをスーツ姿の男が三人で囲んでいる。

 スーツの男達は酒宴明け特有の乱れた服装と足取りで、明らかに下劣な目的で女性を取り囲んでいることは明白だった。

「今女の人が襲われてます! 場所は区役所近くのコインパーキングの裏で……」

 明らかに異常な状況で、どんな事情であれ関われば恐ろしく時間を取られる。

 すぐさま警察に通報してその場を去るのが最善手のはずで、この現場に行き会った大人だったら百パーセントそうするだろう。

「あっ」

 若い女性はとらの姿を認めるなり、明らかに嫌悪感と恐怖に満ちた顔になる。

「ひっ……えっ……やっ……!」

 夜が固まって取り残されたような黒ずくめの服に気を取られて一瞬気が付かなかったが、怯えた瞳の色は青く、恐怖で振り乱された髪は金色だ。

 もしかしたらとらのことを、新たな暴漢と勘違いしたのだろうか。

「カモン、カームダウン! アイムジャストコーリングザポリス!」

 これまでそこそこ長く生きた人生の賜物で、カタカナながら言葉が口を突いて出る。

 相手が英語圏の人間かどうかも分からないし、最初に聞こえてきた悲鳴は日本語だったが、少なくともこれで、女性は自分一人が呼びかけられていると分かるはずだ。

 それだけで自分が暴漢でないと察してもらえればいいのだが、

 差し当たって問題は男達で、彼らもとらが邪魔に入ったとはっきり理解したようだ。

 ろんな目でそれぞれにとらを睨みつけてくる。

「今警察に電話中だって言ったんだよ! その人を離せ!」

「あぁ? ぁんだよぉ……」

「ケーサツだーあぁ?」

「け、警察っ!?」

 男達の反応は明確だった。

 一人はいかにも元運動部といった風情の大柄な男。一人は背が高くスマートと言えなくもないが、腹回りのごまかしがきかなくなっていそうな中年。一人は物理的にも精神的にも二人の陰に隠れて生きていそうな小男。

 立場の強そうな二人は挑むような眼でとらを睨み、小柄な男は怯えたように息を呑む。

「おいおい……」

 とらは困惑する。

 三人の男は見たところ思慮の浅いチンピラでも、暴力に慣れた職業といった手合いでもなく、どこからどう見ても、どこぞの会社のサラリーマンだ。

「シラけることすんじゃねぇーよ! さっさと消えろや!」

 問題なのは、立場の強そうな二人の気が際限なく大きくなっていることだ。

 大柄な男が肩を怒らせてとらを威圧するが、とらは毅然として睨み返した。

「悪気はなかったとか酒の勢いでとかは通用しないご時世ですよ」

「うーるーせぇっ!」

 時間稼ぎは色々な意味でしたくてもできない状況だが、それでも女性を少しでも落ち着かせるために声かけを続けようとしたが、大柄な男が手に持ったカバンを投げつけてきた。

「うわっ!」

 突然の凶行にとらは対応が遅れ、右手に握っていたスリムフォンを取り落としてしまった。

 スリムフォンはタッチ画面を下にして地面に落ちて、鈍く音を立てる。

 とらは決して威圧的な見た目ではない。

 身長は酔漢達と比べて小柄だし、ゆったりめの服を着ていることもあって着やせして細身の印象も与えているのだろう。

「……や、やばいですよお……」

 身内が他人に手を出したことに慄いたらしい小男は怯えた様子だが、大男は当然のように収まらない。

「うるせってんあおらぁあがまりこーさんのぶちょーだぞぇおいぃ!」

 邪魔された怒りも手伝ってかれつが回らない自己紹介をする男を、とらは睨みつける。

 深酒のせいでなく単純に日頃他人に対し威圧的に出ることに慣れている人間なのだろう。

 背の高い男も大柄の男に並んでとらに威圧的に向かい合う。

「つまり、お前が一番のクズってことでいいんだな」

 とらは大柄な男がドッジボールを横投げするように張り倒そうとしてくるのを受け止めると、無防備に開いた手の親指を取り、全力で内側に捩じり上げる。

「ぶあっ!?」

 張り手の勢いも手伝って大柄な男が思いきり体勢を崩したところに軽くふくらはぎの外側を小突いてやるだけで、元々足元のおぼつかなくなった男は簡単に地面に倒れ伏した。

 背の高い男は大柄の男が手も無く倒されたことに驚き怯む。

 大柄なだけに倒れる姿も迫力があったので、単純にビビってしまったようだ。

「あっ!」

 その隙に、とらは倒されていた女性の手を掴むと引っ張り上げて立たせ、左手を出して自分の背後にかばう。

 その間小男は、その様子を呆然と見ているばかりだった。

「な、何するんだ。こんなことして許されると……」

「どの口が言うんだよ」

 大柄な男の声に呆れたとらは、眉根を寄せて凄む。

「俺はお前らの会社の人間じゃないからお前らにビビることなんか一つもない。これ以上やるならお前らが社会的に死ぬくらい、本当に問題にするぞ。あれ見ろ」

 とらが指さしたのは、有料駐車場の支払機のすぐそばに立っているポールについている監視カメラだった。

「警察沙汰になればどういうことになるか、その酒で焼け付いた頭でも分かるだろ。それとも本当にトラ箱からブタ箱に行かなきゃ分からねぇか?」

「ぐ……」

 背の高い男は呻くが、倒された大柄な男が手足をもがかせて立ち上がろうとする。

「おい、走れるなら逃げろ、ちょっと面倒そうで……」

 背後の女性にとらが言った次の瞬間、

「危ないっ!!」

 背後にかばった女性の悲鳴とともに、黒い影がとらに襲い掛かった。

「なっ!!」

 大男の平手など比べ物にもならない強烈な力がとらの全身にのし掛かり、アスファルトの地面にしたたか背中を打ち付ける。

「うぐっ!」

「邪魔を……邪魔をするなよおおおおおお!!」

 二人の陰に隠れていた小男だ。

 髪を振り乱して全身のバネで飛びかかって来たその動きは、明らかに人間離れしている。

 そして常軌を逸した笑みを浮かべたその口の中には。

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