1章 なんで、真っ赤なんだ? 4

 ──なんだっ!?

 グラウンドからひびいた大声。そちらへ顔を向け、体が固まった。

 白球がひとつ、勢いよく、こちらへ迫ってきていた。雨のぱらつく中でも練習を続ける強豪の野球部、彼らが打ったファウル球かなにかか。

 直撃コース。あと一秒もしないうちに、自分の頭に当たるだろう。俺にはその予測をつけることしかできなかった。避けられそうにない。

 思考の片隅で、「自分がグラウンドに近い側を歩いていてよかった」とだけ思った。

 不幸中の幸いだ、翠香には当たらずにすむ──

「……ふんっ」

 バチィン、と。響いたのはそんな力強い音。

「え」

 俺の口かられたのは、悲鳴ではなかった。そもそも、ボールは俺に当たっていない。

「まったく! 部活にせいを出すのはたいへん結構ですが、くう、いえ、周囲を危険な目にわせるのは、感心しません!」

 俺から見てグラウンドの側へといつの間にか割り込んでいた翠香が、……。取り落すこともはじくこともなく、しかも片手だ。

 あっ、と彼女は声をこぼし、あわてたようにこちらへ振り返る。

「空也、どろとか飛びませんでしたか!?」

「……い、やいやいや! 俺の心配なんかしてる場合か! あんな勢いの野球ボール素手で……! 手、してないか!?」

 そんなことを言いながらも、俺はわかっている。それでも俺をおもんぱかってくれるのが、この幼なじみで。

 ……そして。

「な、……怪我をしていないか、ですって? っ心外です! たいへん心外ですよ空也!」

 翠香は、その形の良いまなじりをキッとげる。

「──なまりだまならいざ知らず! こんなやわっこい球っころひとつに! 吾道の女のきたえた右手が後れを取るとお思いですか!」

 ギチギチギチギチッと、翠香に握りしめられた野球ボールが悲鳴を上げた。

 ……そう。

 幼なじみを手厚く心配してくれる優しさを持ち、……常識から外れたすさまじい身体能力を誇る。それが、吾道翠香なのだ。

「…………やわっこい、って……それ硬球だよな……?」

「メロンパンにメロンも、カニパンにかにも入っていません。名前と実情は別です」

「たしかにカッパ巻きにもカッパは巻かれていないが、その理論はどうだろうなあ……」

「あ、でも空也は素手でボールを捕るなんてしてはいけませんよ! 危ないですから! というか泥はかかってないんですよね? 顔をよく見せてください、服も。大丈夫そうかな……」

「かかってないかかってない、だから俺じゃなくて翠香の方だって……。そりゃ翠香が強いっていうかなんていうか、規格外なのは昔からよく知ってるけどさ。ああ、服、ちょっと雨で濡れちゃってる……」

「わたしの服のことなんていいのです。……おっと、ボールを返さなければ!」

 くるりと翠香はグラウンドの方へ向いた。ちょうど野球部員がひとり、申し訳なさそうな様子でこちらへ駆けてきている。

「あのーっ、すみませんでしたーっ! お怪我ないですか!?」

「大丈夫です! いきますよー!」

「え? は、はい…………ええっマジか!?」

 パァン、という気持ちの良い音とともに、野球部員の驚く声が聞こえてきた。

 それも無理からぬことだろう。

 こちらから彼のところまでずいぶん距離があるが、翠香の投げた球はノーバウンドで届いたのだ。しかも、放物線をほとんどえがかず直線の軌道で。

 そしてなによりすごいのは、翠香に声を掛けられて野球部員が構えたグローブの中に、わずかもれず吸い込まれたことだろう。力だけでない、みつなコントロール。

「……お見事」

「吾道の女のたしなみです。いざというとき、そこらへんに転がる石でも不届きものの頭をくだけるように……!」

「すごいけど世界観がおかしいんだよ」

 ちなみに翠香は、別に冗談で言っているわけではない。

 彼女の家である吾道家は、明治の時代に事業をおこして財をしたが、元々は高名な武家だったという。

 その気風と伝統は今でもがれており、跡取り娘である翠香は、げいひやつぱんを叩き込まれているのだ。石のとうてきが武芸百般に含まれているのかどうかはわからないが。

「さて、これでよし、と。話を戻しますよ!」

「なんの話してたんだっけ? 衝撃映像で飛んだわ……」

「もう少し自分の体をいたわってください、というとても大事な話です!」

「人をかばって硬球を素手で捕ったあとになぜそれが言える……」

 なんてことをつぶやいてから、かんじんなことをまだ伝えていないのに気づく。

「ごめんその前に。翠香、ありがとう。おかげで助かりました」

「いえ、吾道の女が鍛えているのはこういうときのためですから!」

 翠香はニコリと笑って、すこしだけ汚れたらしい自分の手を、取り出したハンカチでぬぐった。

 その仕草は上品で、硬球を素手で受け止めた先ほどの光景が、噓みたいに思えてくる。

「……いいですか、空也はもうすこし自分の体をいたわってください。……無理をしすぎなんです、人からの頼みとあれば、いつも」

「や、俺は絵を描くのが好きだからやっているだけで……」

「では、今学校で取りかかっている絵は、あなた自身のために描いているものですか?」

 それを言われてしまうと、歯切れよく返すのが難しい。

「あれはあれで、俺が描きたい絵のひとつではある……んだけど」

「自発的に描いているというわけでもない、そうですよね? だってあれは、また頼まれて描いているものでしょう? ……今度はどこですか? この前はたしか病院でしたか」

 翠香には、こちらの事情なんてすべてお見通しだ。観念し、うなずいて答える。

「今描いているやつは、孤児院……って今は言わないんだっけ、児童養護施設におくるんだ。ほら、国道から少し脇に入った先にあるところ」

「ありますね、……うん、そうですか。空也、それはとても素敵なことです」

「そうだといいなと思ってる」

 俺が描いている絵は、多くが人に頼まれてのものだ。依頼主は、保育園や幼稚園、児童館。それから、病院や児童養護施設など。

 もう数十件ほどこなしている。

 きっかけは、あるとき、みの医者から「患者さんを安心させられるものが、なにかあったらいいんだけど……」という悩みを聞いたことだった。

 できることはないかと考えて、観る人が安心してくれるようないやしの絵というコンセプトで描いたものを贈ったら、とても喜ばれた。

 待合室に飾ったその絵は、不安な気持ちが噓みたいに落ち着くと、患者たちからとても好評で、実際にずいぶん効果があったらしい。

 それから評判が評判を呼び、不安を抱えやすい人々が集まるような施設から、次々と絵を頼まれるようになったのだ。

「コンクールの絵を後回しにして、自分の体の不調も押して、……あなたは、昔からずっとそういう人です」

「……親がいないさびしさも、病気で苦しい気持ちも、すこしはわかるから。力になれるならそうしたい」

「それは、とてもすばらしいことです。空也が描いたものほど人の心に響く絵を、わたしはひとつも知りません」

 話しながら、ふたりで校門を抜け、ゆるやかな坂道を行く。

「大げさに言っているわけじゃなくて、わたしを含め、救われた人はこれまでたくさんいました。これからもいるでしょう。贈られた絵はみんな、多くの人に安らぎを与えているはずです」

 でも。

 そう言葉をはさんで、翠香は静かに、とても真剣な声で言う。

「それは、そのためにあなたが自分を犠牲にしなければいけない、なんてことじゃないです。絶対に。……おねがいだから、ご自愛を」

「……ありがとう。できる限り、気をつけるよ」

「そうしてください!」

 つくづく思うが……俺じゃなかったら、ちょっと問題だったよな。

 絶対勘違いするだろ、こんだけ優しくしてもらったら。

 翠香は誰に対しても面倒見がいいが、俺については、他と違う特別な気配りをくれる。

 もしかして、異性として好かれてるんじゃないか……普通なら、そんな風に思ってしまっても仕方のないくらいに。

 だが俺は、翠香が向けてくれている気持ちが、恋愛感情でないことに確信を持っている。

 すばやく意識を集中し、翠香を『見る』。彼女から現れた霞は、濃い緑色。

 うん、これも変わらない。ずっとこの色だ。


 ──俺の眼には、人間の感情が色で見える。


 より正確に言えば、ある人間が目の前の相手に対して抱いている気持ちを、色として認識できるのだ。

 例えば、友情であれば緑、敵対心であれば紫、けんかんであれば青。そして、愛情であれば赤が見える。

 誰が誰のことをどう思っているのか、それが俺にはわかってしまう。

 これは別に超能力のたぐいではなく、あくまで観察力の生んだ共感覚シナスタジアの一種だろうと、俺は思っている。

 仕草や表情、口調や声音などから無意識に人の感情を推し量っており、それを色として自分の頭が認識しているのだ、と。

 観察力には自信があるし、その結果を色で捉えるのも納得している。だって、俺は絵描きだ。

 世界の姿をよく観察し、それを色で描き直すことに人生をささげている人種なのだから。

「空也? どうしました? ……あ、寒いですか!? まさか体調とか崩して……」

「いや、だいじょうぶだいじょうぶ。悪い、ちょっと考えごとしてただけ」

「そうですか」

 ホッと胸をなでおろす翠香。

 彼女から見える緑は友情を表し、そのあまりに深い濃さは想いの強さを示している。

 翠香は、昔から一度も変わることなく、揺るぎない友情を向け続けてくれているのだ。

 周囲に勘違いされることも多いのだが、翠香が俺にれんや愛情を抱いているなど、色を『見る』限りまずありえない。

 そしてそれは、ありがたいことでもあった。

 翠香に想われるのが迷惑だとか、そういうことじゃない。そうじゃなくて、翠香がどうこうじゃなくて、俺は……。

 愛情そのものが、怖いのだ。

 それはかつて、俺から両親を奪っていった、恐るべきおぞましい化物だから。

 ……しかし、だとすると。

「空也?」

 久城さんが隣にいるのは俺にとって危険で…………いやでも久城さんが赤色なのは、あれはやはり、さすがになにかの間違いなんじゃ。

「空也、どうしました?」

 自分に見える色を疑うのは、俺にはどうしても感覚的に難しい……とは言え、あればかりはさすがに。

 いや、しかし、だが……うーん……。

「空也!」

「おっと、ああ、悪い悪い」

「もう、さっきから変ですよ? そういうのは、考えごとじゃなくて悩みごとと言うんです!」

「ごもっとも。でも悩みごとって言ったら失礼か」

「失礼? では人についてのことなんですね」

 ドキリとするくらい、ときおり翠香は異様に鋭い。

「どなたですか? ……とは、無理には聞きませんが」

「ああ、うん、まあ俺にもいろいろあるんだよ。大丈夫、トラブルとかじゃないから」

「ならいいですが……空也」

 翠香は、ニッコリと笑う。

「わたしはいつでも、あなたの一番の味方です」

「ああ、昔から助かっているよ」

「そう言っていただけると。だから、……もしなにかあったら、まずはわたしに相談してくださいね!」

 つくづく、翠香は頼りになるし、ひどく優しい。

 友だち想いの、とても良い子だ。俺はそう、信じて疑わないでいる。

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