1章 なんで、真っ赤なんだ? 2

「本人がそう言うならいいんだが……」

「ええ。それに、会話をまったくしないわけじゃないし。ほら、今、宮代くんとしているもの」

「十一日ぶりにな。話そうと思えばこうやって普通に話せるんだからそうすりゃいいのに」

「宮代くん、『やろうと思えばそれなりにできる』と『二度とやりたくないほどに疲れる』はたがいに独立なの。両立する」

「それはたしかに」

「でしょう」

 はあ、と久城さんはだるげにため息をいた。美貌とプロポーションが、そのぐさに色香を乗せる。

「ああ、そう、つまりわたしは今、宮代くんにお礼を言いたいの。宮代くん以外のクラスメイトと話したのは、もう六十二日前になるわ」

「夏休みと冬休み足したぐらいあるぞそれ」

「わたしがそれほどまでに人と会話せずにんでいるのは、ひとえに宮代くんのおかげ。クラスのみんな、わたしへの連絡事項は宮代くんに伝えるでしょう」

『隣の席だし、たまに話してるじゃん。これ伝えといてくれ!』──そんな風に頼まれるのは、たしかにたびたびあることだ。

 自分で伝えればいいのにと言っても、誰も彼も『いや、ちょっとほら、あのー、ね……緊張するし……』と、歯切れ悪く苦笑する。

「久城さんがクラスメイトとすべき会話を、俺が代わりにやっちゃってるってことか」

「やってくれている、と考えてほしいわ。いろんな人間と都度都度話すよりも、宮代くんという特定の人間とさえコミュニケーションを取ればいいという方が、はるかに楽。きわめて効率が良い。学校生活におけるさいぜんしゆよ」

 久城さんはそこで言葉を切って、顔をはっきりとこちらへ向けた。美しいひとみが俺をとらえる。

「いつもありがとう、とても助かっています」

「おお……」

「この気持ち、いつか伝えなきゃ伝えなきゃと思っていたんだけど……ごめんなさい、すごく面倒くさくて」

「ああ……」

 最後で台無しだ。思ったが、言わないでおく。

 こちらのらくたんをどう考えたのか、彼女はそこで「安心してちょうだい」と言った。

「わたしも、お礼の言葉だけで済ますほど恥知らずではないわ。きちんと対価は用意している」

「対価?」

「宮代くんがわたしの代わりに連絡事項を受け取って、こちらへ伝えてくれたなら、その回数×一万円をわたしが宮代くんへ支払うのはどうかしら」

「どうかしてると思う」

「あ、定額制サブスクリプシヨンの方が好み? 今風ね。じゃあ毎月五万円でどうかしら」

「そういうことでもない。また金額感が生々しいな」

 冗談ではなさそうなトーンで言っているので、しっかり拒否しておかなければならないだろう。

「久城さん、そういうのはよくないと思うんすよ」

「金銭のじゆじゆが?」

「その言い方もダメな感じを強めてる」

「金銭ではダメだというのなら………………いえ、ごめんなさい、体はちょっとかんべんしてもらえると助かるわ」

「そんなたいなことは望まない」

 同級生の女子に体での礼を求めるほど、俺はごうけつではない。

「お礼っていうなら……そうだ、かなり前の話だけど、モバイルバッテリー貸してくれただろ、俺のスマホが電池切れそうになったときに。あれで十分だ」

「あれは……ううん、なんでもないわ。だけど、あれだけじゃ」

「あと久城さん、俺と話すとき、いつも『ついでに』って言ってなんか耳寄り情報とか教えてくれるし。欲しかったもののセール情報とか、おもしろい展示やってる美術館のチケットの限定販売情報とか、そういうの」

「…………」

「めっちゃありがたいからさ、それでトントンにしよう。なんであんな俺にピンポイントでさるような情報を知ってるのかはわかんないけど──」

「年がら年中ネットをさまよっているような社会不適合のクズ女だからいろんな情報を持っているのよインプットの量がたくさんあるのインプットの量がそれだけに過ぎないわそういうタイプの社会不適合者なのそれだけです」

とうとつに重いぎやくをそんな早口で投げてこないでくれ、受け止め切れない」

「あと株とかもやっているから株とかそういう株とかやっていると情報がたくさん入ってくるの重要だから情報が株とかは」

「わかったわかったわかった! 悪かったって、わかったから! 久城さんってたまにめっちゃ早口になるよな……」

「早口である方が単位時間あたりの送信情報量が増えるから効率が良いの」

 そう言う彼女は表情こそクールだが、手が落ち着きなく動いている。

 んではいけない地雷のようなものを踏んでしまったのかもしれない。

「とにかく、お礼っていうならそういうのが一番助かるよ」

「……そう。まあ、わたしのあんねいな高校生活のため、今後ともよろしくお願いします。……ところで、やっぱり美術館のチケット情報、うれしいものなのね。ああいうのに興味があるのは、さすが絵描きさんという感じ」

「一応は」

「ごけんそん。日本一の天才高校生絵描きさんと言った方が正確かしら」

「やめてくれ……。去年はたまたまだ」

「そう? ふうん。芸術のことはわからないから、どうだか知らないけれど」

 言いながら、久城さんはカバンを手に取って立ち上がった。

「言うべきことも言えたし、本日分のコミュニケーションエネルギーがからになったので、わたしは帰るわ」

「そっか。……さよなら、また明日」

「さよなら。また十日後くらいに話しましょう、その必要があれば」

「隣に座ってるんだし、必要なくても雑談くらい、してもいいんじゃないの?」

「わたし、そういう生き物じゃないから。ごめんなさい」

 久城さんは、その長い足で教室の出口へ向かう。彼女が俺の前を横切るとき、ふわりと甘い香りがした。

 久城さん、か。

 遠い人だ。

 たまたま席が隣になったというだけで他の生徒よりは話をするが、それでも十日に一回程度。彼女の話し方もなく、表情もクールだ。

 人間嫌いの天才少女、それが久城紅だ──そのはず、なのだ。

「……あのさ、久城さん」

「なに?」

 教室の出入り口で、久城さんは立ち止まって振り返った。だるそうな仕草、つまらなそうな表情で。

 今、教室にはもう他の生徒はいない。彼女が意識を向けているのは、間違いなく俺だけだ。

 グッと集中し、彼女を『見る』。

 視界の中、そして久城さんの体から現れた霞の色は……。

「宮代くん? どうしたの?」

「……や、なんでもない。また明日」

「……? ええ、また明日」

 やわらかな長い髪をらして、久城さんは去っていった。

「…………なんでだ?」

 頭を振って、俺は目頭のあたりをむ。

 前に見たのは勘違いだったかも、見間違いだったかも……そう思いながら、いつ何度確認しても、結果は同じ。

 こちらへ意識を向ける久城さんから現れるのは、この世に数多あまたある色たちの中で、もっとも俺が恐れているものだ。

 なんで、なんでだ? なんで……。


 なんで、なんだ?


 俺には、まったく理由がわからない。

 彼女の名前と同じ色、血のように濃く鮮烈な赤。

 それは、人間嫌いの素っ気ないクラスメイトから現れるはずのない、文句なしに脈アリと判定される──恋と愛の色なのだ。

 自分の『』がまちがっていなければ、俺は、久城さんに恋愛対象として好かれている、ということになってしまう。

 ……どう考えたってありえないはずだ。そもそも、そんなに話すわけでもないんだし。なにかの間違いだ、きっとそう。俺の眼も、焼きが回ったか。

「…………」

 それに。

 もし仮に、あの色がほんとうなのだとしても、俺は、恋愛は──

「……や、もう行こう」

 頭をひとつ振って、俺は自分の席から立ち上がった。

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