第二章 森の病魔 その3

 ゴブリンの足跡があった空き地まで戻り、さて森に足を踏み入れようとしたところで、ミラの肩をテリオスが摑み止めてきた。

「ちょっと待ってください。『盾の加護シールド・プロテクシヨン』」

 呪文を唱えたかと思うと、テリオスのてのひらから放たれた光が、ミラの全身を包み込んだ。

「これでゴブリンから攻撃を受けても平気ですし、草木でを切る事もありません。毛ほども傷をつけないと、トリオ君と約束しましたからね」

「ありがとうございます」

 お礼を言うミラの前で、テリオスはもう一つ呪文を唱えて、くうから青白い金属製の杖を取り出す。

「あと、これも渡しておきましょう。特に魔術はかかっていませんが、軽くて丈夫なので武器として役立ててください」

「わー、れいですね」

 鏡のようにみがかれた杖を手に取って、ミラは感動の声を上げる。

 そんな彼女の頭に乗っていた黒猫が、いつもの意地悪な口調でつぶやいた。

「ミスリル銀の杖ね。金貨二千枚は下らないしろものだから、くしたりしたら大変よ」

「金貨二千枚っ!?」

 銀貨すらろくに使った事のないミラには、その具体的な金額は想像もつかない。

 ただ、とんでもなく高価な物だという事だけは分かった。

「せ、先生、これ受け取れません!」

「いや、同じ物を十本ほど持っているので、気にせず使ってください」

 ミラが震える手で返そうとしたミスリルの杖を、テリオスは苦笑を浮かべて押し返してくる。

 そして反論の暇を与えないとばかりに、先陣を切って森の中に入っていった。

「こういう時、骸骨は虫に刺されないのが便利でしてね」

 そんな冗談を口にしつつ、昼間でもなお薄暗い森の中を、迷う様子もなく突き進んでいく。

 ミラはその背中を見失わないように追いかけながら感心する。

「先生はゴブリンの来た道が分かるんですね」

 森の端ならともかく中に入ると、生い茂った草木が多すぎて、ミラの目では足跡を見つけられなかった。

 だが、熟練の狩人かりゆうどならば、わずかに折れた木の枝や草から、獲物のこんせきを追えると聞いた事がある。

「ひょっとして、狩人の経験もあるんですか?」

「まぁ、狩りは得意でしたね」

「色々と狩ってたわね。色々と」

 あいまいに頷くテリオスに対して、黒猫が意味深に言葉を繰り返す。

 それをミラが問う前に、彼は早口で説明した。

「ただ、今は狩人のように痕跡を見分けているわけではありません。僅かに残ったゴブリンの魔力を追っているのです」

「魔力ですか?」

 言われてミラは目を細めてみるが、それらしきものは何も見えなかった。

「う~、分かりません」

「ゴブリン自体の魔力が弱いですし、時間がって薄れていますからね。もっと修行を積めば分かるようになりますよ」

 項垂うなだれるミラの頭を撫でてなぐさめてくれながら、テリオスは授業中のような口調で語り出す。

ちよう良い機会ですから説明しておきましょう。魔物と動物の違いは、魔力のあるなしで決まります。人間への害意や強さは関係ありません」

「えっ、そうだったんですかっ!?」

 ミラは驚いて目を丸くする。魔物とは人を襲う恐ろしい存在の事だと思っていたのだが、必ずしもそうではないらしい。

「例えばドラゴンなどは巣穴にでも入らない限り、人間を襲う事は稀ですが、膨大な魔力を持っているので魔物です。また、クマなどはゴブリンなどよりはるかに強いのですが、魔力がないのであくまで動物にすぎません」

「なるほど。魔力がないと動物、魔力があれば魔物なんですね」

「はい、そういう事です」

 納得して頷くミラに、テリオスはさらに説明を付け加えてくる。

「動物にも魂はありますが、魔力を生み出す事はできません。仮に突然変異で魔力を生み出せるようになったとしたら、それはもはや魔物という事になります」

「それじゃあ──」

 普通の人と違って魔力がある私は、魔物と同じなんですか?──と喉元まで出かかった言葉を、ミラは必死に呑み込む。

 けれども、テリオスはそれをさつしたのだろう。再び彼女の頭を優しく撫でてくれた。

「残念ながら世の中には、魔術師を魔物と同じように恐れる人がいます。けれども忘れないでください。優しい心をなくさない限り、貴方は間違いなく人間なのです」

「はい」

 テリオスの気遣いが嬉しくて、ミラは微笑み返す。

 けれども、胸のかたすみに一つの疑問が浮かんでいた。

 ──優しい心をなくしてしまったら、人間じゃないんですか?

 極悪人を『人でなし』と形容する事があるように、人間らしい心をなくした者は、人間のはんちゆうから外れてしまうのかもしれない。

(人じゃなくなる……)

 それがどんな意味を持つのか、知りたいけれども考えたくない、相反する感情に揺さぶられて黙り込むミラを、また落ち込んでいると思ったのだろうか、テリオスは歯を鳴らして陽気に笑ってみせた。

「まぁ、世の中には私のように善良な魔物もいますからね。魔物扱いされたとしても気にする事はありませんよ」

「自分を善良と言う奴は、と聖職者だけだから気をつけなさい」

 偉そうに胸を張るテリオスを、黒猫が尻尾しつぽで指しながら忠告してくる。

 そんな二人の掛け合いがしくて、ミラは思わず吹き出した。

「ふふっ」

「元気が出たようで何よりです。ただ、ここから先はお静かに願います」

「それって──」

 驚いて声を上げそうになった口を、ミラは慌てて手で押さえ、頷いて了解を示す。

 テリオスもそれに頷き返し、音を出さないように注意しながら進んでいった。

 そうしてしばらくすると森が少し開けて、山の斜面に開いた黒い洞窟と、その前に座り込んだ人影が見えてくる。

 腰巻きしか身につけておらず、耳がとがっており頭に髪が生えていない、緑色の肌をした小柄な人型生物。

(あれがゴブリン……)

(はい、ごく普通のゴブリンですね)

(──っ!?)

 頭の中にテリオスの声が響いてきて、驚いて叫びそうになった声を、ミラは必死に呑み込んだ。

(すみません、これはお互いの思考を伝える『念話テレパシー』の魔術です。事前に説明しておくべきでしたね)

きわめると相手の考えを一方的に読み取るとか、ゲスな真似も可能になるわよ)

 謝罪するテリオスに続いて、黒猫が悪い顔で思考を送ってくる。

 それに声をおさえて笑ってから、ミラは改めてゴブリンを見つめた。

(ごく普通のって事は、普通じゃないゴブリンもいるんですか?)

(えぇ。人間ほどではありませんが、ゴブリンも個体差の激しい種族でして、戦士ウオリアー王者キングと呼ばれる強力な固体が存在します)

(そういうのは人間の大人くらいデカいから、一目で分かるわよ)

(なるほど)

 ミラは頷いて洞窟の前にいる固体を観察するが、身長は彼女とさして変わらない。

 自分でも倒せるとテリオスが言っていたのも、うそではないと感じられた。

(ではミラさん、あのゴブリンを倒してきてください)

(えっ、私一人でですか?)

(はい。そうでないと訓練になりませんから)

 戸惑うミラの頭から黒猫をどかしつつ、テリオスはそっと背中を押してくる。

(私が、ゴブリンを倒す……)

 木の陰から窺うこちらにまだ気がついていないのか、ゴブリンは座り込んだまま呑気に欠伸あくびをしている。

 それを自分の手で倒す──殺さないといけないのだ。

(大丈夫、きっとできる)

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