死──命あるものには誰にでも等しく訪れる、生の終わり。
それは十二歳を迎えたばかりである白髪の村娘・ミラであろうとも例外ではない。
「はぁ、はぁ……」
真っ暗な部屋の中で、粗末なベッドに横たわったまま起き上がる事もできず、苦しげに呼吸を繰り返す。
そんなミラの細い体には、まるでカビのような緑色の斑点がいくつも浮かび上がっていた。
緑腐病──体のあちこちに緑色の斑点が現れて、激しい熱と痛みによって体力を奪われていき、最後には体の末端が腐り落ちていく死の病。
最高位の治癒魔術師でもなければ治せないほど強力で、さらには空気を伝って感染するという、恐るべき伝染病である。
「お母さん……」
ミラは朦朧とした意識の中で助けを求める。
だが、彼女の母親が看病に現れる事はなかった。
何故なら、母親は数日前に「街まで助けを呼びに行ってくるからね」と言って出て行ったきり、二度と帰ってこなかったのである。
病床の娘を見捨てて逃げたわけではない。緑腐病に冒された体に鞭を打って、必死に助けを求めに向かった途中で、伝染病の拡大を防ぐために派遣されていた王国軍の手によって殺されていたのだ。
このエリュトロン王国は人口十万人にも満たない小国であり、緑腐病を治療できるほど高位の魔術師がいなかったため、感染の疑いがある者は全て始末して、被害を最小限に抑える他に方法がなかったのである。
もちろん、一介の村娘にすぎないミラはそんな事情を知る由もなく、母親が先に冥界へ行った事すら知らず、ただ激しい苦痛に蝕まれ続けていた。
「誰か……」
助けを求める少女の元に、他の村人達が駆けつけてくる事もない。
八十人ほどが暮らしていたこのクリオ村は、緑腐病によって既に全滅しかけており、もう動ける者が残っていなかったのだ。
体力のない老人達が真っ先に倒れ、助けを呼びに向かった村長達は王国軍によって殺されてしまい、それを知って森を通り逃げようとした若者達は、飢えた野生動物や凶悪な魔物に襲われて、やはり帰らぬ者となってしまった。
絶望して自害する者も現れるなか、懸命に看病して回っていた親達も倒れてしまい、最後には若く生命力があるため余計に苦しむ事となってしまった、ミラのような子供達だけが残されてしまったのである。
それも夜空に浮かぶ月が落ち、太陽が顔を出す頃には、ほとんどが冷たくなっているだろう。
「私は……」
発熱と痛みで朦朧とした意識の中で、ミラは弱々しくベッドを摑む。
その手に込められていたのは、迫り来る死への恐怖か、それに対して何もできない悔しさだったのか。
自分でも分からぬまま、目蓋を永遠に閉じようとしたその時、玄関扉の開くキィィという音が響いてきた。
「お母さん……?」
ミラは涙を零しながら、最後の力を振り絞って玄関の方に目を向ける。
だが、月光を背に浴びて立っていたのは、待ち焦がれていた母親の姿ではなかった。
それどころか人間ですらない。敢えて一言で表すならば、そこには『死』が立っていた。
黒いローブを羽織っているため、全身が夜の闇に溶け込んでいるなかで、白い顔だけが鮮明に浮き立っている。
ただ、その顔には眼球がなく、鼻がなく、唇も、耳も、眉も、髪も何もなかった。
真っ白い骸骨。生命が失われた死の象徴が、眼窩の奥で光る青白い炎のような目で、彼女を見つめてきたのである。
「あぁ……」
ミラは弱々しく息を吐きながら理解する。ついに冥界へ旅立つ時が来たのだと。
ローブを羽織った動く骸骨。それは巨大な鎌こそ持っていなかったが、伝え聞く死神の姿そのものだったから。
そのため、骸骨が枕元まで歩み寄ってきても、彼女は恐怖に怯える事はなく、むしろ嬉しくて微笑みを浮かべた。
「殺して」
ミラは自分でも驚くほど鮮明な声で、この苦痛を終わらせて欲しいと願う。
人間の魂を刈り取り冥界に運ぶ。それが死神の仕事なのだから、間違いなく自分を殺してくれるだろう。
けれども、そんなミラの願いを、骸骨は首を横に振って拒絶した。
「申し訳ありませんが、私は二度と人間を殺さないと誓ったのです」
白い歯をカタカタと動かしながら、低く落ち着いた男性の声でそう告げる。
「……何で?」
すがりつくように問いかけるミラに、骸骨は何も答えず、彼女の背中に手を回して上半身を起こさせる。
そして、虚空からガラスの小瓶を取り出して封を開けると、その口元をミラの唇に当てた。
「飲んでください」
骸骨はそう命じながら小瓶を傾けて、ミラの口内に苦い液体を流し込んでくる。
逆らう力もなくそれを飲み込むと、骸骨は満足そうに頷いて彼女を再びベッドに寝かせた。
「これでもう大丈夫です。明日の朝には熱も痛みも消えていますよ」
「えっ!?」
ミラは驚いて大声を上げて、そんな力が残っていた事にまた驚いてしまう。
改めて己の体に意識を向けると、骸骨に飲まされた液体のせいか、お腹を中心に体がジワリと温かくなってきていた。
ただ、嫌な感じはない。むしろ緑腐病によって蝕まれていた体が、優しい炎で浄化されていくような爽やかさを感じる。
「これは……」
「竜の骨髄から生成した霊薬です。数日もすれば肌の斑点も消えますよ」
呆然とするミラの額を、骸骨は文字通り骨張った手で優しく撫でてくる。
その瞬間、先程まで迫っていた永遠の眠りとは違う、目覚めの約束された安らかな睡魔が襲いかかってきた。
──どうして、私を助けてくれたんですか?
その問いを口にする暇すらなく、ミラの意識は夢の世界へと落ちていった。
◇
幼い頃、ミラは風邪をひいて寝込むのが嫌いではなかった。
皆と一緒に遊べないのは残念だし、家事の手伝いができないのは心苦しいが、とても楽しみな事があったのだ。
「ほら、お薬だよ」
ベッドで横になっているミラの元へ、母親が湯気を立てた木のコップを持ってくる。
中身は薬草・カモミールの粉末をとかしたお湯で、その独特な匂いと味が彼女は苦手だった。
「苦いから嫌だ」
「ワガママを言わないの」
薬湯を拒むミラを軽く叱りながらも、母親は頭を優しく撫でてくれる。
「ちゃんと全部飲んだら、ハチミツを一匙だけ舐めさせてあげるから」
「本当っ!?」
待ってましたとばかりに、ミラは目を輝かせる。
貴重な甘味であるハチミツは、春と秋にあるお祭りの時くらいしか食べられない。
それを一匙だけでも味わえるなら、不味い薬湯も苦ではなかった。
「絶対だよ!」
「おや、そんなに元気なら、お薬もハチミツもいらないかな?」
熱も忘れて大声を上げるミラを見て、意地悪を言う母親の手から、彼女は急いでコップを受け取る。
そして、息を吹きかけて薬湯を冷まし、強い苦みに耐えて何とか飲み干した。
「うぇ~」
「はい、よく頑張ったね」
顔をしかめるミラの口に、待ち焦がれていた黄金の輝きこと、ハチミツをすくったスプーンを、母親がそっと差し入れてくる。
途端、舌を汚染していた薬湯の苦みが消えるほど、暴力的な甘さが口内に広がった。
「美味しい~……風邪をひいて良かった」
「何て事を言うんだい、この子は」
感激のあまり本音を漏らしたミラの額を、母親は小突いて微笑を浮かべる。
女手一つで娘を育てるために、いつも忙しなく働いている母親が、病気にかかった時はつきっきりで看病してくれる。
それがハチミツの甘さと相まって、ミラは大好きだったのだ。