旺華国後宮の薬師 甲斐田紫乃「英鈴、一騎打ちを挑むこと」
※※食事中閲覧注意※※
「最近、よく
「え……!?」
秋の日のとある昼時、
皇帝・
「ど、どうしてそれをご存じに……」
「この国で起こる事柄を、皇帝たる私が知らぬほうが問題だろう。後宮内の出来事ならばなおさらだ」
語りながら、朱心は先ほど英鈴が薬童代理として提供したばかりの『薬』――
葡萄の実の種を抜き、そこに
薬は軽く噛むだけで溶けてしまうように細工してあるので、
そしてそれを口に入れて食んでいる朱心はといえば、今日も神話の女仙のごとき黒髪の
(笑っておられるということは、どうやら今回もお気に召したみたい……)
――先ほどの問いかけよりも、つい目の前の光景を気にしてしまう。
表向きにはどんな時も温厚で優しい皇帝陛下が、実は冷酷で
いつの間にか
ともあれ、今のところは安心してもいいようだ。
(よかった)
英鈴が内心でほっと息を吐いていると、やがて、薬を食べ終えた朱心がおもむろに口を開く。
「それで。こちらの問いに答えぬとはどういう了見だ、董貴妃」
「えっ、あ、申し訳ありません!」
朱心はわずかに眉を
「そもそも、皇帝たる私の質問に質問で返すとは……旺華国の薬童代理は、ずいぶんな度胸の持ち主のようだな」
「いえ、そんなつもりは」
英鈴は、言葉を選びつつ答える。
「その……最近は、秘薬苑での研究が
「そうか。
「!」
(え、燕志さん、そんなこと陛下に教えなくていいのに!)
朱心の側近である
(絶対、わかりやすくて面白いとか思われている!)
気持ちを隠せるほど器用じゃないというのは、自分でもよくわかっている。
とはいえ――言葉を濁しているのは、別にやましいことがあるからではない。
(なんていうか、すごく説明しづらいっていうか……正直に話したら、いくら陛下でも引かれてしまうかもしれないし……!)
いや、絶対に引かれる。
そう結論づけた英鈴は、とりあえず「いいえ、ただ書を読んでいるだけです」などと言ってお茶を濁した後、さっさと退散したのだった。
***
「ふう……」
「英鈴、お疲れ様!」
自室に戻ってきた英鈴を明るく迎えたのは、友人であり今は便宜上「お付きの宮女」になっている
「あれ、大丈夫? なんだか疲れてない?」
「う、ううん平気。ちょっと緊張しただけだから……」
うっすらと
「それより、えっと、また例のものを用意してもらえたかしら」
「うん、ばっちり! お昼ご飯の後は、いつでも持っていけるようにしてあるからね」
でも――と、雪花は言った。
「本当に、今日も英鈴がやるの? あたしたちに頼んでくれたっていいんだよ」
「ありがとう。でも、あなたたちには他にも仕事があるのに、頼ってばかりいられないもの」
英鈴は
「それに、秘薬苑の管理は陛下から
きっぱりと、宣言するように雪花にそう告げてから――
「あっ、でもやっぱりバレちゃうのは困るから、他の人たちには内緒にしてね。とっ、特に陛下には! あと燕志さんにも」
「もちろん! 他の
頼もしい友人の言葉に、心がほっと温かくなるのを感じる。
そう、用事のうち「一つ」はバレなければ問題ないとしても――重要なのは、「もう一つ」のほうだ。早急に対策しなくては、被害が広がるばかりなのだから。
(見てなさいよ、今日こそは……!)
***
「……!」
足音を立てず、できるだけひっそりと。たとえここが上位の妃嬪しか入れない庭だとしても、誰の目があるかわかったものではない。
かつての皇后が戦争で傷ついた将兵を
そして無言のまま庭に踏み入った英鈴の目は、庭の真ん中付近にある、それなりの大きさの池に向いた。
しばらく黙って、その水面を
けれど今はそちらに向かわずに、秘薬苑の隅へと歩を進める。
そこはちょうど日陰になっていて、この季節だと日向と違い、うっすらと寒さを感じるような場所だ。
そして一度木箱をゆっくりと地面に下ろした後、英鈴はそっと壁際の
「ふふふふ……さて、どんな様子かしら」
甕の口を
「おおっ、いいじゃない。元気いっぱいで……うふふふふ」
甕の中からは何も返事はないけれど、構わずに言葉を続ける。
「今日はあなたたちにとっておきのゴハンを持ってきたのよ。ふふふふ……気に入ってもらえるといいんだけど」
「この箱か?」
背後から差し出された木箱を、振り返りざまに英鈴は何の気なしに受け取り――
「ええ、この茶色い木箱の中に……って、きゃああ!?」
いつの間にか立っていた朱心の姿に、思わず悲鳴をあげてしまう。取り落とした箱の中身が、足元に散らばった。
「へ、陛下!? いつの間に……!」
――相変わらず、全然足音が聞こえない御方だ。
「私がどこにいるかを、お前にいちいち知らせる必要があると思うか」
そう応える朱心は、
(あっ……礼を欠いてはいけないわよね)
慌ててこちらが最も深い敬意を示す礼をすると、朱心はフンと鼻を鳴らし、次いで地面に転がった木箱を拾う。
「まったく、私を見るなり悲鳴をあげるとは。お前が妙にこそこそしているゆえ、昼餉を早めに切り上げて、様子を見に来たのだが」
地面に散らばる木箱の中身を見た彼は、眉を顰めた。
「なんだこれは。……
「ええ、そうです」
(本当は内緒にしていたかったけど……)
見られてしまったからには、もはや隠しようがない。
朱心から
「その麩は
「土甕、虫? 虫か。聞いたことのない名だな」
片眉を跳ね上げる朱心に、英鈴は引き
「いいえ、たぶん……絶対にご存じだと思います。この甕の中で飼っているのですが」
「ふむ」
英鈴が甕の内側を指し示すと、朱心は数歩歩み寄り、甕の中を覗き込んだ。
中からは、カサカサカサ、という葉擦れのような音が聞こえてくる――
瞬間、彼の眉間に、これまでにないほどの深い皺が刻み込まれる。
「おい……! これは」
「ご、誤解しないでください!」
つい必死になって、英鈴は朱心に述べ立てた。
「そのゴキ、いえ、虫たちは特別なんです! 土甕虫たちはただの害虫ではなくてですね、立派な薬の材料なんです!」
「……お前が以前茶にしていた、
「ええ!」
我知らず、きりっとした面持ちで英鈴は応える。
「土甕虫、あるいはシャ虫とも呼ばれるのですが、その子たちのように羽根のない種のものからは、血の巡りを改善したり、
「……」
「あっ、すみません」
――またいつもの
「とにかく、薬のために養殖しているんです。秘薬苑には薬の材料となる草木や虫がたくさん生息していますが、土甕虫たちは特別に、そうした涼しくて湿気たところで育ててあげるのが一番なので……」
「事情はわかった」
そっと目を閉じた朱心は、微かに首を横に振ると、甕から数歩離れる。
「……お前がこやつらに、親しく話しかけていたのは忘れておいてやろう」
「あ、ありがとうございます……でも、こうして世話をしていると、だんだん
「理解しえぬものは身近にもあるらしいな」
短く
「それで、そちらの中身も麩というわけか?」
「あ、いいえ。こちらは違います」
英鈴はひとまず箱の中の麩を甕に放り込み、板で
「こちらは、この通り。鶏肉です」
ニワトリ一羽ぶんの肉が、ぶつ切りの状態で入っている。
「これも餌か」
「はい!」
こくりと頷き、英鈴は庭の中央、つまり先ほどの池を見やる。
「正確にいえば、釣り餌ですね。これから、あそこの
語る
――主の存在を知ったのは、
ここの管理を任せていた宮女たちから、妙な出来事が起こっていると聞いたのがきっかけだった。
そこで調べてみたところ、池の底に「それ」が生息しているとわかったのだ。
ちらりと見えたその姿――通常よりも二倍ほどの大きさと思しきそれを、英鈴はこの池の主だと断定した。
主は池の底で、溜まった
これまでにいったい、何本の釣り竿が折られてしまったことか。
(でも、それも今日までよ)
英鈴は、先ほどの甕の裏側に手を伸ばす。そこには昨夜のうちに運び込んでおいた、長い釣り竿が隠されていた。そして、大きな魚籠も。
「竹製のものはことごとく折られてしまいましたが……この特別なクヌギ製ならば!」
「どこで手に入れた」
「隣の庭に落ちていた木の枝を拾って、私が作りました」
右手で握って、ぶん、と振ってみる。――いい音だ。
「実は私、実家にいた頃はたまに釣りをしていたんです。そんなに得意というわけでもありませんが……」
「お前がそこまで熱心になるということは」
腕組みしながら、朱心は言う。
「その主とやらも、どうやら薬の材料らしいな」
「ええ、もちろんです。なにせ、相手はスッポンですから!」
魚籠を下げ、釣り竿を肩に担ぎ、片手で先ほどの鶏肉入りの箱を抱えつつ、英鈴は応えた。
そう――池の主はスッポンだ。
あの特徴的な
「スッポンといえば、捨てるところがないほどの
「粉末……?」
「焼き魚のような味で、けっこう美味しいですよ」
語り終えるよりも早く、池の
英鈴が釣り針に鶏肉を取り付けている間に、朱心は
そしていつものように
「なるほどな。長らく秘薬苑に
「あ、いいえ。主は捕まえても、まだ薬にしませんよ」
振り返り、
「別の場所に新しい池を用意してあるので、そちらに移ってもらうだけです。このままだと、この池の魚がいなくなってしまいますから……」
魚がいなくなれば池の中の生き物たちの
そうなる前に対応するのも、薬童代理であり、貴妃である自分の使命だ。
「いざ!」
気合一発、英鈴は勢いよく釣り竿を振り、池に釣り糸を垂らした。
(さあ、かかってきなさい!)
心の中で、主に呼びかける。
(この池に今生き残っている魚は、肉は食べない種類ばかりだから……これに食いつくとしたら主だけなはず!)
我知らずなんだか興奮してドキドキしながら、英鈴は水面の浮きが動く時を待った。
そして――
「…………」
それから一刻が過ぎても、釣り糸は一向に動く気配がなかった。
「ククク」
どういうわけかずっと椅子に座ってこちらを見つめている朱心が、低く、冷たい笑い声を漏らす。
「どうした董貴妃。最初の
「い、いえ」
疲れたと言うとなんだか負けてしまったような気分になるので、英鈴は虚勢を張った。
(ちょっと
でも、陛下がいる前で地べたに座ってしまうのは、いくらなんでも不敬すぎる。
(かといって、椅子を持ってきて座るというのも、いざという時に足を踏ん張れなかったら困るし……)
ぐるぐると考えを巡らせながら、小さく歯噛みする。
(今回の鶏肉は美味しいのよ……ちょっと奮発して買った
そう思う間にも、背中に、ひしひしと朱心の視線を感じる。
もしかしたら普段であれば、陛下にじっと見つめられて、胸が高鳴っていたかもしれない。けれど――
(絶対あの人、私のことを
普段は「私は忙しい」みたいなことをしょっちゅう言っているような気がするのだが、今日に限っては暇なのだろうか。
「私とて、たまには散策の時間くらい持つ。そして何を見るかは私が決めることだ」
「そ、そうですね」
(また考えを読まれてるし……)
ままならぬ現状にムスっとしながら、英鈴はなおも釣り竿を構えつづけた。
その時、ひゅうと風が吹く。
秋の風は雲を運び、それまで空から大地を照らしつけていた太陽が、すっと雲の陰に隠れてしまった。
陽光を反射して
「あ!」
浮きが大きく動いた、と思うが早いか、すさまじい勢いで釣り糸が引っ張られはじめる。
「来たっ! き、来ました陛下!」
両足で地面を踏ん張りながら、英鈴は思わず朱心に呼びかけた。
朱心もまた、椅子から少し立ち上がってこちらを見つめているようだ。
(くっ! 相変わらずすごい力)
釣り竿が大きくたわんでいる。今までは、この力のせいで竿が折られ、逃げられてしまっていたのだ。
(でも今回は、そうはいかないんだから!)
時に
要は、先に疲れてしまったほうが負けなのだ!
「ぬぬぬぬぬ……!」
全身の力を籠めて、英鈴はスッポンと
すると――
ふいに、竿が軽くなった。
「え……」
「へ、陛下……」
「よそ見をするな。せっかくの好機なのだろう」
けっこう腕に力を籠めているはずなのに涼しい表情で、朱心は言う。
「私も、いい加減お前の観察に飽きていたところだ。主にはここでご退場いただこう」
「か、観察ってやっぱり……」
「よそ見をするな、と言っただろう」
冷淡に皇帝は言い、そして小さく吐いた息と共に、ぐいっと釣り竿を引き上げる!
「わ……!」
そのあまりの力強さに、つい足が
「ほう」
朱心の感嘆の声が聞こえるのも無理はない。
池の主――やはりスッポンだったそれは、相当な大きさだった。たぶん、英鈴の身長の半分より少し小さい程度、だろうか。
白い腹をこちらに見せて宙に投げ出されたそれは、しかし、釣り糸を
「おい」
「あっ……」
そして朱心の非難がましい声を背景に、池の主は体勢を立て直すと、怒りを表明するようにこちらに向かって口を開いた。落下の衝撃で、釣り針が外れてしまったらしい。
「ククク。ご
「どうするって……!」
釣り竿を握ったまま、
(こ、このまま捕まえようとしても、噛みつかれるよね……絶対)
スッポンの
あの巨体ではなおさらである。
そして主の怒りは相当なものらしく、相手は池に戻ろうともせずに、こちらを
(なんとか、無力化する方法があれば……!)
英鈴は、必死に思考を巡らせた。そして――
「そうだ! こんなこともあろうかと!」
「……!」
丸薬は、見事に相手の口にすぽっと収まり――スッポンは、そのままがくりと首を垂れた。
その隙に、英鈴は背後に回って甲羅を摑み、持ち上げる。
「やった……! 陛下、捕まえました!」
達成感のあまり軽く跳びはねながら、英鈴は朱心に呼びかけ――
「あれ?」
しかし彼が立っていた場所には、釣り竿が置いてあるばかり。
(えっ、どこ……?)
慌てて周囲を見渡して、もはや秘薬苑の出入り口付近にまで遠ざかってしまっている、皇帝陛下の背を見つける。
ややあってから、彼は立ち止まり、くるりと振り返った。
「飽きた、と言っただろう。しかし……」
その口元に、ほんのわずかに、温かいものを
「思ったよりも、楽しく暮らしているようだな。董貴妃」
「はい、陛下」
英鈴は――拱手しようとしても今は無理なので、お
「ありがとうございました!」
「フン」
冷淡に鼻を鳴らし、朱心は
(……陛下が来てくださったから、捕まえられたのよね)
彼の背をいつまでも見送りながら、ぼんやりそう思っていた英鈴が――
スッポンに
(おわり)