暁花薬殿物語 佐々木禎子「オレの名前は捨丸(帝と秋長篇)」

オレの名前は捨丸(帝と秋長篇)



 オレの名前は犬の捨丸。

 月薙国の正后である千古姫の一の子分である。


 犬であっても内裏にあがるには相応の役職がなくてはならぬと、今上帝により、六位の蔵人の役職を授けられている。


 それはたいしたことらしく「あんたは野良犬だったのにずいぶんと出世したわね。その御利益にあやかりたい」と、内裏のみんながオレを撫でたり誉めたりしてくれる。

実のところオレは六位の蔵人がどういうものだかわかっていないのだが、それでも誉められるのは嬉しいことだ。


 子分になったのは半年くらい前のことだ。オレはうらぶれた野良犬で、犬の性として相棒もしくはオレより力の強い主を求めていた。なのにどの群れもオレのことを受け入れてくれず、あちこちの群れで喧嘩をしては追い払われた。


 オレはいつも傷だらけだった。

 オレはいつも空腹で、そしていつも寂しかった。


 身体を丸めて眠る夜、夢のなかでだけぼんやりと兄弟姉妹たちと母犬のぬくもりを思いだしては寝言で「きゅうん」と鳴いていた。半年前といったら犬のオレにとってはまだまだガキだ。夜鳴きをしたって仕方ない。


 オレは四六時中、空腹で、よれよれで――その日もとぼとぼと物陰を尻尾を下げて歩いていた。

 細かな雪と共に枯葉があたりを舞う、移り変わる季節の狭間の、ひどく寒い日のことである。


「おーい、犬」


 そう言ってオレを呼び止めたのが千古姫だ。


 そのときの千古姫は、童子みたいな短い髪で小坊主の姿をしていた。千古姫は正后なのに内裏に留まらず、いろんな変装をして都や里を歩いてまわる。薬師になるのが夢だという、少し変わった姫なのだ。


 途端、千古姫の前を歩いていた男がくるりと振り返って、しげしげと彼女を見た。


「なによ?」

「いや。おまえは、犬に対して“おーい、犬”って呼びかけるんだなあと思ってな」


 顎に手を当ててしみじみと言う男は――今上帝である。


 しかし帝もまたこのときは千古姫と同じに変装をして、ちゃんと力仕事をした感じに汚れてくたりとなった麻の直垂姿であった。


 帝の顔は整っていて美麗だと、人は言う。顔の美醜は犬のオレにはわからないが、強弱についてなら本能的に察知できる。帝は、強い。剣呑な光を放つ目や、きりっと結ばれた口元を見て、オレの尻尾が勝手に股の間にはさまった。


 逃げだしたくなって、足が震えた。


「なに見たまま聞いたままのことを、妙に感心してるのよ。犬に対しては、犬って言うしかないでしょう? ちょっと、犬のこと脅さないでよ。怖がってるじゃないの」

「は? 俺はその犬にはなにひとつしてないが」

「あなたは顔が怖いのよ。整っていてめちゃくちゃ綺麗なのに顔が怖いの。自覚して」

「顔が……」


 帝が愕然とした表情で顔をつるりと手のひらで撫でる。帝がちょっとだけ傷ついたのがオレには伝わった。しかし帝は言い返さないし、千古姫に対して手をあげたりもしなかった。すごすごと引き下がって無言になったのだ。


 そのときのオレの驚愕ときたら……。


 ――なん……だと!? この女は、この見るからに強いとわかるこっちの男より、もっと強いということか!?


「怪我してるね。血はもう止まって固まってるけど」


 そう言って千古姫はオレのほうを向き、びっくりするくらい素早い動きで近づいていた。しかも彼女には、殺気がない。身構える隙すら与えずに、距離をぐっと詰めてきて、気づいたら千古姫はオレのすぐ目の前にいた。


 オレはぎょっとして身体を低くして「うー」と唸った。


 そうしたらそれまでずっと千古姫の背後にいた男がため息をついた。

 その男の名は――秋長という。


「……またそうやってむやみに手を出そうとする。噛まれますよ」


 落ち着いた声で秋長が言った。諭すような言い方だった。


 ちなみに秋長というこの男は、兵衛として内裏でつとめている。つるっとした顔だちで、立ち居振る舞いに無駄のないこの男も、人の世では、やはり顔がいい男として知られている。爽やかで、愛想がよくて、見ているだけで心地のいい風が吹いてくるような美貌だと誰かが言っていたが――どうだろう?


 少なくとも千古姫の後から声をかけてきたそのときの秋長からは、気迫があった。オレが千古姫に飛びかかったら、即座にその脇に下げている刀が抜かれてオレを斬り捨てることだろう。


「どうかな。噛む? 賢い子ならきっと噛まないね。だって噛んだら秋長がひどいことをするに決まっている」

「僕……ですか?」

「さりげなく刀に手をかけてるよね。六条の外れとはいえ、都の道ばたで、兵衛が野良犬に切りかかったら駄目だと思うな。しかも私はいま小坊主姿なんだし」

「だったら危ないことをしないでください。あなたがなにもしなければ、僕もあなたを守らなくてすむんだ」


 またもや秋長が嘆息した。


「……そうね。できたらこの犬の怪我を診たいけど……それはやめておく。ねぇ、犬。あなたまだ若いわよね? 野犬って群れるものじゃない? ひとりぼっちで大丈夫?」


 千古姫はオレの目を見て話さない。それがオレにはありがたかった。オレの縄張りとみなしている場所で、オレより強いやつと目があったなら、本能的に飛びかかってしまいそうだったから。理由はよくわからないが、犬というものは、そういうものだ。


「犬にずいぶんと親切なんだな」

 帝が言う。


「犬に限らず、病気だったり怪我してるものすべてに私は親切よ」

 千古姫が答える。

「干し肉といいをここに置くわ。干し飯のほうは唾液がたくさん吸われるからよーく噛んで食べるといいよ」


「なんで保存食を持ち歩いてるんですか、あなたは」

 秋長が言う。


「だってなにがあるかわかんないもの。それに――お腹をすかせてる誰かに会ったときに、こうやって渡すことができるでしょう? そこはぬかりなく持ち歩こうと思ったのよ。そのとき、そのときに、巡り会える誰かのお腹を満たす程度の善行でいいから、したいのよ。それくらいしか私にはできないんですもの。自己満足だとしても」


「あなたって人は本当に」

 と言い返したが、秋長の身体から殺気がふわりと解けて消えた。


 オレは犬だから、ちゃんとわかる。秋長もそこそこに手練れで、強い。迸るような強さではないが、しっかりと足もとを固めて相手の弱点を見定めて倒してみせる眼力を持っている。


 ――なんということだ!? この女は、戦うこともなく口だけで、男のオレに対する戦意を喪失させた……のか……!?


 オレは愕然として千古姫を見た。


「おまえのそういうところが」


 帝がぽつりとつぶやいた。


「ところが?」

 聞き返した千古姫に、帝が応じる。


「たちが悪いような気がするなと思う」

「それは僕も思います。その場限りの本当に小さな親切で、どれだけの人や生き物をたらし込むつもりなんだろう、この人はって」

 秋長が同意する。


「それだ。それだな? うまくこの気持ちを言葉にはできなかったが」

「はい」


 男たちは互いにうなずいた。


「え~、なにふたりでわかりあっているのよ? あなたたち私にまつわることだとけっこう仲良しになる節がある。誉めてるようで、誉めてない感じの言い方だったし。まあ、いいか。いいことなのか。いいことだ。どうでもいいな」


 千古姫はなにかに納得し、後半は独白のようなつぶやきを漏らしつつ、懐から干し肉と干し飯を取りだしオレと彼女の中間地点の地面に置いた。


「食べてちょうだい。誰かに取られないように、あなたが食べ終わるまでここで見張っているから誰にも盗られないよ。安心して」


 そのとき強い風が吹きつけた。

 千古姫の短い髪に、枯葉がまとわりついて、はらりと載った。


「髪に枯葉が」

 と秋長が千古に指摘して、一瞬だけ手をのばしかけ、途中で止めた。


「なに?」

 千古が聞き返す。


「おまえの髪に枯葉がついているんだ。これは――俺がとってもいいのか?」

 帝が言うと、秋長が「はい」と応じる。


「え……? 私の髪についた枯葉なんだよね? なんで私じゃなく秋長が返事をするの?」

「なんでって」

「そうだな。なんで秋長が返事をするんだろうな。じゃあ秋長が取ればいい」

「なに言ってんのよ。自分で取るわよ。髪についてるのね?」


 千古姫が両手を頭にあててくしゃくしゃと髪をかきむしって頭を振った。枯葉が地面にはらりと落ちる。


「なんだか少しむっとしたな」

 帝が払い落とされた枯葉を拾ってつぶやいた。


「そうですね。僕もです。なんででしょうね」

「なんなのよ。あなたたちはふたりして」


 そう言って少し離れると千古姫はその場にあった石の上にぺたりと座り込み、立てた膝の上に肘を載せる。


「本当に犬を見張るのか」

 帝が言う。


「だめかな?」

「別に、いい」

「仕方ないですね」


 帝と秋長が顔を見合わせ、帝は千古姫の隣に当たり前のように腰をおろす。

 枯葉だらけの土の上にどさっと座った帝を見て千古姫が困った顔になる。


 オレはというと、おそるおそる地面の干し肉に鼻先を寄せて匂いを嗅いだ。乾いた肉からは美味しそうな匂いがした。


 見張られているのは気になったが、気が変わって取られてしまってはたまらないと口に咥える。


 固い肉をぎゅっと噛みしめると口いっぱいに「旨い!!」が広がって喉まで伝わって落ちていく。旨い! 旨い! 旨い! オレは夢中になって肉を噛んだ。這いつくばって、首をひねって噛みしめて恍惚として肉を楽しんで、飲み込んだ。次に干し飯を一口で飲み込む。旨い! 旨い! 肉のほうが好きだがこれはこれで。


 尻尾が勝手にふるふると横に揺れた。

 ――この女は強いに違いない。そして旨い食べ物を持っていてオレに与えてくれる。


 オレは生涯、千古姫についていこうとこのときに決めた。オレはやっと、オレを率いてくれる主と巡り会えたのだ。もう絶対に千古姫から離れるものか。


 これを食べ終えたら、この女の前で腹を見せてねころがり、忠誠を誓おう。

 そしてそのまま後をついていく。


 ずっと――ずっと――どこまでも。


 そう考えているオレの気持ちとは関係なく、千古姫と帝と秋長はなにやらまだ話し込んでいる。


「えー、あなたは地面に座るの?」

 千古姫が帝に聞いた。


「だめか?」

「別にいいけど、あなたを地面に座らせられないじゃない。立場的に。仕方ない。この石、譲るわ」

「立場はいまは関係ないだろう。なんのための変装なんだ。おまえが座っていればいい」

「じゃあ秋長が石に座ったら?」

「立場上、無理ですね。主上が座らないのにどうして僕が座れると思うんですか。それに僕は足腰が丈夫なのでいまは座らなくても平気です」

「だから立場は関係ないっていう話だったのでは。……なんか面倒くさいね、この三人で隠密で外を出歩くの。この取り合わせは今後、やめよう。私、どっちかとだけ動くことにする」


 そうしたら帝が「なんでだ?」と眉間にしわを寄せ、秋長も「なんでですか?」と眉を跳ね上げた。


「なんでって……。じゃあ、こうしたらいいかな。半分、譲る。この石、ふたりで座っても平気じゃない?」


「ふたりでって……」

 と帝が眉間のしわをさらに深めたが、言いだした千古姫はさっと立ち上がって、


「主上と秋長で座ってもいいよ」

 と、同じ石の半分に、帝と秋長が座ればいいとうながした。


「はあ? なんでそこで秋長と俺ってことになる? おまえのそういうところが本当に」


 帝はそう言って勢いよく石に座ると、千古姫の手をぐいっと引いて、彼女の身体を自分の膝の上に載せた。それまで平然としていた千古姫は、いきなり膝抱きされて瞬時に耳まで赤くした。


「……なっ、なにをするのですか。こんな……膝の上……。うわっ、手、前にまわさないっ」


「そうです。それはやり過ぎですっ」

 秋長もそう叫び、千古姫の手を握り、帝の膝の上から引き上げようと引っ張っている。


「いまの変装の立場を考えてください。こんな道ばたで小坊主を膝の上に抱きかかえて座っていいはずがない。誰かが見てるかもしれないんですよっ」

「立場はどうでもいいが、こういうのは嫌か?」

 帝が千古に聞き、千古は即答で「嫌よ!!」と応じた。


 帝がぱっと両手を離し、千古を解放する。今度は力いっぱい引き上げていた秋長の胸のなかにとすんと身体ごと包まれる。千古はまたもや赤面し、危険なものに触ったかのようにぱっと飛び退って身体を離した。


「主上っ。いいかげんになさってくださいっ。まったく、たまに、とんでもないことをあなたはしでかすんだから……」

 口を尖らせた千古姫に「おまえにだけは言われたくない」と帝が仏頂面で言い返す。

「そうだろう? 秋長」

「そうですね。主上」

 男たちはそれぞれにそっぽを向いて、とても長いため息をついたのだった。


 そして――ゆっくりと久しぶりの旨いものを食べ終えたオレは千古姫の側にとことこと歩み寄り腹を出したのであった……。

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