平安後宮の薄紅姫 遠藤遼「雨夜の品定めには沈黙すべし」

雨夜あまよの品定めには沈黙すべし


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 怪異や難事件の最後の駆け込み寺・薄紅うすくれないの姫。彼女に依頼が成立するのは、物語にまつわる品が差し出されたときだけ。


 薄紅は重度の物語中毒で、特に『源氏物語げんじものがたり』には目がないというのだ。


 ――この異名が広がったのは、晴明の孫である若き陰陽師・奉親ともちかのせい。


 訪ねて来た彼に早く帰ってほしい一心で、物語知識を駆使し怪異の謎を解いたのが悪かった。薄紅を使えると判断した奉親は、言葉巧みにたびたび彼女をモノで釣っては謎解きにかり出すことに。


「また相談ですか? 私は読書に集中したいのでございます!」



 これは本編では語られなかった後日譚――。


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 空の青さが目に眩しい。後宮を包む緑はいままさに繁茂していた。ときどき風に揺れては木々の緑の濃淡が変化し、見ていて飽きない。蝉の声が高僧たちの読経のようにうねりながら止むところなく続いていた。夏である。


 その後宮の女房である菅侍従かんじじゅうこと薄紅うすくれないの姫は、夏の暑さを感じないどころか、いまこそ春爛漫はるらんまんとばかりに笑み崩れていた。


「うふ。うふふ」


 薄紅は――自分の気持ちの上では――常識人のつもりである。年齢だって三十歳。落ち着いた大人の年齢だった。だから、自分が笑み崩れていると思えば、自制する気持ちも働く。頬を両手で軽く叩いて引き締めるが、そのそばから緩んでしまう。


「菅侍従。ひどい喜びようですね」


 と、同僚の女房である右近うこんが苦笑していた。同僚といっても右近は、薄紅の七歳年下である。その同僚からたしなめられるというのは相当なことだ。


「ひどい喜びようって……ひどい表現ですわね」


「仕方ないではありませんか。宣旨せんじを受けてからというもの、初孫を迎えた貴族のように〝にたにた〟しっぱなしで」


 宣旨というのは、先ほど薄紅に下されたふみのつかさへの異動の宣旨だった。書司とは、後宮内のあらゆる書物と文房具を管理する務めで、物語をこよなく愛する薄紅には夢のような務めといえた。


 まさに我が世の春。かつて藤原道長ふじわらのみちながが詠んだ


《この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば》


 とは、いまの私にこそふさわしい――薄紅はそう思った。


「だって、あの宣旨――」と笑顔で言いかけて、薄紅は背筋を伸ばした。「季節外れの宣旨です。何かしらのご期待をいただいているのでしょう。気を引き締めていきませんと」


 薄紅の重度の物語好きは、後宮では内緒にしているのである。後宮では静かにこつこつ働く菅侍従。だから、書司へ移れと命じられて喜ぶのはおかしいのだ。


「菅侍従は、気を引き締めるとかえって〝にまにま〟されるのですか」


「うっ……。これは、その、そう、武者震いとかいうものみたいなものですわ」


 苦しい言い訳だった。右近の冷静な眼差しが痛い……。


「てっきり、菅侍従は雑務から逃れてよいお役目に就けたのがうれしいのかと、私は少し悲しく思っておりました」


 右近の口がへの字になった。薄紅の頭からさっと血の気が引く。浮かれすぎていた。


「そんなこと、爪の先ほども思っていません。信じてください」


「私、菅侍従と一緒に仕事ができるのが楽しかったのに……」


「ありがとう、右近。私もよ? でも、大丈夫。まだ引き継ぎもあるだろうし、手が空いているときには顔を出しますから」


 薄紅は右近の正面に回り込んでそう言う。右近はわずかに上目遣いにしながら薄紅を見つめ、少しして口角を上げた。


「ごめんなさい、変なことを言ってしまって。新しいお務め、心から祝福申し上げます」


「右近……」薄紅の鼻の奥がつんとした。


 そのときだった。背後から、げんの典侍ないしのすけが薄紅を呼び止めた。いつも無理難題を押しつける上役だったがこれで仕事上ではお別れかと思うと少しさみしくもあり……。


「菅侍従、こちらにいましたか」


「はい」と微笑んで振り向いた。


「書司のお仕事につかれる前に、これまでの仕事の引き継ぎをしなければいけません」


「かしこまりました」


 ああ、新しいお務めに就くのだななと、実感した。……源典侍の次の言葉を聞くまでは。


「ただ、急な宣旨でもあり、新しい女房が誰になるか分かりません。しばらくは書司とこれまでの仕事を並行して行ってください。もちろん、引き継ぎも忘れないように」


 それは単純に仕事が二倍になっただけではないだろうか。働きながら引き継ぎとは何事か……。まだしばらく一緒にいられると聞いた右近が朝顔のように可憐に微笑む横で、薄紅は仏像のように安らかな笑みを返して「かしこまりました」と応えるのだった。






「……ということがありました。ふふふ」


 と、その日の夕方、薄紅が「千字堂せんじどう」で若干遠い目をしながら報告した。聞き手はいつもの清水義盛しみずよしもりと、ほとんどたまり場のようにやってくる陰陽師・安倍奉親あべのともちか。最初は書司への異動と聞いてめでたい話だと思ったのだが、薄紅の上司の一言で急転直下の展開を見せた。これはどう受け止めるべきかと、熊のような髭面の武士の義盛と、切れ者らしくありながらどこか底の読めない奉親が顔を見合わせる。義盛は「おいたわしや」という表情だが、奉親は「おやおや」と苦笑していた。薄紅は、手にした『源氏物語げんじものがたり』を読んでいる振りをしながら二人の表情を確認する。


 その視線に気づいたのか奉親が檜扇ひおうぎで苦笑の形にゆがんだ口元を隠して言った。


「それはそれは。ご心痛の程、お察し申し上げます」


 礼儀正しく礼法にかなっているがゆえに、奉親の言葉が微妙に薄紅の心に触る。慇懃無礼いんぎんぶれいとはこのことか……。


「奉親、そのようなお言葉は結構です。私は少しも心は痛んでいませんから」


「おやおや」


「考えてもみてください。私は書司として、これからはこの『千字堂』ならずとも物語溢れる場所にいられるのです。公私を問わず、私の周りには物語がたくさん」


「そうなりますね」


「すなわち、どこへ行っても光源氏ひかるげんじとう中将ちゅうじょうたちが守ってくださっている女房――それが私です。上役がどんな無理難題を言おうとも私の心には効きません。何しろ私は物語に守られている女房なのですから」


 薄紅が衵扇あこめおうぎを開いて舞のように振りかざして言うと、正真正銘の常識人の義盛が「あの、姫さま」とおろおろし出す。奉親はといえば扇に深く顔を埋めていた。


「くっくっく。これはこれは。頼もしい限りですな」


「まさに后の位も関係ないというものです。ですから、今日の私はこの上もなく機嫌がいいのです」


 半分本心、半分はどうも影で薄紅のためにあれこれしてくれてそうな奉親への虚勢だ。


「いや、いとをかし。あなたという方は……」


「そのようなわけで、私に関する限りご心配は無用にございます。同僚と一緒に働けるのがうれしいのはその通りですし。それで、奉親どのは今日は何用でお越しになったのでございましょうか」


 薄紅が『源氏物語』に目を落としながら尋ねると、奉親は形だけ近くにあった『伊勢物語いせものがたり』を手に取って応えた。


「最近、私も『源氏物語』はさらいました」


「左様でございますか。いかがでしたか」


「もののあはれというものを深く感じました」


「それはそれは」


 どこまで本気か分からない奉親の言葉に警戒しつつも、思わず頬が緩む。『源氏物語』好きが増えるのは幸甚なり――。


「ときに姫さまは橘為義たちばなのためよしという方をご存じですか」


「いいえ。存じません」ああ、やはり『源氏物語』、尊い……。


「でしょうな。実はこの方も物語好きを自認される方で」


 薄紅の動きが止まった。「続けてください」


「先日、陰陽師の仕事で橘為義どのの邸へお伺いしたのですが、その際、失態を演じてしまいまして」


 失態? 薄紅は耳を疑った。 まだ二十歳だというのに人を食ったようなところがある奉親が、自らの行いに〝失態〟という評価を下すとは、よほどのことがあったに違いない。

「何があったのですか」と義盛が心配げに先を促す。


「陰陽師としての役目は十全に果たしました。ところが、その後の雑談で『源氏物語』についてのやりとりになったのですよ」


「それはそれは」同行したかった気持ちが、薄紅には少しあった。


「そのときに、為義どのがこう言ったのです。『頭の中将というのは若い頃からなかなか経験豊富だったようだね。どんな女性が好みかと言い合った雨夜の品定めでも、ほとんど頭の中将が話してばかりではないか。夕顔のこともどこまで本気だったのか』と」

「なるほどですね」と薄紅が読んでいた『源氏物語』を下ろして前のめりに聞いてくる。


「それで私は言ったのです。『雨夜の品定めで経験豊富ぶりを話していたのは、頭の中将ではなく、左馬頭さまのかみではなかったですか』と」


「……………………」


 薄紅は沈黙して頷いた。奉親の指摘は正しい。雨夜の品定めで一人で滔々と自慢話をしていたのは左馬頭だった。


「ところが、為義どのは『頭の中将だ』と言って譲らない。だんだん険悪な空気になって、何となくそのまま邸をあとにしたのですよ」


「放置してきたのですか」


 薄紅が目を丸くするが、奉親はいつもの腹の読めない笑みで肩をすくめただけだった。


「私は何か間違えましたかな、と思いまして」


 薄紅は軽く頭痛を感じた。失態と言っておきながら、何か間違えたかとしれっと言えるのとはどういう神経だろう。私も多少は見習うべきなのだろうか……。


「確認させてください。為義さまはおいくつくらいの方ですか」


「五十歳は過ぎています」


 ならば奉親より三十歳以上年上になる。


「その日の陰陽師としてのお仕事はどのような内容でしたか」


「細かくは申し上げられませんが、ちょっとした調伏でした」


「その橘為義さまは、物語好きを自認されるのですから、『源氏物語』は当然読んでいらっしゃるのですよね」


「お好きなようですね。――姫さまなら、何とされましたかな?」


 薄紅は額を抑えながら逆に質問した。


「それよりも、奉親はどうしたいのですか?」


「どう、とは?」


「その為義さまと今後どういう関係でいたいのですか。険悪なままですか。それとも仲直りされたいのですか」


「仲直り、の方でしょうかな」


 すると、薄紅はすっと背筋を伸ばして閉じた衵扇を指さすように突き出した。


「薄紅の名にかけて申し上げます。――謝りなさい」


「ほう?」


「『先日は大変失礼しました。雨夜の品定めでもっともしゃべっていたのは、為義さまのおっしゃるとおり頭の中将でした』と、頭を下げてくるのです」


「おやおや。まさかそう来るとは。姫さまほどの方であれば、為義どのの間違いにはお気づきでしょうに」


「もちろん。私ほど読み込んでいなくても、雨夜の品定めは有名な箇所だから知ってる人が多いでしょう。ついでに言えば中流の、『中品の女』がいいという左馬頭の意見はもっともですが、嫉妬のあまり指に噛みついてくる『指食いの女』とか、他の男と浮気した『木枯らしの女』とか、ろくな経験を積んでいるようには見えないのが玉に瑕ですけど」


 義盛がそっと進言する。「姫さま、話が逸れています」


「ごほん。せっかく、奉親の調伏ですっきりしたところで機嫌良く、好きな『源氏物語』の話をしていたのでしょ? そこで議論してはいけませんよ。相手はあなたの依頼主でしかも親子ほども年が離れています。顔を立ててやらなくてはいけません」


「ほう?」


「そもそも、為義さまは奉親の意見を求めたわけでもないでしょ? 多少ものを知ってくると相手の間違いを指摘したくなるものですけど、議論に勝っても相手の信頼は得られません。命に関わる間違いではないのですから、相手の言っている内容を笑顔で聞いてあげればいいのです」


「くっくっく。姫さまならば、もっと完膚なきまでに論破されると思っていましたが」


「時と場合によりけりです」


「言われてみれば確かにそうですな。いや、これは有益な助言、痛み入ります」


「せっかくの『源氏物語』好きと、こんなことで揉めないでくださいませ」


「くく。最後の一言がいかにも姫さまらしい。ありがとうございました」


 苦笑しながら扇を閉じて両手をついた奉親を見ながら、薄紅は少し考えて付け加えた。


「あと……ここからは私の独り言なのだけど」


「おや?」


「奉親は、私から見ると普段、何を考えているか分からないところがあるけれど、ここぞというときに嘘が下手なのよね。お兄さまのときのように」


 奉親の頬が少し強張る。それを隠すためか、口角を思い切りゆがめた。


「……独り言、お聞きしましょう」


「いまの話、失態をしたのは奉親ではなく、奉親の依頼人、橘為義さまご自身ではないかしら。言い間違えを指摘されて気分を害された相手は、為義さまの妻とか」


「くく。をかしき独り言ですね」


「仮に奉親の〝失態〟だったとしても、その場で言いくるめてしまうくらいの話をするのは、奉親には造作もないはずです。でも、そうしなかったのは、あなたの〝失態〟ではなかったから。陰陽師の術で人の心そのものをいじくることはできないですものね? だから〝失態〟と言いつつ、奉親は一度も恥じ入るような表情をしなかった」


 奉親は頬を歪めたまま、側にあった水を一口飲んだ。


「物語読みはいろいろと想像なさるものですな」


「私の話は以上です。〝失態〟の相手が私の推測通りなら、〝失態〟した側から謝るのが何よりも大事ですからね? それと、私の独り言が外れていたら、今回、私に相談した見返りのお礼の品は結構です」


 そう言うと薄紅も水を飲む。再び楽しそうな表情に戻ると、薄紅は『源氏物語』へ耽溺していった。






 数日後、奉親は橘為義に呼び出されて、彼の邸にいた。


 出てきた五十過ぎの貴族は、奉親を見るなりほっとした表情を浮かべて礼を言った。


「助かったよ、奉親どの。おぬしが言った通りに、『この前は私が悪かった。雨夜の品定めでもっともしゃべっていたのは、おまえの言うとおり頭の中将だった』と頭を下げたら、妻はすんなり許してくれたよ。こういうときは言い合ったら負けなのだな」


「若輩の陰陽師ながら、お役に立ててようございました」


 と奉親がいつもの笑みで頭を下げた。


「いやぁ、それにしてもおぬしに助言をしてくれた姫は、をかしな方だな。『源氏物語』をそれだけ読み込んでいながら、ときに相手の立場を考えて間違いを指摘しない寛容さも持っているとは」


「ええ。実に変わったお方です」


 と応えながら、奉親が檜扇で口元を隠した。


「それでは約束通り、この件については別に謝礼を出そう」


「ありがとうございます」


「後宮へ、新しい物語の写本や紙、筆、墨の寄附でよいのだな?」


「はい。書司の増員があったそうなので、そのお祝いということで」


 薄紅にはほとんど見破られているが、陰陽師として依頼人の秘密を守るために奉親自身は嘘を貫き通すつもりだった。となれば、薄紅は奉親に謝礼を要求できないし、奉親も礼を出せない。ただで済ますには、奉親にとって薄紅は〝をかし〟な存在なのだ。たとえれば唐土渡もろこしわたりの珍品にも勝るのだが、そこまで言ったらさすがの薄紅も怒るだろう……。


 さて、薄紅はこの礼の品の秘密まで解けるだろうか――。


 やはりあっさり解いてしまうかもしれないなと想像すると、奉親は思わず笑いがこみ上げてくる。奉親はその笑いを蝉の声にごまかした。

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