四、不毛なる心理戦線 その3

    6


 芹沢明希星の目的は何か? その答えを見つけることが出来ないまま、凡田は朝を迎えた。

 洗面台の前に立つ。普段より一層、不健康そうな青白い顔が鏡に映っていた。

 本能が「学校をサボれ」と告げてくる。しかし、奴の目的がわからない以上、偽装を離れるのは危険だった。女の子とお近づきになった以上、今日はいつもよりも気合いを入れて学校へ行かねばならない。それが凡田純一という人間である。

 だが、まったくの無策というわけではなかった。

 リスクを回避する。四限目終了とともに、凡田は素早く、かつさりげなくロッカーに向かいリュックを掴んだ。向かう先は特別教室棟のトイレである。

 久しぶりの便所飯である。

 入学当初は徹底的に人目を避けるために昼食はトイレで済ませていた。偽装の甲斐もありすっかり存在感を失った現在では教室で食べることも可能になっていたのだが、再びこの生活に戻ることになるとは……。

 廊下は学食に向かう生徒たちで溢れていた。人の波に紛れ、凡田は階段へと向かう。

「凡田くーん!」

「!」

 やけに大きな声。おそるおそる振り返ると、芹沢明希星が手を振っていた。

「どこ行くの? 学食?」

「あの、外で食べようと思って……」

「外? ああ、天気いいしね。じゃ、行こうか」

 もう一緒に昼食をとるのが当然のことのように明希星は微笑んだ。


    ◆


 危ない危ない。危うく見失うところだった。

 明希星は凡田君の隣を歩きながら、安堵する。

 今日からは質問リストを埋めていく予定だったのだ。リストを埋めるためにはおしゃべりの時間を確保する必要がある。昼休みはそれにぴったりだ。ごはん食べながらいい感じに情報を引き出すだけだ。

 中庭にさしかかったところで、ちょうど空いているベンチが見つかった。

「ここにしようか?」

「え……? あの……」

「何?」

「……いえ、何でも」

 凡田君は頷く。

 明希星はベンチに腰掛け、バッグを凡田君の反対側に置いた。パンを取り出すと同時に、中に隠しておいたスマホを手に取ってメモアプリを立ち上げる。全部は憶えられないから、リストはアプリにメモしてある(さすがに組織の人も全部憶えられるとは思ってないだろうし)。

 あとは自然な感じで会話しながら、凡田君のことを聞き出すだけだ。

 とりあえず聞きやすいところで……、まずは家族構成あたりかな。


    ◆


 捕まった……。

 明希星の半歩後ろを歩きながら、凡田は自分が厄介な事態に巻きこまれていることに気付いた。

 芹沢明希星という人間はとにかく目立つのだ。

 一七〇センチ超の長身。明るい色の髪。スタイルも容姿も目を引く。やけに大声で話し、その度に他人の視線を集めている。暗夜のビーコンのように、はっきりと存在を主張していた。

 目立つことは避けたい。凡田はとりあえずプール脇のスペースを目指していた。日当たりは悪く、部室棟からも遠く、昼休み時の動線からは大きく外れている。今の季節、あそこなら人目を避けることができる。

 中庭にさしかかったところで突然、明希星がベンチを指さした。

「ここにしようか」

 中庭の一角にある東屋。一段高くなった基礎部分の上に小綺麗なベンチが据え付けられている。彼女が指したのはよりにもよって一部では『カップルシート』と呼ばれている、あまりのマークのキツさにカップルはまず座らないベンチだった。目立ちたくない凡田にとっては最悪の選択肢である。

「え……? あの……」

「何?」

 明希星は何か予定があるのか明らかに苛立った様子を見せた。目立つのは避けたいが、反抗するのも危険だ。凡田は大人しく指示に従うことにした。

 明希星はさっさとベンチに座り、長い脚を組む。凡田は少し距離を置いて座った。明希星はバッグからパンを取り出し一口食べると、質問を始めた。

「凡田君さ、兄弟とかいるの?」

「妹が一人いますけど……」

「へえ、何歳?」

「中学三年だから確か……十五だったような」

 凡田は偽装通り、設定を矛盾なく答えつつ、警戒レベルを一気に高めた。

 こいつ、俺の偽装に疑いを持っているのか?

 凡田純一の偽装にとって家族構成は弱い輪の一つだった。設定上の家族は存在するし、裏を取られたときの対策もある。それはあくまで学校や役所の形式的な調査を潜り抜けるには十分であるが、その筋の組織に徹底的に掘られた場合、耐えられるものではない。

 ここに来て、一つの可能性が浮上した。

 重圧。こちらに精神的な圧力を掛け、偽装を逸脱するのを待っているのか?

 だとすれば、こいつの目立とうとする態度も理解できる。衆人環視のプレッシャーの中、俺が転ぶまで終わらないウィンナーワルツを演ろうというのだ。

「ふうん、そうなんだ」

 自分で聞いておきながら、興味なさそうに明希星が言った。その態度は旧共産圏の官憲に酷似しており、凡田の仮説を補強した。

『同志凡田、君に兄弟はいるか? では同志凡田、その妹はいくつかね? 次の質問だが……』

 明希星の質問が続く。中学時代の話。部活の話。趣味の話。

 一見、差し障りのない話。見せかけの火を焚いたのだ。尋問官は本線の質問を悟られないよう、いくつもの囮を撒く。落ち着け、俺はこういうときのために訓練を受けてきたのだ。自分が偽装経歴から外れることはありえない。

 明希星は凡田の顔を覗き込んできた。

「凡田君って彼女いるの?」

「いえ、いませんけど……」

 他人から見れば、明希星が凡田純一に気があるだけに見えるかもしれない。

 凡田は即座ににその可能性を排除した。凡田純一の偽装は誰からも興味も好意も敵意も持たれないよう、心理学・人間工学に基づきデザインされている。芹沢明希星のような人間が何の前触れもなく凡田純一に興味を持つ理由がないのだ。その背後にはもっとおぞましい理由があるに違いない。

「彼女がいたことは?」

「ないです……」

「その間、彼女作るつもりはあった?」

「…………」

 尋問は延々と続いていく。黙秘権などはない。偽装上、黙秘するという選択肢もない。女子との会話がほとんどない凡田純一にとっては話をするだけで嬉しいのだ。それが凡田純一という人間なのだ。

「じゃあじゃあ、凡田君は付き合うとしたらどんなタイプがいい?」

「考えたこともないので……」

「ええ……?」

 明希星はそう言うと、ちらり、脇に置いてあるバッグの中に視線を落とした。何を見ている? スマホか? 明希星は再び顔を上げ、質問を続けた。

「だったら芸能人にたとえると誰?」

 凡田は唖然となった。

 まさか、質問のリストを見ているのか?

 あり得ない。どんな諜報員であろうと、質問者の目の前でリストを見ることなどあってはならない。そんなことを話す組織は存在しない。

 凡田の脳裏を白い光が走った。

 芹沢明希星が諜報員であるはずがない。

 明希星が飛び出してきた路地。あそこは今年四月から駅前からの通り抜けは出来なくなっていたはずだ。いつだったか、生徒たちが騒ぎすぎたために、地権者からのクレームがつき、結果、通行止めとなっていた。

 つまり、芹沢明希星は凡田純一を待ち伏せしていた。

 そして、本職の諜報員であれば、このような証拠を残すはずがない。

 こんなことにも気付かないなんて、俺は何を考えていたんだ! ただの女子生徒に工作員の影を見るなんてよほど追い詰められていたに違いない。

 ネガが反転するように、世界に色が戻っていく。陰謀に満ちた世界が日常へと帰っていく。

 何てことはない。これはただの色仕掛けハニートラツプなのだ。

 無邪気で無慈悲な女子生徒たちが凡田純一という存在をからかうための『ゲーム』なのだ。


    7


 生徒会室。

「お茶が入りましたよ」

「ありがとう橘さん。ああ……いい香り」

 その日は生徒会室での昼食会が行われていた。あまり活動が活発でない生徒会において学年を越えた交流を図るべく橘黒姫主導で取り入れた制度である。

 その中、橘黒姫はいつもの通り、完璧超人の佇まいで過ごしていた。

 だが内心では、凡田君と芹沢明希星のことが頭から離れなかった。自分で昼食会を企画しておきながらこんなことを言うのはなんだが、こんなことをしている場合ではないのだ。

 凡田君だって一年に一日くらい、女子と話すこともある。きっと強請られている。薫子の言葉に一縷の希望を託し、普段の、偽装通りの生活を送っていた。

 それは自分を誤魔化しているに過ぎなかった。

 この一年、心の底で危惧していた事態がついに起こってしまったのである。

 凡田君のことが好きな女の子が現れたのだ。

 芹沢明希星が凡田君とぶつかった路地、あそこは駅からは通り抜けできなくなっている。

 だとすれば、明希星はあそこで待ち伏せし、わざと凡田君にぶつかったのだ。そして、それをきっかけに教室に押しかけ「一緒にごはん食べよう」などと……。

 その強引な手練手管、そしてスカートの長さから見て、芹沢明希星は恋愛の達人の可能性がある。今頃、凡田君といちゃいちゃしてる可能性があるのだ……!

 しかし、手の打ちようがない。

 今日はF組に行く用事がないし、昼食会をサボるわけにもいかない。

 十分な人員がいれば(そして、薫子にバレなければ)手の打ちようなどいくらでもあるのに。

 そんな考えはおくびにも出さず、黒姫は完璧な偽装を続けていた。

「おかわりいかがですか?」

「ありがとう、いただこうかしら」

 黒姫はティーポットを手に立ち上がり、窓の外の光景を見て、一瞬、固まった。

 中庭のベンチに凡田君、そしてあの芹沢明希星がいた。

 ごわん、と世界が歪む音がした。

 そのベンチは俗にカップルシートと呼ばれ、あまりのマークのキツさにかえって誰も座らないという曰く付きのベンチである。

 芹沢明希星は凡田君の顔を覗き込みながら何やら積極的に話しかけている。

 黒姫は「あら、ベンチに誰かいるわ」感を最大限に発揮して、自然に明希星の唇を凝視した。

『凡田君って彼女いるの?』

 こほっ、と黒姫は軽く咳き込み、ティーポットを置いた。

「ごめんなさい、少しむせてしまって……」

「大丈夫?」

「ええ、ちょっと失礼します……」

 黒姫は生徒会室を辞した。それから、不自然にならない程度の早足で体育館への連絡通路を進むと、女子トイレに駆け込んだ。

「げほっ! げほっ!」

 洗面台の前で激しく噎せ返る。誤嚥性肺炎の危険を冒しながらも、黒姫は完璧な身体コントロールでここまで耐えたのだ。

 蛇口を開き、髪をまとめると顔をばしゃばしゃと洗った。顔を上げると鏡には眼を血走らせた自分の顔が映っている。

 何が強請りだ! 完全に口説きに掛かってるじゃないか! 薫子の嘘つき! 薫子のバカ! 帰ったら散々に責め立てて……!

 廊下からの足音。黒姫は平然を装い、ハンカチで顔を覆った。

 落ち着きなさい、橘黒姫。

 ほら、読唇術ってそんなに精度が高い技術じゃないでしょう? あれは普段一緒にいる相手だから経験とか雰囲気とかで補足して何を言ってるのかわかるってだけで。それはまあ私は結構、自信はあるほうだけど。でも、間違いを犯すときもあるかもしれないじゃない?

 それに「彼女いる?」っていうのが凡田君に気があるっていうのもちょっと先走り過ぎた。単に事実を確認してるだけかもしれないし。言葉の裏を読み過ぎてしまったな。

 身なりを整え、普段の完璧超人に戻った黒姫はトイレを出た。連絡通路の窓から、やはり自然な様子でちらり中庭を見下ろし、明希星の唇を凝視した。

『じゃあじゃあ、凡田君って付き合うとしたらどんなタイプがいい?』

「…………」

 黒姫は一歩あとずさり、ターン、再び早足でトイレに駆け込み、周囲に人がいないことを確認すると、今度は個室に入って鍵を掛けた。

「げほぉっ! べほぉっ! かはっ! えほっえほっ!」

 疑う余地はない。奴は凡田君に完全に気がある……!

 その事実は黒姫に決意を促した。

 もうこうなったら多少強引であっても『フェーズ7』に移行するしかない……!


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試し読みは以上です。


続きは2020年3月25日(水)発売

『超高度かわいい諜報戦 ~とっても奥手な黒姫さん~』

でお楽しみください!


※本ページ内の文章は制作中のものです。実際の商品と一部異なる場合があります。

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