間章、ある凡人のモンタージュ
「あれ? 人数足りなくねーか?」
「全員入ってるだろ。ぴったり六人の班、三つ出来てるけど」
「うちのクラス、男子は十九人いたはずだろ。ぴったり割り切れるわけないだろ」
「でも、全員いるだろ。
「ああ『凡人君』! 凡人君のこと忘れてたわ」
「? 何、凡人って」
「凡田、凡田純一。いやすっかり忘れてた。あいつ影薄いんだもん」
「そうじゃなくて、『凡人君』って何?」
「ほら、あ、川上は知ってるよな。入学してきたとき、あいつにあだ名つけたじゃんか。凡田純一、略して凡人って」
「略したらボンジュンだろ、全然、上手くねーし」
「オレがつけたわけじゃないんだって」
「で、凡田どこの班いれんの?」
「いいんじゃないの、適当な班いれとけば。どうせ友達いないだろ。ジャンケンで決めようぜ」
◆
組織の監視者、〈
中肉中背。猫背の、覇気のない、運動とは無縁の体。そんな必要があるのかというくらい太いフレームの黒縁眼鏡。髪がぼさぼさなのは滅多に散髪にもいかないからで、それは極度の人見知りで理容店に行くのにも一大決心が必要だからだと推測されていた。
教室ではいつも一人。友人は一人もいない。クラスにはいわゆる『オタク』のグループもあるのだが、そこにも居場所がないらしい。新学年に入ってすぐの一時期はトイレで昼食を摂ることもあり、〈戌〉ははじめて便所飯というのを実際にやる人間がいるということを知り、衛生上、それは止めたほうがいいとも思っていた。
今日も凡田君は会話らしい会話もせず(授業中、教師に一言二言応えることはあったが、それは会話というよりは発声である)、いつものように何事もない一日を終えようとしていた。
どうしてこのようなただの高校生を監視しなくてはならないのか。長時間の監視のうちにはどうしても、余計な考えが頭をよぎる。
しかし、その理由を誰かに問うたことはない。
『決して、組織の意図を詮索してはならない』
この組織には様々な掟があり、それはその一つだった。組織の役割は極度に分割されていた。現場の人間に求められるのは命令に対する遂行であって、何故、どうして、というのは無用とされた。
その根底にあるのは『徹底』だった。
個を消し、諜報機械と化し、組織の一部となる。その徹底は監視者の偽装にも及んだ。自らの本性を捨て、偽装そのものとなるのだ。
そして、暗号名〈戌〉にとってそれは学校近くのアパートの一室を借り、徹底した主婦の偽装として過ごすということだった。
同居している情報員を凡田君が登校する数時間前に送り出し、自分は凡田君の登校を見届ける。日中、凡田君が学校にいる間はそれを監視し続ける。
そういうわけで現在、〈戌〉はワイドショーを流し見しながら、ベッドの上で
あまりにも変化のない日常。
この生活を始めて一年。得たものといえば、すっかり芸能情報に詳しくなったことくらいだ。このまま元の生活には戻れないのではないか、と考えることもあった。
学校では清掃の時間が終わろうとしていた。
監視対象が学校を出れば、今日の任務は終了である。あとは外で待機している他の情報員どもに凡田君がどの校門から出るかを伝えるだけだ。
〈戌〉は連絡の準備を整えた。洗濯物を取り込み、買い出しの準備を始めた。
今日の夕飯を何にしようか、そう考えながら。
◆
組織の監視者〈
とにかく監視しづらいのだ。
常に猫背、髪も伸び放題で、顔が確認できない。道の端を、物陰に隠れるように歩く。そもそも気まぐれで登校・下校時も様々なルートをとる。なかなか開けた場所に出ず、写真を撮るのも一苦労だった。
さらに面倒なのがこいつは真っ直ぐ帰らないのだ。
一体、何でそんなに無駄な時間が使えるのかというくらい寄り道するのである。
本屋、ホビー系リサイクルショップ、ゲーセン、家電量販店。確認されている趣味はプラモ、ゲーム、釣り、アニメ鑑賞……。多趣味といえば聞こえはいいが、単に集中力とか根気がないだけではないか。
両親は離婚。父親に引き取られたが、その父親は海外に単身赴任中。放置されていることをいいことに、毎日、だらだらと過ごしているのである。
「全く、上は何が知りたいんだよ。こんなやつの……」
尾行中の車内、〈申〉は言いかけ、運転席からの鋭い視線を感じ、黙った。
暗号名〈
別にこいつが怖いわけではない。組織が知らせようとしないことを勘ぐることは、組織に弓引くことと同意義だからだ。だから、まあ、怖いっちゃ怖いんだが。
組織には掟があって、組織の意図を詮索してはならないというのもその一つだ。他には無線の使用は最低限、連絡にはネットを介さない、偽装を徹底して行え、などがあった。
『徹底』というのが組織のモットーであり、運転席にいる『田島さん』はその権化だった。
二人が偽装しているのは、組織が運営しているペーパーカンパニーの一つだった。
各家庭を回ってデータベース化された百科事典を売るという、どこに需要があるのかわからない謎の事業を運営していた。この〈雉〉はそんなくだらない仕事にもクソ真面目な杓子定規ぶりを発揮しており、一緒に組まされている自分は大変に迷惑していた。
「目標がアーケードに入った」
運転席で〈雉〉が言った。
凡田君は今日も真っ直ぐ帰らず、街中の商業施設に入っていく。〈申〉は車が停まるやいなや、ドアを開けた。
「はいはい、じゃあ、行ってきますか」
「もう一度、観測規定を繰り返せ」
「接触厳禁。接近厳禁。住居への侵入禁止。夜間の監視禁止。法に触れる行為は大体駄目」
「行け」
さらに問題をややこしくしているのが。組織からの指示だった。
接近厳禁。接触厳禁。住居侵入厳禁。盗聴禁止。郵便物の窃盗禁止。
あまりの禁止事項の多さに、ただの嫌がらせなのではないかと勘ぐることもあった。出来ることといえば遠巻きに眺めるくらいだが、あいにく自分は仕事が減るぶんには文句はない。
凡田君は本屋に入っていく。
凡田君は意外なことにネット通販を使わない。
プライマリー・メンバーシップの年会費と時間指定の料金をケチったばっかりに不在票を入れられたことがあった。その折、再配達依頼の電話をするのが相当プレッシャーだったらしく、二度と利用していない。その代わり、ポイントが付くこの本屋で購入するようになったのだが。
そして、三〇分が経った。この店には出入り口が一つだけだから、撒かれる心配はないのだが。さっそくうんざりしつつ、店外から様子を窺う。
携帯が鳴った。
〈申〉は画面を一瞥し、背後の喫茶店に〈雉〉がいるのを見つけた。どこかに車を停め、ちゃっかりお茶をしていたらしい。
何気ない様子で合流し、コーヒーを注文した。飲んでる暇があるかわからないが、いつもの調子ならあと三〇分は出てこないはずだ。
「今日、何かの発売日か?」
「リープコミックスだ。おそらく『くれたん♡らばー』が目当てだろう」
「ああ、あれ……」
〈雉〉が真面目な顔で、少年誌で連載してるちょいエロで売ってる漫画のタイトルを挙げた。
ということは凡田君はエロい漫画を買う度胸がなかなか出ず、店内をぐるぐる回っているということなのか。大の大人二人がそれが終わるまで待ち受けているということか。あまりの馬鹿らしさに考えるのをやめた。
躊躇するのはいいのだが、そのせいで私服警備員にぴったりマークされている。凡田君は知らないだろうが、優柔不断さと挙動不審さが相まって、とっくの昔に警備員に目を付けられているのである。凡田君は二重に監視されているのだ。
ほら、凡田君。さっさとしろ。心の中で呼びかける。
そろそろシフトが変わるころだ。夕方から十時頃まではこの近所の私大の学生が多い。その中に、結構可愛い子がいて彼女がレジに立つ曜日だ。この一年で、そういうことだけ詳しくなってしまった。
「ほれ、余計買いづらくなるぞ」
凡田君がようやく決心がついたのか、レジに向かったときには例の可愛い子がレジに入るところだった。対象は不自然な反転運動をし、コミックスを平台に戻し、そそくさと本屋を出る。
思わず、噴き出しそうになり、〈雉〉が睨みつけてくるのを感じ、慌てて顔を背けた。それから任務中にしばしば襲ってくる倦怠感をおぼえた。
一体、報告書には何て書けばいいんだ?
◆
午後五時五十五分。凡田純一は自分のマンションに辿り着いた。
ドアを閉める。鍵を掛ける。ドアガードを掛ける。
ドアに体を寄せ、耳を澄ませる。廊下に足音は聞こえない。車道に通り過ぎる車のエンジン音は聞こえない。
携帯を取り出す。バックライトを頼りに、下足置きを照らす。砂埃に刻まれたランダムな模様は朝と変わりない。
キーホルダーを捻ると赤いレーザーが輝く。これは一時期、カプセルトイとして販売されていたレーザーポインターで、出力が高すぎたために販売中止となったものである。レーザーでキッチン前の廊下を照らす。肉眼では見えない足跡のパターンがフローリングに浮かび上がる。これも朝と変わりない。
室内へ。
テレビのスイッチを入れる。これは指向性マイクによる傍聴を防ぐための古典的な手段である。それに疑念を持たれないよう、『凡田純一』は夕方からのローカル局のアニメ再放送の鑑賞を習慣にしていた。窓をチェック、セットしておいた楊枝片に変化なし。
洗濯物を入れる。路地を見下ろす。違法駐車はなかった。怪しげな白いワゴン車はなかった。
戸締まりをし、カーテンを隙間なく閉め、父親の部屋へと入る。主の存在しない部屋。もちろん、変化はなかった。
玄関に戻る。
郵便受けの上を扇ぎ、臭いを確かめる。紙の匂い。意を決して受け口を開く。爆弾、あるいは化学薬品が仕込まれた郵便物はなく、本来無害であるはずの封書が二通入っていた。何故、無害かといえば、それらの送り主は自分だからだ。投函した二通の封筒とも盗難されることなく、自分の元へ戻ってきた。
キッチンから取ってきた使い捨てビニール手袋を嵌め、封書を手にした。
リビングに戻る。机の上で手紙を開封した。中身は特に内容のないダイレクトメールである。ただし、紙には加工がしてあり、指紋や痕跡が残りやすくなっていた。
レーザーを横から当てる。封筒からは複数の指紋が目視できた。一つには見覚えがある。おそらく配達員だ。中身の方には痕跡はない。アクリルの下敷きをフィルター代わりに当ててみたが、誰かが触れたような跡は見つからない。
透明なビニール袋の中に封筒と器具一式を入れ、カッターで慎重に封筒を切り開く。炭疽菌などの残留物は目視できず。
いつもはプラモデルを作成するときに使用している工作用のルーペを掛けた。手紙、封筒をライトを当てながら観察する。やはり、指紋・残留物はなし。念のためハンディクリーナーをかけ、ダストカップを確認するも何も見つからなかった。
ここまでの情報から導き出される仮説は、誰も手紙を盗んでいないし、開封もしていないし、何も仕込んでいないということである。
だが、凡田純一の直感はこう告げていた。
何者かが俺を監視している。