危機が訪れたら有効な攻略法が見つかるまでとにかく逃げろ、というのが戦場におけるジルの部隊の副官の方針だった。優秀な副官だった。ラーヴェ帝国軍に挟み撃ちにされたときも、補給線を断たれて孤立したときも、助けてくれた。
そして今この瞬間も、ジルを救ってくれた。
すなわち──何が起こっているかよくわからないが絶対にこの状況は危険なので逃げる、ということである。
「お父様にお母様、わたしちょっと人ごみに酔ってしまったので外に出てます! では失礼」
「あら、あなたの大好きな豚の丸焼きはいいの? かぶりつくのはいけないけれど」
「胸焼けがするので!」
「なんだと、お前が胸焼け? 悪い病気じゃあないのか?」
豚の丸焼きが食べられない娘を心配する両親を置いて、ジルは一目散にテラスに向かう。城内の構造はもちろん覚えていた。そのことが余計に頭を混乱させる。
(落ち着け、落ち着け! これは夢か? それとも、あっちが夢か?)
テラスに出るところで一瞬足を止めて、もう一度硝子で自分の姿を見た。そっと指先で触れてみて、間違いなくこの子どもが自分であることを確認し──それでもやはり落ち着かずに、そのままテラスへと出る。
(わたしが若返った? いや違う、お父様とお母様が生きていらっしゃる。わたしの記憶だけがおかしい。ということは、時間が戻った? まさか、時を戻す魔術なんて、神でもなければ使えるはずがない! それがどうしてこんなことに……)
口を押さえようとして、その手を見る。すでにこの年で剣を握っていたはずだが、まだ柔らかくて小さな手だった。
そう、この頃はまだ両親が健在で、剣術や武術も『戦闘民族』と呼ばれているサーヴェル家の娘として嗜む程度の、ごく普通のご令嬢だった。
普通のご令嬢が武術を嗜むのかどうかは考えずにおくとして──それでも、そのことはジルに一筋の光明をもたらした。もし、本当に時が戻ったならば、まだ自分は軍神令嬢と呼ばれておらず、ジェラルドのために戦場を駆けてもいない。
ジェラルドの婚約者にも、なっていない。
「……やり直せる?」
いったいどうしてこうなったのかはわからない。けれど、そうつぶやいていた。ぎゅっと小さな手を握りしめる。
戦場では現状を把握できない者から死んでいく。深呼吸した。
(とにかく過去に戻ったのだと想定して動こう。もしジェラルド様に求婚されても、それを受けなければ……いやそれは無理だ、王太子から求婚されて断れるはずがない)
国境を守る信任厚い辺境伯であろうとも、クレイトス王国の一領だ。そこの娘が下手に第一王子の求婚を拒めば、反意ありとみなされてしまうかもしれない。
だとしたらいちばんの手段は、求婚されずにこのパーティーをやりすごすことだ。
(だったら、わたしはすでにやりすごしたのでは……?)
過去が過去のまま進むならば、先ほど、目が合った直後にジェラルドはジルのもとへまっすぐやってきて、求婚した。
だとしたら、テラスに出た時点で、すでに過去は記憶どおりではなくなっている。
「そこから逃げたのだからもう解決した!?」
「ジル姫」
「出た───────────────!!」
思わず絶叫したジルに、ジェラルドが──ジルの体感ではほんの十数分前まで青年だったのに今は少年になっている王子様が──首をかしげていた。
「出た?」
「い、い、いえ……なんでも、ございませんですわよ」
うろたえに加えて、無理に令嬢っぽくしようとした口調が余計におかしい。
だが、パーティーが始まったばかりだというのに、主賓のジェラルドがテラスに出てくるのはどう考えてもおかしい。しかも、その手になぜか一輪の薔薇を持っていて、その薔薇にジルは見覚えがあった。
求婚されたときにもらったのだ。ついでに思い出す。いつぞや求婚の理由を尋ねたとき、ジェラルドは笑顔で答えてくれたのだ──「一目見たとき、君だと思った」と。それを運命だとひそかに喜んだものだが。
(もう目があった時点で遅かったのか!?)
冷や汗をだらだら背中で流しているジルをどう思ったのか、ジェラルドが目を細めた。
品物を検分するようだ、と思ってしまう。なぜなら、彼がこの時点で実の妹を愛していると知っているからだ。
「失礼した。私はジェラルド。ジェラルド・デア・クレイトス……この国の王太子だ」
「そ、そうでございますですのね」
「あなたは、サーヴェル家のジル姫だな」
ジェラルドがいささか緊張したように眼鏡をふき、またかけ直す。そう、王女でもない自分を姫と呼んでくれる王子様に、あのとき自分は舞い上がった──。
「……あなたに大事な話がある」
星がまたたく夜空の下で、王子様が進み出てくる。シャンデリアがきらめくダンスフロアの真ん中での求婚も素敵だったが、これはこれで素敵な光景だった。
そう、相手が腐れシスコン野郎でなければ。
(ここで大声でばらしてやるとか!? あ、駄目ださっき知られただけで殺された)
叫んだ瞬間に色んなものが終わるだろう。彼はもうこの頃から神童と名高かった。
「驚かずに聞いてほしい。私は、あなたを一目見て──」
「あっなんてこと、お父様とお母様が心配しているのに違いありませんですわ!」
大声でさえぎって、その場を早足で駆け出す。ジェラルドのきょとんとした顔は見物だったが、それどころではない。
(ここは逃げねば! これが夢という可能性もあるが、だからといってこのままでは……今度は知ってる分、余計最悪だ! 人生早期終了の可能性もある!)
だからといって、すでに目をつけられてしまったらしい今、どんな手が打てるだろう。ジルは人をかき分け、進みながら考える。
テラスから出てきたジェラルドの姿がちらと見えた。このまま諦めてくれればと思ったが、やっぱりというかなんというか、ジルの姿を見て叫ぶ。
「ジル姫! どうして逃げる」
お前はもう捨てた男だからだよ、と言えたらどんなにいいだろう。だが、声をあげた第一王子の姿に注目が集まりつつある。聞こえないふりをして時間を稼げるのもわずかだろう。
(第一王子の求婚を、穏便に回避する作戦……っもう恋人がいることにするか!? だめだ、今のわたしは子どもだぞ無理がある! しかも王太子が手を引くお相手じゃないと……ってそんなものそうそう転がってるわけないだろうが! せめて魔力が異常に高くて物理的にも強いとか、それうちの家だしジェラルド王子も強かった!)
現実逃避をややまぜながら必死で逃げる。だが十歳の子どもの体では、どうしても人の波に押し流されてしまう。人が少ない場所を狙って進むが、それはすなわちジェラルドに追いつかれやすいということでもあった。
「ジル姫!」
どうにか人の輪から抜け出たところで、とうとうジェラルドに追いつかれた。
(そうだ、わたしから求婚すれば……巻きこんだ責任は取る! しあわせにする!)
腕をつかまれそうになったジルの手が、とっさに何かを後ろ手でつかむ。それは妙に手触りのいい上質なマントだった。あとずさるジルの背中にあたったのは、おそらく膝。びくともしないところから、大人の男性だとわかった。
ならば、子どもの戯れ言ですむかもしれない。
ジェラルドが息を吞んだこともジルに勇気をくれた。
とにかくこの場を逃げ出してしまわなければ──その一心で、叫ぶ。
「わたし、この方に一目惚れしました! この方と結婚します──この方を一生かけて、しあわせにします!!」
「ジル!?」
騒ぎを聞きつけたのか、両親の驚く声が聞こえた。周囲がざわめき、ジェラルドが難しい顔で唇を引き結ぶ。
その、子どもの戯れ言と流すにはやや過剰な周囲の反応に、ジルがまばたいたとき──頭上から声が降ってきた。
「わかった。では君を妻に」
それはジルが望んだような、大人が子どもの戯れ言を受け流す返答ではなかった。
低くて、耳触りのいい男性の声だ。やけに色っぽくて、背筋がぞくぞくする。耳元でささやかれたら、腰砕けになってしまいそうなその声。
一度味わえばもう忘れられなくなるような。
(き、聞き、覚えが……ある)
戦場で、つい最近──いや六年後か、ややこしい。とにかくこの先の未来で、ラーヴェ帝国軍と一戦まじえたときに姿を見せた、その声の持ち主は。
「お嬢さん。君の名前は?」
「ジ……ジル・サーヴェル……」
振り向かずに答えたジルに、ほう、と感心したような声が返ってくる。
「サーヴェル辺境伯の姫君か。どうりで魔力が高い。何より、幼くとも確かな目をお持ちのようだ。この僕に自ら求婚するなんて」
こん、とグラスをテーブルに置く音がして、男性が立ちあがる気配がした。同時にふわりと片腕で抱きあげられた。力の抜けたジルの手から、マントが落ちる。
シャンデリアの光を弾いて艶めく髪。眉の形も鼻梁も薄い唇も、頰の輪郭から顎の形まで圧倒的な造形美を象っている。何よりも目を引くのは、金色の両眼だ。月のように静謐で、獣のような残忍な輝きを併せ持った瞳。
抱きあげたジルを覗きこむ仕草は優しげなのに、喉元に刃でも突きつけられたような緊張がはしる。なのに目をそらすことを許さないほど、美しい。
「どこぞの島国には飛んで火に入る夏の虫、という言葉があるそうだ。ご存じかな?」
ぶんぶんと首を横に振った。だから、離してほしかった。だが相手は一切笑顔を崩さない。
「そうか。だが大丈夫、不安に思うことはない。僕は妻にはひざまずくと決めている」
ジェラルドは何も言わない。これ以上なく険しい顔をして、拳を震わせている。
そういう意味で、ジルが直感的に選んだ相手は非常に正しかった。
正しいのだが、人生の選択としては、どうしようもなく間違ってもいた。
「このハディス・テオス・ラーヴェ、貴女の求婚をお受けしよう。──綺麗な紫水晶の目をした姫君、どうか僕をしあわせにしてくれ」
そう言ってジルの前に隣国の若き皇帝が優雅にひざまずき、毒のように甘ったるい笑みを浮かべて恭しく頭を垂れた。
たった一閃だった。
白銀の剣が蛇のようにうねって伸び、一帯をなぎ払っていく。空と大地を食い散らかす獣のようだ。山が砕かれ、地面がわれ、補給線を分断された。戦線が崩れ、もはや陣形を整えることもかなわない。闇夜を照らす戦火が、あっという間に広がっていく。
空からの容赦のない攻撃に、もはやこちらの敗北は決定的だった。
「ひとり残らず殺せ」
赤く燃える夜空からこちらを見おろして、敵国の皇帝が感情のない声で命じた。
「子どもも、女も、赤ん坊も関係ない。あの女の眷属など生かす価値もない。ゴミだ。虫けらだ。生きていること、それ自体が罪だ」
その声は真冬の吹雪よりも無慈悲に、周囲を凍りつかせる。
「だが簡単には殺すな。母親の前で赤ん坊の目をえぐれ。夫の前で妻をなぶれ。兄弟で殺し合わせろ。生まれてきたことを詫びさせろ、死なせてくれと叫ばせろ。希望も愛も夢も絆も、すべて蹂躙しろ。何ひとつ残すな──俺が、そうされたようにだ!」
それは虐殺だ。信じられない命令に、両眼を見開いたジルは頭上をあおぐ。
堰を切ったように上がる怒号と悲鳴に、敵国の皇帝は金色の瞳を見開き、哄笑していた。
悪逆非道の、呪われた皇帝。人を人とも思わず、踏みつけ、なぶり、その様を楽しむ、狂気の王。自分の目で確かめるまでは信じるまいとした現実が、そこにあった。
(──止める!)
剣を握り、ありったけの魔力をこめて地面を蹴り、はるか高みにいる皇帝のもとを目指す。
戦争とはいえ一般人を巻きこんでの虐殺など、許せるはずもない。けれどそれ以上に、許せないものがあった。
こんな敵ではなかった。
銀色の魔力が民を守るためだけに夜空に翔る様は、本当にうつくしかった。敵ながら見惚れるほどに鮮やかに勝敗を決め、犠牲を最小限にとどめ、余裕の微笑を浮かべながら撤退を促すその姿は高潔ですらあった。
なのに、この皇帝はいつからこんなふうになったのだろう。
ふと顔をあげた皇帝が、突っこんでくるジルへ向けて虫を振り払うような仕草で魔力の塊を叩きこんできた。それをジルは両腕を広げて正面から受け止めて、歯を食いしばる。両腕に力をこめて、気合いと一緒に腕の中で風船をわるように霧散させた。
その派手な破裂音に、地上も空も我に返ったように静まり返る。惨劇を命じた皇帝自身も驚いた顔をして、振り向いていた。
振り向かせてやった。そのことに勢いを得たジルは、あやうく死ぬところだったのも忘れて叫んだ。
「うちの負けだ、認める! だからそちらは早々に兵を引きあげろ!」
皇帝が端麗な眉を、わずかにひそめた。
「負けているのに、なぜお前が命じる」
話ができるじゃないかと、その人並み外れた美貌に向かってジルは胸をはる。
「どうしても誰かをいたぶりたいなら、わたしだけにしろ。捕虜になってやる。──だから他には手を出すな」
奇妙な生き物でも見るように上から下までジルをながめた皇帝は軍神令嬢とつぶやき、薄い唇に嘲りを浮かべる。
「ご立派なことだ。だがどうせ、最後はどうして自分がと醜く泣き叫ぶ」
「誰が泣かされるか、お前のような弱い男に」
「弱いだと? この俺が? 竜帝に向かってよく言った。もういい、殺してやる」
「では、お前はわたしより強い男か?」
口端をあげて笑い損ねた皇帝が、こちらを初めてまともに見た。金色の獰猛な瞳に、まっすぐ、ジルは剣先を突きつけた。
「そうやって憂さ晴らしをするお前は、本当にわたしより強いか!?」
金色の瞳が一瞬だけ、何かを訴えるように輝き──そして消える。
「興が削がれた。全軍、引け」
抑揚のない声が、突然の命令をくだした。まさか本当に兵を引くと思わなかったジルは、思わず声をかける。
「いいのか。──おい答えろ、わたしをとらえなくていいのか!?」
「お前のような色気のない女をとらえて何が楽しい」
ぽかんとしたジルを残して、蜃気楼のように皇帝の姿がかき消えた。
あとには魔力の残滓が蝶の羽ばたきのように舞うだけ。あれだけいたはずのラーヴェ帝国兵の姿も消えていた。あっけない終わりだった。
だが、ジルの心中がそれでおさまるはずがない。
「わ、わた、わたしに色気がないだと!?」
一拍おいてぶち切れたジルを、部下達が全員でなだめにかかってくれた──それはジェラルドに冤罪をかけられる少し前、つい先日のこと。
そして、おそらく今から六年後のことでもある。
(ああ、昨日でも六年後でもいい。やっぱり全部夢だ。夢に違いない……)
目がさめたら生きているといいな、と思った。
できれば、奇跡的に木の枝に引っかかって落ちたとかで、気絶していた展開を望みたい。実は無事だった優秀な副官が手を回して、運んでくれていたとかだと、なおいい。
だって今寝ている場所はこんなにもあたたかく柔らかい──はっと目がさめた。軍での起床宜しく飛び起きる。
髪に飾ってあった大きな生花が落ち、結っていた髪がほどけて肩からこぼれ落ちた。握って開いてみた手のひらは、やはり記憶より小さい。金糸の刺繡で意匠を施してある深紅の羽布団に埋まっている足も、短い。
ふと風を感じて、裸足で寝台からおりた。分厚いカーテンの隙間から日光が差しこむ窓の外を、背伸びをして覗く。見覚えのある中庭だった。
「……ここは王城……の、客間か?」
「ああ、よかった。目がさめたのか」
続きの奥の部屋から入ってきたのは、先ほど夢に出てきた相手だった。
ハディス・テオス・ラーヴェ──夢よりもまだ若い。だが見間違うことなどありえない、隣国ラーヴェ帝国の美しき皇帝。
思わず両手で拳を作った。今が六年前ならば、まだラーヴェ帝国と開戦していない。だから今は、敵ではない。わかっているが、ジルはこの皇帝の圧倒的な力を戦場で目の当たりにした記憶が生々しく残っているせいで、警戒がとけない。
そんなジルの様子がわかっているのかいないのか、ハディスはつかつかと歩いてきて、目の前にしゃがんだ。
時計の秒針の音が響くだけの、沈黙が部屋中に広がる。人並み外れた美貌にひたすら見つめられ、頰がつらないよう頑張っていると、ややあってハディスが言った。
「もう一度求婚してほしい」
「……はい?」
「これが夢じゃないと確かめたい」
警戒も忘れて呆けてしまった。だがハディスはジルをじっと見つめて視線をそらさず、返事を待っている。その一途な瞳に、実家にいる軍用犬がなぜか思い浮かんだ。
(ろ、六年後とずいぶん印象が違うような……)
どうしたものか迷っていると、怪訝そうにハディスが眉をよせた。
「どうして返事をしない? ……ひょっとして、まだ具合が悪いのか?」
「え……あ……わ、わたしは、どうしてここに……き、記憶が曖昧で」
「気絶したんだ。……まだ無理はさせないほうがいいな、失礼」
「へっ!?」
突然、抱きあげられた。そのまま有無を言わさず、先ほどの寝台まで運ばれる。
「眠れないかもしれないが、横になっていたほうがいい」
丁寧にジルを寝台におろすハディスの動作は、気遣いに満ちていた。
「それとも、何か軽く食べられるものでも用意したほうがいいかな。ああ、起きているならこれを。足元が冷えるだろう」
寝台のすぐそばに置いてあった室内靴を手に取り、ハディスがひざまずいた。ぎょっとしたジルに、靴をはかせようと素足を取る。さすがに悲鳴をあげそうになった。
この男は皇帝だ。子ども相手でも、戯れがすぎる。
「こ、皇帝陛下にそこまでしていただかなくても、自分でできます!」
「遠慮しなくていい。僕は妻にはひざまずくんだ。じっとして──ほら、できた」
満足げに下から微笑まれ、雷に打たれたような衝撃が全身を襲った。
他に類を見ないような美しい男の微笑とくれば、もはやそれは攻撃である。撃ち抜かれた胸をおさえてジルは内心で歯ぎしりする。
(お、男は顔じゃないとはいえ、正直、好みの顔だ……どこにも隙がない! しかも顔だけじゃない、線が細く見えるが筋肉のつき方も姿勢も素晴らしい、全身が強い……! どうしてこんな男がわたしにひざまずいて)
はっと我に返った。自分はこの男に求婚したのだ、そして──どうなったのだろう。
「あのっ……」
だが、乱暴に開かれた扉の音がジルの質問をさえぎった。鎧の音が響き、両開きの扉を挟んで鎧の兵隊が並ぶ。物々しい雰囲気に、膝をついていたハディスが立ちあがった。
「向こうも君の目覚めを待ち構えていたようだな」
「え……」
「ジル・サーヴェル! どういうことか話を聞かせてもらおうか」
挨拶もなく部屋に踏みこんできたのは、ジェラルドだった。ハディスが目に入っていないのか、荒々しい歩調でまっすぐこちらへ向かってくる。
「君は何を考えている。私の話も聞かずに逃げたあげく──」
「ジェラルド王子。こんな小さな子をいきなり質問責めにするなんて、無粋だよ」
横からハディスがわって入った。ジェラルドが冷ややかに応じる。
「失礼。ですが、ラーヴェ帝国には関係のない話です。大体、あなたの客間は別にあるはずですが、なぜこちらに?」
「婚約者が倒れたら心配して見にくるのは当然じゃないか」
「あなたと彼女は婚約などしていない。国王も彼女の両親も認めないだろう。それに、彼女と婚約するのは私だ。そう内々に話が決まっていたのだからな」
びっくりして顔をあげた。そんな話、聞いた覚えはないのだが──ああでもと両親の顔を思い浮かべた。
(絶対に忘れてるな、お母様もお父様も……)
おっとりした両親は政治力にとにかく欠ける。だから、サーヴェル侯爵家は功績のわりに裕福ではない。
しかし、婚約が内々に決まっていたなら、ジルがジェラルドを拒むのは相当困難になる。王太子であるジェラルドの面子を潰したことになるからだ。
「皇帝だからと知った顔で我が国の事情に踏みこまないでもらいたい。内政干渉だ」
「内政干渉? ただ、君がふられて悔しいという話だろう」
薄く笑ったハディスに、ジェラルドが眉を吊りあげた。ぴりぴりした空気に、ジルがはらはらしてしまう。今の時点でジェラルドはすでに武人と名高く、兵も連れている。何かあれば一対複数だ。分が悪いのは目に見えている。だがハディスは落ち着いていた。
「そんなことよりも、もっと大事なことに目を向けるべきだろう。君はいずれ、この国の王になるのだから」
「忠告はありがたく受け取っておこう。呪われた皇帝陛下の手腕では、参考にできないが」
苛立ちと侮蔑をこめた口調でジェラルドがやり返す。
対するハディスは、あくまで不敵な笑みを崩さない。
「わかってくれたなら結構。勝てない相手に刃向かうのは愚かだ。君と僕では格が違う」
「言ってくれる。私を侮辱する気なら──」
ふっと目をさましたように、ハディスが金色の瞳を見開く。雰囲気が一変した。
「さがれ」
瞬間、部屋全体の重力が増した。
がしゃがしゃと壊れるような音が響き、武器を落とした兵士が次々と膝を突く。立っていられないのだ。中には気絶したのか、卒倒した者までいる。
(ま、魔力じゃない。ただの威圧感だけで……!)
圧倒的な覇気だ。正面から圧を受けていないジルでさえ、総毛立ってしまう。
その場から飛びのきたい思いをこらえながら、ハディスの横顔を見た。脂汗をかきながらも立ったまま睨めつけているジェラルドに向けて、ハディスが手を伸ばす。
「後始末は君にまかせるよ」
ハディスに肩を叩かれたジェラルドが、そのまま尻餅をついた。
「噂どおりの、化け物が……っ」
歯ぎしりするジェラルドに、ハディスは穏やかに微笑む。そうすると、空気を吸うことも許さないような重圧がいきなり消えた。ほっと息を吐き出したジルを、ハディスが抱えあげる。
「すまない、驚かせた。場所を移そう」
高鳴りに似た高揚感をおさえて、ジルは頷く。
(やっぱりこの男、強い……!)
さぐるようなジルの視線を受けて、ハディスが破顔した。
「君は平気そうだ。やはり僕の目に狂いはない」
「あれをやりすごせなくては戦場では生き延びられ──」
今の自分は軍神令嬢ではないと思い出し、はっと口をふさぐ。だがハディスは気にしていないようで、死屍累々になっている兵士の間を悠々とすり抜け、廊下に出た。
「しかし、ここではゆっくり話もできそうにないな。ジェラルド王子があれで諦めるとも思えない。……しかたないか、愛は困難をともなうって本で読んだ」
「あ、愛……いえ、本?」
「大丈夫だ、君に手出しはさせない」
顔がいい男が言うと思わず頷いてしまう。だが、はたと気づいた。
(……今のわたしは、十歳なんだよな?)
そしてこの男は今、二十歳前後のはずだ。
(政治的な理由もなく大人の男性が十歳の子どもと婚約するなんて、幼女趣味でもない限りありえないんじゃ……!?)
一気に頭から血の気が引くと同時に、視界が一変した。
「君の魔力が安定していないようだし、移動は船にしよう。念のため持ってきてよかった」
「は!? え!?」
急いで周囲を見回す。先ほどまで高かった天井が一気に低くなっていた。寝台はひとつ、小さなテーブルと椅子もある。決して小さくはないが、広くもない部屋だ。小さな丸い窓が特徴的で、板張りの床がぎしりと軋み──いや、ゆれた。
どこかに転移した。呆然とするジルを置いてけぼりにして、ハディスが微笑む。
「大丈夫だ、魔力で飛ばせば数時間でラーヴェ帝国の領土に入る」
ええええええとジルが絶叫したときは船は海面をすべるように走り始め、丸い窓から見える故国の港はあっという間に小さくなっていった。