粉雪まじりの強風が頰を叩く。頰についた血と髪も吹き飛ばす、凍てついた夜だった。
どうにか階段をのぼりきり、城壁の上までたどり着いたジルは、片膝をつく。ちらりと見た城壁の向こう側は、底の見えない暗闇しかなかった。
押さえた右肩の出血が止まらない。魔力で治癒をしようとしても、うまくいかない。誰かが邪魔をしている。だがその原因を突き止める時間はなさそうだった。
それにその魔力も、たったひとり、ここまで逃げるために底をつきかけている。
この状態では、飛び降りて助かるとはとても思えない。
「いたぞ、ジル・サーヴェルだ!」
それでも敵の声を聞けば、体は反射のように動く。何年も初恋のひとのために戦場を駆けてきた習慣だ。
腰にさげた長剣を抜いて石畳を蹴ったジルに、追いかけてきた城の兵士達がひるむ。
大きく踏みこんで一振り、回転して横薙ぎに、舞のように斬りつけて血路を開こうとするジルに気迫負けして何人かはうしろにさがっていくが、数が違いすぎた。
徐々にジルは囲まれ、追い詰められていく。
相手も悪い。つい昨日までジルにとっては仲間、守るべき国民だった。どうして、という思いが失血も手伝って剣さばきをにぶくする。
ついにジルは尻餅をついて、兵達の槍に、剣先に囲まれた。
「そこまでだ、ジル」
何より、凜とした声がジルの身を震わせた。
兵の奥から、城壁に立つには不似合いな出で立ちの青年が現れた。吹雪く強風にはためくマントの色は群青。クレイトス王国の王族のみに許された、女神の禁色だ。
「……ジェラルド様」
名前を呼ばれたこの国の王太子は、魔力を制御するためにかけているという眼鏡の鼻当てを軽く持ちあげた。
「私の妃になるはずだった女性が罪を認めず逃げ出すなど、恥を知れ。……フェイリスがどれだけ胸を痛めているかと思うと、私もつらい」
「──相変わらず、妹思いなのですね」
戦場で無駄口など叩くべきではない。
だが思わず嫌みを口にしてしまったジルを、ジェラルドは冷静に見返した。
「当然だ。我が妹にまさるものなど、この世にはない」
(黙れこの腐れシスコンが!!)
そう叫ばなかったのは不敬罪が怖かったからではなく、ただおぞましかったからだ。
そもそも、罪名が追加されても、処刑が決まっている身である。しかも冤罪ばかりで──いや、身に覚えがある罪状ならある。言うなれば、『私と私の世界一可愛い妹との仲を理解しなかった罪』だ。無理解罪とでも名づけてやりたい。
吹雪の中、悠然と立っている金髪の王子はジルの婚約者だった。ジルが十歳のとき、初めて訪れた王都で第一王子ジェラルド・デア・クレイトスの十五歳の誕生日パーティーに出席したその日、初対面で求婚され、そういう仲になった。
ジルの故郷であるサーヴェル辺境領は、神話の時代から何かと争いが絶えないラーヴェ帝国と接している。いずれくるラーヴェ帝国との争いを見越して血縁者を取りこもうという、政略的な求婚だったのかもしれない。それくらいならジルも了解していた。でもジェラルドは他人にも自分にも厳しく、真面目で、責任感のある、尊敬できる人物だった。
何より、化け物じみたジルの魔力を認め、必要だと言ってくれたのだ。
だから堂々と魔力を使い、戦場を駆けることもまったく苦にならなかった。普通の女の子とは違う青春でも、化け物だ戦場でしか笑わぬ冷血女だ男女だと嘲笑されても、ジェラルドという王子様が自分にいると思えば、引け目を感じなかった。
戦功をたて軍神令嬢とよばれ、年頃の男子より女子に恋文をもらう十六歳になっても、まあいいかですましてこられたのだ。
なのにジェラルドの正体は、妹と禁断の恋に励む変態だった。
ジェラルドの溺愛する妹、フェイリス・デア・クレイトス第一王女はこれまでの人生をほとんど寝台ですごしている、病弱な少女だ。外にもほとんど出られず、ジルも指で数えるほどしか会ったことがない。
だが一目見れば誰しもが魅了される、天使のような少女だった。ジェラルドの溺愛ぶりもしかたがないと頷いたものだ。妹の具合が悪いと聞けばジェラルドはジルの誕生日パーティーも婚約記念日もすべてすっぽかした。冗談まじりで不満をもらそうものなら、城中の人間に白い目で見られ、ジェラルド本人には手厳しく糾弾され、挨拶すらできないまま戦場に送り出される。優しい部下に慰められつつ、自分の狭量さを反省したものだった。
だって思わないではないか、普通──婚約者の浮気相手が、実の妹だなんて。
いや、厳密には浮気相手は自分のほうだった。自分との婚約は、最初から妹との禁断の恋をカモフラージュするためだったのだ。ジルは完全な道化だった。百年の恋も一気に冷める事実をつい最近、ジルは知った。もはや悲しみや怒りを通り越して笑うしかない。
(妹思いの、いい兄だとばかり……少しすぎたところがあるだけで……)
だが、ジルがそうと知ったあとのジェラルドは、非情だった。
まず、婚約を破棄された。願ったり叶ったりだったが、それだけではすまなかった。
その翌日にはなぜか身に覚えのない罪で拘束され、その次の日には牢に放りこまれ、その次の日には裁判が終わっていて、その次の日には処刑が決まって、今日になっていた。ちなみに処刑は明日である。
王太子とその妹の名誉を守るための、迅速かつ完璧な口封じだった。世間ではジルがフェイリス王女に醜い嫉妬を起こし、毒殺を目論んでいたことになっているらしい。ジェラルドの指示なのかなんなのか、フェイリス王女が涙ながらにそう告発したそうだ。
こうなったときを前々から想定して備えていたとしか思えない。ジェラルドの優秀さに妙に感動してしまった。か弱いとばかり思っていたフェイリスにも感服した。正直、侮っていたと反省している。女子力皆無と言われる自分にはできない芸当だ。
これだけ素早く手を回されると、故郷の皆も、つかの間の休日をすごしている自分の部下達も、助けにくる時間はないだろう。ジルの処刑が決まったことが伝わっているかどうかもあやしい。いや、そもそも故郷や自分の部下が無事かどうか──。
「しかし、どうやって牢から出たのだか。君が飼っている狂犬共は始末したはずだ」
覚悟はしていたが、部下のほうにもすでに手は回っていたようだ。最悪だ。ジルを追い詰めるように、ジェラルドの分析は続く。
「サーヴェル家も今は動けない。……内通者を見つけなければな」
「ご心配なさらずとも、内通者などおりません。魔力で叩き壊して出てまいりました」
「……。まったく、サーヴェル家の人間はこれだから」
呆れた顔を懐かしいなどと思ったことが、むなしかった。
「君が聡明な判断をしたならば、クレイトス王家の子を教育する名誉くらいは与えてもよかったんだが……まあ、これでよかったのかもしれないな。フェイリスの子を、魔力の強い筋肉馬鹿にされてはたまらない」
なるほど、ジェラルドと妹の仲を見すごせば、そういう未来が待ち受けていたわけか。
これはもう、更生の余地も理解の必要もない。恋心が完膚なきまでに粉砕された。自嘲がにじむ。ありがたい話だ。
(……我ながら、節穴すぎた。こんな男を強いと、尊敬していたなんて)
がん、と石畳の隙間に剣を突き立てて、ジルは立ちあがる。生きなければ、と思った。
人間は簡単に死ぬものだと、戦場で嫌というほど学んできた。だが死ぬとしても、せめてこの男が笑えない死に方をしなければ、腹の虫がおさまらない。
「ただ私を盲信し続けていれば、幸せになれただろうに」
「──どけ」
奔らせたジルの剣先を、ジェラルドがよける。さすが、王都の守護神を名乗る自分の元婚約者だ。
眼鏡の奥の黒曜石の瞳がわずかに光り、ジェラルドが持っている黒い槍に魔力が奔る。クレイトス王家に伝わるという女神の聖槍なら、まともに打ち合っても武器のほうがもたない。
だが、こちらは年季が違う。この男のために戦場を駆けた軍神令嬢だ。
(なめるな!)
一点に魔力をこめて、王子様の槍を弾き飛ばした。舌打ちしたジェラルドが一歩引いた分あいた歩廊を走り抜け、城壁の一番高い壁にのぼり、足下を見おろした。
真下は暗闇、底の見えない崖だ。だが、もみの木が生い茂る森が広がっているはずだ。雪もこれだけ降っている。うまくいけば助かるかもしれない。生き延びても凍死するだけかもしれないが、それでも。
「ジル! 何を」
「勘違いしないでくださいね、殿下。あなたがわたしを捨てたんじゃない」
少なくともこのままよりは、可能性があるだけずっといい。
「わたしがお前を捨てるんだ」
ジェラルドの婚約者として失ってはいけない女らしさのためにはいていた、ヒールの高い軍靴で、城壁を蹴った。
「矢を射ろ! 逃がすな! 銃はどうした!?」
矢の嵐が降ってきた。
肩をかすめていった矢に毒が仕込まれているのがわかった。しびれを感じた指先に眉をひそめたが、笑い返す。城壁の上からいくつもの銃口が火を噴く。それらも全部、残り少ない魔力で弾き返してやる。
だが魔力の壁を突き破り、ジルをめがけて一投されたものがあった。
黒い槍。女神の聖槍だ──ジェラルドが投げたのだろうか。悲しむ暇などない、胸に突き刺さる直前でそれを握り止めたジルは、不敵に笑う。
(負けるものか)
手のひらが魔力で焼けていく臭いがする。爆風が吹き荒れる。凍える風も魔力も、涙も蒸発していく。
負けるものか、負けるものか。こんな終わり方をしてたまるか。
歯を食いしばって、そう前を見据えたいけれど、視界がかすんでいくのがわかった。魔力が消えていく。それは命の灯火だ。
ゆっくりと手から力が抜け、黒い槍の切っ先が心臓に向かう。
(もし、あの男の婚約者にならなかったなら)
ああ、これは走馬灯だ、いけない──そう思うが、止まらなかった。
だって十歳のあのとき、パーティーで求婚されなければ、自分は故郷で戦場に立つことはあっても、先陣切って駆けずにいただろう。素朴でも優しそうな強い男と恋をして、普通の女の子らしい出来事を味わえたかもしれない。
そして大好きなお菓子やご飯をたくさん食べて──いや、そこは少し違うか。
でも、あの日、あのとき、求婚さえ受けなかったならば、人生は違ったはずだ。
(誰かを好きだったことを失敗のまま、終わらせたくないのに)
──次。次さえあれば、利用されたまま終わらないのに。
「……ジル、どうしたんだ。ジル?」
「え?」
はっとまばたいた。真っ暗な空も、血も塗りつぶす雪の白さもなかった。それとは正反対の世界があった。
「なんだ、緊張しているのか?」
「いくらジルでも気後れしますよ。初めての王都で、こんなにぎやかなパーティーに出席するなんて! 私も目がくらむわ。まるで夢のよう」
「ジェラルド王子の十五歳の誕生祝いだからな。しかも、このパーティーで婚約者を選ぶともっぱらの噂だ。国王様も力を入れているのだろう」
頭上から降る会話をジルは呆然と聞いていた。
(……お父様とお母様だ)
とっくに死んでいるはずの彼らが、なぜ。
だが夢だと思うにはいささか強い力で、母がその手を引く。
「ジルが選ばれたりしてね?」
「え……な、何に、ですか」
「ジェラルド王子の婚約者にだよ。お前は刺繡も歌も料理もてんでだめだが美人だし、まだまだ色気より食い気だが、しっかり者で優しいからなあ」
両親はきっと冗談のつもりで、笑っていた。
そう、笑っていた──覚えがある。
さあ行こうとうながされた先で、天井近くまである両開きの扉が開く。サーヴェル侯爵ご夫婦とそのご令嬢ご到着というかけ声。案内の先にある世界は。
(……噓だ)
吹き抜けの天井から吊されたいくつものシャンデリアと、そのきらめきが映りこむ大理石のダンスフロア。二階に向かう交差した真っ赤な天鵞絨の階段。オーケストラの奏でる華やかな音楽。真っ白なテーブルクロスに銀の食器が並べられ、瑞々しい果物が盃にのっている。ぐるりと周囲を囲む金の燭台に灯る火が意味をなさないほど、明るい色のドレスで花のように踊る令嬢達。
──自分は、この夢みたいな世界を前に見たことがある。
(そんな、馬鹿な)
ふと、横にある窓が目に入った。曇りひとつなく磨きあげられた硝子は、鏡のように自分の姿を映し出してくれる。
そこには金髪を大きな花飾りで結いあげ、薄桃色のドレスを着た女の子の姿があった。まん丸に見開いている紫の瞳。年の頃は十歳くらいだろうか。
いや、多分十歳だ。まだ普通の女の子だった頃の。
「ジェラルド・デア・クレイトス王太子殿下、ご入場!」
ファンファーレと一緒に最奥から堂々とした足取りで下りてくるその姿を、よく覚えていた。
生まれて初めて見る本物の王子様というものを、食い入るように見つめていたのだ──その眼鏡の奥の瞳と視線が交差するまで、あのときの、十歳の、自分は。
「!」
そうしてまた目が合う。
先ほど真夜中を告げたはずのクレイトス王城の時計塔が、再び鐘を鳴らした。