第一章 その1
翌朝早朝。
俺は宛がわれた部屋で身支度を整えていた。着ているのは持ち込んだ数少ない普段着。
……いつの間にか綺麗に洗われて、ほつれも直されていて新品同然になっていたことについては何も言うまい。突っ込んだら負けだ。
部屋の中心にはとんでもなく大きなベッド。それに脇机や椅子といった幾つかの調度品。
大貴族様の御屋敷の部屋としては殺風景に見えるものの……触れてみると分かる。
ここにある物は、小物一つとっても上質。値段は分からねぇけど……高い。間違いなく。
き、気を付けねぇと。し、借金が、借金が増えるっ。
上質な布地のカーテンを開けた窓からは、初春の日差しが降り注いでいる。
庭の噴水は凍っている。まだまだ寒そうだ。部屋の中が暖かいのは窓や壁が上等なのと、至る所に組み込まれている魔法の効果なんだろう。
俺如きじゃ詳細は分からない。でも、暖炉に火を点けなくていいのは楽でいいや。
太陽の高さから見て、
「……普段よりも起きんのは結構早い、か」
初めて寝るベッドや枕が合わなかった、というわけじゃない。
むしろ、ベッドと枕は今まで経験したことがない程、ふかふかで、毛布も信じられないくらいに柔らかかった。横になった瞬間、睡魔に負けたし。
なのに、こんな時間に起きちまった――洗面台に映る自分の顔を確認。
黒茶の瞳と髪。容姿は自分で言うと物悲しいが、可もなく不可もなく。
背は……これから、これからだから!
何とはなしに呟く。
「……やっぱ、緊張してんだろうなぁ」
つらつらと、昨日までの流れを思い返す。
突然、帝国一の大金持ちな大貴族様に呼ばれて、遠路遥々、帝都へ。
来てみたら、爺ちゃん同士の古い約束が発覚。
いきなり侯爵令嬢と婚約しそうになった挙句、執事をすることに。
孤立無援か、と思いきや俺の許嫁にして御主人様になったエミリア・ロードランド侯爵令嬢も、この婚約には乗り気ではない模様。思わず快哉を叫んだ。
その後、突然不機嫌になったお嬢様へこの部屋へ案内されて、少しだけ休憩していると、またしてもお嬢様が呼びに来て夕食へ。
いや~あんな大広間で食べんのな。しかも、使用人の人達とも一緒に!
あと、メイドさんって、本当にいんだなぁ。
料理自体は、しきたりに厳しい貴族様の料理が出てきたらどうしたもんか……と思ってたけど、肩透かし。食べたこともない珍しい料理が、ずらっと。好きに食べて良し。
侯爵曰く、
『我が家は西方戦役で武功を挙げた成り上がりだよ。堅苦しい料理はどうにも肩が凝ってね。何より、どうせ食べるならば美味い物の方が良いだろう?』
ごもっとも。俺にとっては有難い話だ。
――問題はエミリア・ロードランド侯爵令嬢。
俺の目の前に座った時は機嫌も直っていたようで『美味しいですか?』とか『こっちのも食べてください』とか、『口元が汚れていますよ?』とか、あれこれと話しかけてくれていたんだが……。頭に右手を置く。
「あの話を出したのが失敗だったかぁ」
食事の都度都度、侯爵も気を遣って話しかけて下さっていて、途中、爺ちゃんから聞いた西方戦役の話をしたところ、やたらと盛り上がってしまったのだ。
しかも、そこへ古参の使用人さん達も加わったことで、もうしっちゃかめっちゃか。若い頃の爺ちゃんのことを知ってる人もいて、俺も興奮してしまった。
結果――取り残される形になったお嬢様は大いに御立腹されたようで、夕食を終え風呂場に案内された時はまたしても無言に逆戻り。美少女な分、余計に怖かった。
……まじぃ。本当にまじぃ。
執事って、何をするもんなのか皆目見当もつかねぇけど、取りあえず、仕えるべき主を放り出すのは駄目だろう。
もしや……いきなり、クビかぁ?
鏡に映る自分の顔は強張っている。ま、まぁでも、何かしら仕事はある筈。
頑張らねば! そして、借金を返さねばっ!! 俺の自由の為にっ!!!
俺が仕えるお嬢様もこの婚約には乗り気じゃないようだし、活路はある。
とにかく、
「行動だな!」
気合を入れ、洗面台を離れる。
お嬢様がこんな早朝に起きているとは到底思えない。でも、これだけ広い御屋敷なんだ。
廊下を歩いていれば誰かしらに出会うだろう。その人に仕事を分けてもらえばいい。
うし、決定ー。意気揚々と部屋の扉を開けようとし――突然開いた。
「うぉっ!?」「あら?」
倒れそうになり寝間着姿の美少女に受け止められる。淡く綺麗な茶髪が煌めく。
えーっと……
「お、おはようございます、エミリア・ロードランド様?」
「……おはよう。敬語、いらない。扉、閉めて」
「お、おぅ」
左手で扉を閉める。
こ、こいつ……何でこんないい匂いがするんだよ。あと、布地が、布地が薄いっ!
そこまで胸はなくても、程度問題なのを是非とも自覚してほしい。
ドキマギしながらもお嬢様から離れようと――
「な、なぁ」
「……何よ」
「は、放してほしいんだが?」
俺は神に誓って、何処にも触れようとしていない。
けれどもお嬢様は俺の服の胸元を掴んだまま、睨まれる。
「――……ジャック・アークライト、貴方は私の何?」
「え、えーっと……し、執事?」
「どうして、そこで疑問形なのよ! 言い切りなさい!! はい、もう一回っ!!!」
朝っぱらから元気だな、こいつ。
でも……返答する。
「お、俺は、エミリア・ロードランドの執事だ」
「……婚約者が足りない。あと、執事は何時如何なる時も、御主人様のことを考えないと駄目。昨日、私のこと、途中から忘れていたでしょう? あんな楽しそうにお喋りしてぇ……あと、今度こういうことがあった時は、貴方が私を優しく受け止めること!」
「いや、こんなことはそうそうないと」
「い・い・か・ら!」
ぐいっ、と顔を寄せてくる。
こ、こいつ、やっぱり俺よりも背が明らかに高い。つまるところ、胸元が……俺だって年頃の男なわけで。
不満気な催促。
「返事!」
「あーあー……昨日は悪かった、猛省してる。受け止めるのも了解した。善処する。だからだな、その……」
「目を見て!」
こ、こいつ……大声で指摘する。
「だ~! まずは、離れろっ! 自分の恰好、恰好を考えろっ!!」
「? 何を言――……~~~~~~っっっ!!!」
ようやく気付いた侯爵令嬢が赤面。手を放す。
解放された俺は背中を向け、コート掛けへ。
自分の茶色のコートを取り背中越しに放り投げる。
「!」
「……ボロイけど、それでも着とけ。――着たか?」
「う、うん」
ホッ、とし振り返り――あ、これ、駄目だわ。攻撃力が高過ぎるわ。
再び背中を向ける。
「と、取りあえず着替えてこいよ。幾ら部屋の中は暖かいからって風邪ひいちまうだろ?」
狼狽している俺に対して侯爵令嬢様は機嫌が回復。鼻歌混じりにこう告げてきた。
「ふふふ♪ あとでねー。今は私の執事さんにやってもらうことがあるんだから」
お嬢様は俺を追い越し、近くにある椅子へ腰かけた。
コートの袖で口元を押さえ、足をブラブラさせながら、俺へ命令。
「はい、これ」
「? 何だよ」
肩越しに俺を見上げてきたお嬢様から渡されたのは純白のリボン。
昨日、髪を結っていたやつだな。戸惑いつつも受け取る。
こうして近くで見ると……やっぱり普通のリボンだ。うちの村にもありそう。
なのに魔法が駄目な俺でも分かるくらい、強い魔力で保護されているのが分かる。
こいつはお嬢様にとって余程大事な物のようだ。
当の本人は「後でカエデに大きな姿見を運ばせなきゃ。これから、色々と入用になるだろうし」などと呟いている。洗面台の鏡で十分なんだが?
素直に聞く。
「で? これをどうすればいいんだ?」
「朝起きて準備が出来たら、私の後ろ髪は、今後、貴方が結って」
「!? い、いやでも、お、俺なんかに触られるのは嫌」「じゃない!」
いきなりの強い断言。
窓に薄らと映るお嬢様の瞳に迷いは見えない。
…………仕方ねぇ、か。御主人様の命令ならば、是非もなし。
俺の決意を他所に、侯爵令嬢は指を唇につけ嗜虐的な笑みを浮かべる。
「あ、でも? 貴方、女の子の髪に触ったことないだろうし、わ、私が教えて~~~っ!!」
優しくお嬢様の後ろ髪に触れ、リボンで髪を結んでいく。
……信じられないくらい、サラサラだな。
「ほいよっと。こんなもんか? 一応、昨日、見た通りだと思うんだが」
確かに姿見が必要かもしれん。
頬を膨らませた侯爵令嬢が椅子の上に膝を立て、振り返り、俺へジト目を向けてきた。
いや、だから、攻撃力が高いんだってっ!
視線を逸らそうとすると、手が両肩に伸びてきて掴まれ、揺らされる。反動で椅子がガタガタと鳴った。
「ど~してぇ、こんな簡単にぃぃ、女の子のリボンが結べるのぉぉぉ?」
「た、倒れる、倒れるからっ!! じ、実家で、あ、姉貴にやらされてたんだよっ!!!」
「……お姉さんに? 弟の貴方が??」
「うぐっ!」
きょとん、とし、お嬢様が真っ当な疑問をぶつけてきた。
は、反論出来んっ。我が姉ながらあの人は変わっているし。
再度、揺らされる。
「……そうやって、嘘を言っても、あ」「ば、馬鹿っ!!」
椅子が倒れ、長身なお嬢様が投げ出される。
慌てて受け止め――どうにか腕の中に収まった。椅子が倒れる音。
「大丈夫か?」
「……だ、大丈夫。その……あ、ありがと……」
俺のコートを羽織っている美少女が礼を言い、上目遣い。
可愛――……落ち着け、落ち着くんだ、ジャック・アークライト。
こいつとは会ってまだ一日だぞ?
確かに外見はとんでもなく整っている。無駄に仕草等の攻撃力が高いのも事実。
だがしかし、幾ら何でも、絆されるのが早過ぎだろうが?
ここは毅然と注意をだな――お嬢様が自分の足で立ち、腕を背中に回してきた。逆に抱きしめられる形になる。
「お、おい」
「……さっき言ったわよね。もう少し優しく受け止めて。貴方は私の、私だけの執事で、婚約者なんだから。あと」
「?」
小首を傾げ侯爵令嬢を見やると、見る見る内に頬が赤くそまっていく。
顔を背け、早口。
「以後、私以外の女の子の髪を触るのは禁止! いい? 分かったら返事!」
「……そんな機会があるとでも? 第一、姉貴以外だと、お前が初めてだし……」
「! あ、そ、そうよね。うんうん。貴方にそんなことさせる女の子はいないものね!」
「…………」
何故だろう。殴られたわけじゃないのに、心が、心が痛いっ。
俺が黄昏ていると、ノックの音。はて?
涼やかな声と共に、扉が開く。
「エミリア御嬢様、ジャック様を起こすことは出来ましたでしょうか? そろそろ、御着替えが――……御嬢様、いけません! 嬉しいのは重々承知しておりますが、あれ程、慎みをお持ちくださいと言いましたのに! それと、ジャックく……こほん。ジャック様! 執事である貴方がいきなり主に手を出すなど……そこはまず年上メイドからな筈ですっ!」
耳が隠れる位の美しい漆黒髪で長身メイドさんが両腰に手を置きつつ、捲し立ててきた。
慌てて離れる。黒髪……珍しい、初めて見た。
ただ、動揺しているのか訳の分からないことを口走っている。
嬉しい? 年上メイドさんから??
……確かに胸がお嬢様よりかなり大きいのは魅力――殺気っ!!!
本能に従い右足を引く。直後、細い足に踏み抜かれた。
エミリア・ロードランド侯爵令嬢が微笑を向けてくる。
「……何か?」
「……い、いいえ、何も」
「……そうですか。カエデ、今のは単なる事故よ。ジャック様、着替え終わりましたら、御呼びしますので、部屋の前で待っていてください」
口調が変化した。
こいつ、昨日からそうだけど、素の姿、実の父親や屋敷にいる人間にも見せてないのか?
それとも、俺と話している時は俺に合わせてくれてるのか?
前者だったら、どうにかしてやらないと……。
少々、深刻に考えていると、すれ違いざまに耳元でぽつり。
「(口調が変わるのは単に癖よ。侯爵領の友人相手にはこうなの。あと、カエデに貴方と仲良くなった、なんて思われたら大変よ? 屋敷中に広がるのは間違いないわね)」
「(……そっか。お前も大変なんだな。あと、俺を起こす、ってのは?)」
「では、ジャック様、後程」
「お、おぅ」
お嬢様はにこやかに笑い、疑問に答えず部屋を出ていく。
黒髪メイドさんも俺へ片目を瞑り、会釈し扉を閉めた。
……俺のコート。