プロローグ



「遠い所をわざわざすまなかったね、ジャック・アークライト君。西方国境から、帝都までは遠かったろう? 暦上、春にはなったがまだまだ冷える」

「い、いえ……。飛空艇の発着場からこの御屋敷まで少し迷いましたけど、そこまでは……」


 一見、簡素だが高級感溢れた服を着て目の前に座っている男性へ、どうにか回答する。

 自分の生殺与奪を握っているに等しい相手を前にして、緊張しないなんて無理だ。

「そうか。ああ、座ってくれたまえ」

 男性へ頭を下げ、恐る恐る木製の椅子へ腰かける。

 多分、これ一脚で俺が魚を釣ったり、獣を罠で仕留めて稼ぐ一年分以上の金額な筈。

 置いてある他の調度品や、窓硝子からも圧倒的な威圧感。目利きな自分が恨めしい。

 流石は帝国屈指の大貴族、ロドリック・ロードランド侯爵様。

 国一番の大金持ち、っていう話は、俺の実家があるド田舎にも聞こえてたくらいだ。

 侯爵が立ち上がり、尋ねてきた。

「ところで、君は珈琲が好きかね?」

「あ、は、はい……」

「そうか。では今、淹れるとしよう。少し待っていてくれたまえ」

 満面の笑みを向け、作業し始める。

 あ、俺、これ系の笑顔、知ってるわ。竜とか魔狼とかが人を喰う前のやつだわ。

 貧乏貴族の息子には恐怖でしかない。まだ、生きていたいです。

 ……どうして俺はこんな所にいるんだろうか。どう考えても場違い。

 無意識に頭へ手をやると、自分の黒茶髪が跳ねていた。

 ことり、音を立ててソーサーと珈琲カップ、砂糖入れとミルク入れが目の前に置かれる。

 侯爵は椅子へ戻り、一口。

「うむ、我ながらよく出来た。近頃は、こうして自分で淹れることに凝っていてね。なに、貴族の道楽、というやつだ。遠慮なく飲みたまえ。砂糖とミルクはお好みで」

「は、はぁ……あ、ありがとう、ございます」

 おっかなびっくり、そのまま飲む。

 うっまっっっっっ!

 だ、大貴族様ってこんなのを毎日、飲んでんのっ!?

 今まで、俺が一年に数回しか飲めなかった、本物の珈琲とは何だったのか……。

 目を白黒させていると、侯爵が愉快そうに笑った。

「口に合ったようで何よりだ。では――帝国西方の外れから帝都まで、飛空艇と駅馬車を何本も乗り継いでもらい、君にわざわざ来てもらった理由を話すとしよう。手紙は読んでくれたかね?」

「は、はい。その……本当なんでしょうか? うちの爺ち――亡くなった祖父と、先代ロードランド侯爵様が戦友だったっていうのは」

 ――それは、数日前のよく晴れた日のこと。

 学校から帰ると、珍しく親父に呼ばれ一通の手紙を見せられた。

 内容は至極端的。


『古き約定により、今年、十六歳となる貴家子息、ジャック・アークライト殿を我が孫娘の婚約者としたい。追記:不可の場合、貴家の借金を利子含め即刻、現金で返済願いたく』



 首を傾げる前に怒鳴ったね。怒鳴ったともさ。「またかよっ!」って。

 息子の俺が言うのもなんだが、うちの親父は悪い人間じゃない。

 ……が、余りにも、余りにも、人が好過ぎる。

 アークライト男爵家は帝国西方国境の外れに小さな領地を持っていて、親父は当代。毎日、領地を見回って、問題があれば真摯に対応。領民からの受けはすこぶる良し。

 でも、後先考えず助けるもんだから、家計は何時も火の車。

 上の兄貴達二人はもう結婚し独立、ここ帝都で働いていて、季節毎に仕送りをくれる。

 四歳違いの姉貴も自立し、こちらからは毎月結構な額の仕送りが届くのにまだ足りない。

 この前、姉貴のお金でようやく返し終わったと思ったのに、隠れてまた借りていたとは。

 しかも、借りている相手が……最悪中の最悪だ。


『貸した物は返してもらう。借りた物は返す。これ、人間関係の基本なり』


 何処の借金取りかと思う家訓を掲げる帝国大貴族様。

 国内で最も裕福、かつ、淡々と取り立てをしてくることで知られる御家柄。噂では、皇帝家よりも金貨を持っているとか、いないとか……。

 俺がチビの頃に死んだ母さんはさぞかし笑っていることだろう。「ジャックもまだまだ甘いわね。あの人に隙を見せたら、家計は、一日持たずに死ぬのよ……?」……正しい。

 いや、だけど、これは幾ら何でも……問いただす暇もなく、親父は俺にこう告げた。

『借金は返せない。すまんが、帝都へ逝ってくれ☆』

 文字が違ぇ! 即座に滅殺すべく本気で殴りかかり……気付いた時には荷馬車の上。

 手に握っていたのは、帝都の侯爵家屋敷までの詳細な道程が、とても丁寧かつ柔らかい字で書かれた地図付き案内書と、送られてきた手紙。そして反面、乱雑な親父のメモ紙。『不甲斐ない父を許してくれ……お前が隠してた小銭、村の祝い事に使っていいか?』

 お、お、おのれ、あの無駄に鍛えてやがる筋肉馬鹿っ!

 帰ったら猪用罠にはめてくれるっ!

 憤慨しつつも、俺は侯爵家の手紙を読み、申し開きをするべくここまで辿り着いたのだ。

 案内書がなかったら永久に辿り着けなかったと思う。書いてくれた人に感謝を。

 ――閑話休題。

 侯爵が大きく頷いた。

「私の父は先の西方戦役の折、君のお爺様に戦場で幾度となく救われたそうだ。そして、戦乱が鎮まり別れる際、こう約束をした。『子供達を結婚させ、一族となろう!』とね。よくある話だ」

「…………」

 確かにありがちな話ではあるし、爺ちゃんなら尚更あり得る。あの人、半ば人外だったし。

 でも――相手は侯爵。しかも、皇帝陛下ですら気を遣うと噂のロードランド侯爵家。

 で、うちは爺ちゃんが戦場で活躍し、叩き上げで貴族になった、ぽっと出貧乏貴族。

 ……婚姻とか無理なような?

 顔に出ていたらしく、侯爵が再び首肯。

「普通は難しいだろう。が、我が父親ながら、先代は頑固者。『約束は必ず果たす!』と言ってきかぬ。両家の子供達は皆、男子ばかり。私達の世代では果たせなかったからな」


「……それで、孫の俺、というわけ、ですか。な、ならうちの姉貴なんか如何でしょう? 独身ですし、歳は俺と四つ違いの十九。器量も、身内ながら悪くはないと思います」

 にこやかな微笑み。

「ジャック君、これでも私は帝国侯爵なのだよ? 君の姉君のことは『よく』知っている」


 俺はそっと視線を逸らす……ダメか。

 あの姉を嫁に貰ってくれる勇者中の勇者様を、アークライト家では常時、募集中です。

 侯爵が希望を打ち砕く。

「それに私の子供は三人共、娘ばかりだ」

 に、逃げ道! 逃げ道が何処にもないっ!

 こ、こ、これ、俺、借金返さない限り、帰れない話だよな?

 珈琲を一気に飲み干し、白磁のカップをソーサーへ置き、覚悟を決める。

「…………し、し、し、借金の額は、如何ほど、で、でしょうか?」

 不覚にも声が震えた。し、舌が、舌が回らない!

 死刑執行を待つ受刑者へ見せるような処刑人の慈悲深き表情で、侯爵が止めてくる。

「見ない方が良いと思う。このまま、提案を呑んでくれた方が、君も幸せになれるぞ?」

「お、お、お、お願いします」

「そうか……君は勇敢だな。かのアークライトの名を継ぐ者だけのことはある」

 メモ紙に数字が書かれ、差し出される。

 み、見たくない。けど、見ないと先へ進まない。

 頑張れ。頑張るんだ、ジャック。お前なら立ち向かえる。

 数々の姉貴の暴虐と、親父の無理難題からも生き延びてきたじゃないかっ!

 意を決し、信じられないくらいに震える手で封筒を持ち内容を確認。

 半瞬と持たず、意識が消失。


 ――うわぁ。辺り一面お花畑だぁ。あ、爺ちゃんと婆ちゃん。


 テーブルに突っ伏し、頭を抱える。

 あ、あのクソ親父ぃぃぃぃぃぃ! なななななんつー額を借りてやがるっ!

 これ、うちの年収の何年……いや、何十年分だよ!? うぅ……おうち帰りたい……。

 どうにか、頭を上げると侯爵が爽やかな笑み。

 や、やだなぁ。断頭台に人を送る処刑人のそれじゃないですか?

「残念だが、君には選択肢がない。我が家は、私の代まで貸しを返してもらいそびれた相手、そして、取り立てに失敗したのは、合わせてもただの二人しかいないのだ。……そう、君の御祖父様と御父上だよ。ま、諦めてくれたまえ。悪いようにはせんよ」

 そう言うと、大貴族様は手元の小さな鈴を鳴らした。

 扉がノックされ、光り輝く淡い栗色の長髪で、目鼻立ちがしっかり整い、かつ長身なのに、華奢な美少女が部屋へ入って来た。

 着ている服は白基調。これまた簡素に見えるけれども明らかに超高級品。

 ……俺より、背が高い。

 美少女は俺を一瞥し、侯爵へ向き直る。

「御父様、お呼びですか?」

「エミリア、先日、話をしたな。この子が、お前の婚約者のジャック君だ。うちから帝国魔導学院にも通ってもらう。色々と世話してあげなさい」

 エミリア、と呼ばれた美少女は再度、俺を見た。

 ――視線が交錯。

 綺麗な翡翠色の瞳。俺の幼馴染と同じだな。珍しい。

 あいつはそんなに偉い貴族の娘さんではなかったと思うけど――侯爵令嬢が、一瞬だけ俺を咎めるような表情を見せたかと思うと、侯爵へ向き直った。

「……分かりました。御父様、ジャック様は長旅でお疲れかと思います。御部屋まで案内して差し上げたいのですが」

 侯爵が鷹揚に応じる。

「構わんとも。是非、そうしてあげなさい。では、ジャック君、これからよろしくな」

「ま、待ってください!」

 俺抜きで進む話にたまらず、悲鳴をあげる。

 親子が揃って俺を見た。侯爵は面白そうに。娘さんの方は不満気に。

 おっかなびっくり、提案する。

「た、確かにこの額は、うちの領土を売っても返せません。で、ですが、俺はどうにかして返したいと思っています。『借りは返せ』家訓なので……お願いします。な、何か仕事をさせてください。ど、どんな仕事でも一生懸命、頑張りますからっ!」

 侯爵が顎に手をやり考え込まれ、娘さんへ尋ねる。何故だか、とても楽しそうだ。

「ふむ……エミリア、お前はどう思う?」

 隣に立つ美少女が目を細め、俺を睨み何事かを呟いた。「……バカ。約束したのに」。

 腕組みをし、俺の隣の席へ座った。

 あ、明らかに怒っている。何でだ?

 お嬢様は、実の父親へ返答。

「……一理はあるかと」

「私もそう考える。では」

 侯爵は娘さんに確認すると俺を見た。草食獣のふりをした純粋な肉食獣の瞳。

 …………悪手だったか? あと、帝国魔導学院って、う、嘘だよな?


「君には、娘の専属執事となってもらおう」


「! し、執事ですか!?」「御父様っ!?」

 俺とお嬢様が叫ぶ。

 思わずお互い顔を見合わせ、目をぱちくり。

 気恥ずかしくなり、慌てて、視線を外す。

 い、幾ら何でもこの提案は無理がある。どうにか撤回してもらわないと。

 第一、本物の御嬢様相手の執事って……何するんだ?

 姉貴に無理矢理読まされた小説みたいなのか?

 ……想像出来ねぇ。

 こちとら、由緒も正しくない貧乏貴族の三男坊だってのっ!

 俺が口を開く前に隣の美少女が、侯爵へ向かって声を荒げた。

「御父様! 何を言われるかと思えば……そんなこと、私は反対です! ジャック様は私の婚約者であって、執事なんかでは――」

「エミリア、少し私の近くへ来なさい」

「?」

 愛娘の言葉を遮り侯爵が手で指示。微笑を浮かべられている。

 ……さ、寒気が。無意識に両腕を掴む。

 お嬢様は怪訝そうな顔をし、ちらり、と俺を見た後で、机を回り込み父親の傍へ。

 侯爵が耳打ち。

「(考えてもみよ? 彼を執事にすれば四六時中、一緒だぞ? 屋敷でも、学院でも、何処に行くのもだ! もし、嫌がった場合はこう言ってやればいい。『貴方は私の執事でしょう?』とな。拒みはすまいよ。悪い話ではあるまい?)」

「(! …………し、四六時中、何処へでも、ですか?)」

「(そうだ。それにだ……ジャック君は随分と義理堅く育ったようだ。強引に婚約しても、しこりが残るかもしれん。お前とて、彼に嫌われたくはあるまい?)」

「(そ、それは……そう、ですが……)」

 親子は俺の前で内緒話。

 お嬢様は、ちらちら、と俺を見やり、やがて深く息を吐き、侯爵へ頷いた。

 優雅さすら感じさせる仕草でこっちへ戻り、自然に俺の隣へ。

 ……さっきよりも近くね?

 侯爵が告げてきた。

「娘は納得したようだ。君からすれば、これ以上の話はないように思う。ああ。毎月の給金はこれくらいだ」

 メモ紙がテーブルの上を滑って来た。

 受け止め確認。…………意識がやや、遠くなる。

 え? 大貴族様に仕えてる人達って、こんなに貰ってるのか??

 隣のお嬢様が覗き込んできた。ふわり、と花の香り。

「私の執事としては、随分と少な目ですけど、こんなものですね。これなら、学院卒業までに間違いなく返し終わりませんし」

 ……どうして、俺を見て、狡猾な狐みたいにほくそ笑む?

 でも選択肢はない、か。生殺与奪を握られてるしな……俺はぎこちなく首肯。

 侯爵が両手を合わせ、娘に似た笑み。

「その給金の一部で毎月、返済をしていくという形を取ろう。期間は借金返済が終わるまで。学院を卒業するまでに返済が終わらなければ、卒業と同時に即結婚式だ。父親としては少々複雑だが、娘は既に自ら教会を」

「御父様、話は決したと思います。もうよろしいですね?」

「ん? ああ。では、ジャック君、娘をよろしく頼むよ」

 侯爵の言葉の後半はお嬢様が声を被せてきてよく聞こえなかった。

 力なく立ち上がり、侯爵へ深々と頭を下げ、部屋を出る少女の後に続く。

 後ろ髪に着けている純白のリボンは、服に比べると一般的な物に見える。思い入れのある品なのかもしれない。

 ――無言で長い廊下を歩くこと暫し、少女が振り向いた。瞳には挑戦の色。

 指をつきつけ、宣告してきた。口調が変わる。

「い、言っとくけど、私、貴方の許嫁になったつもりはないからっ! でも、御父様と御母様に心配はかけたくないし、屋敷内で振りはしてあげる。感謝してよねっ!」

 敵中孤立。全面包囲下、絶体絶命と思える戦場に差し込む一筋の光。

 人は、希望があれば生きていけるのだ。少女へ歓喜を伝える。

「! まじかっ! 良かったぁ。そうだよな! 会ったばっかりの男と結婚するなんて、幾ら大貴族様でも、今時、聞いたことないもんな!! うしっ! とっとと破談になるよう頑張ろうなっ! なっ!!」

「………………」

 少女は背を向け大股で歩き出した。さっきよりあからさまに不機嫌。白のリボンが揺れている。

 あ、あれぇ? 俺は小首を傾げる。

 何か怒らす言葉があったか?

 ……ま、いいや。少なくともこいつは敵じゃない。今のところはそれだけで十分だ。

「何をしているの? 早く来なさいよっ! 貴方は私の執事になったんだからねっ!」

「お、おう」

 考え込む俺を、少女が振り返って呼んだ。


 ――こうして、俺は侯爵令嬢の借金執事になったのだった。

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