【第一章/穏やかな日々の終わり】その4
血涙を拭うと、眩暈がした。僕は足の踏ん張りも利かず、横倒しに倒れこむ。
「やれやれ、危なっかしいったら」
地面にぶつかる前に支えられている。毛の感触は、ケモコヒツジのそれと比べるべくもなく荒々しく、刺々しくて力強い。それから、服の襟首を大きな爪の先端でつまんで持ち上げられた。
「とっくに子供は寝てる時間。行儀が悪いね、タツミ」
「それについては、言い逃れようもないんだけど。ところで……僕は一体、どのあたりから尋ねるべきなのかな、ルー」
口調も姿も表情も、僕の知る子供たちのリーダー格である彼女と違う。大人びているし、頭の耳や尻の尻尾が、こちらをからかうように揺れてるし。
「なに、タツミ。ルーがこわい?」
「……? いや、それは別に。これだとちょっと、一緒に遊ぶのは大変そうだとは思うけど」
「うわ。あーあ、ビヨンドレスといいタツミといい、どいつもこいつもイカれてる。やれやれ、マトモなのはルーだけか」
「あぅっ」
爪がぱっと離されて、僕は思い切り尻から地面に落ちる。
「は。イカれるさ。そりゃそうだ。マトモなままで守れないものがあるんなら、マトモでいたってしょうがねえ」
大股開きで、ずかずかとやってきたのはトラ爺だった。その口調や、仕草、態度もやはりルーと同じく違っている。若々しくて、ギラついていて……いや、顔や手の皺も減り、頭の白髪もなくなっていないか?
僕は間抜けなことに、ようやく彼の普段の老いが変装であったと知った。
「随分と無茶したな、タツ。とりあえずよ、テメエの出自も含めて、隠し事はお互い様だってことで納得してもらうが……今は率直に、これからのことを話そうや」
目の前でしゃがみ込んだトラ爺は、気安い笑みを消し去って尋ねた。
「テメエの願いを通すために、世界を丸ごと、敵に回す覚悟はあるか?」
「はい」
そのための理由を、僕はもう持っている。
命の恩。心の恩。それとも単に、初めて抱いた、僕の欲。
「流したくない涙を、流させないためならば」
こうして束の間の、安納辰巳が夢と焦がれた日常は、今夜を以て幕を引く。
けれど、悲しまなくていい。僕は、自分の夢より大切な、誰かの夢のために流す血の価値を知ったのだから。
「ここから、もう一度……新しい生き方を、始めよう」
彼方の空から陽が昇り、夜の藍と朝の朱が混じり合う。
清々しく晴れやかな気持ちで、思いきり空気を吸い込んだ。