一章 大迫祐樹 その4
《六月十六日日曜日》
時刻は二十一時四十八分。
男の子が提案した会場は工場跡と言われれば街の誰もがわかる場所で、十年くらい前までかなり大規模な工場があったが、そこが潰れてからは買い手もつかないまま更地になり放置されている。家から自転車で行ける距離で有り難い。
周りを取り囲む鉄製のバリケードは所々壊れ、簡単にその中へと侵入することができた。
市街地から少し離れていることもあって光源はほぼないが、満月に少し足りない月が照らしていて、思ったよりは暗くない。
地面とコンクリートがまばらに存在し、背の低い草が一面に生えていた。
僕の手には包丁、ポケットには折りたたみナイフを仕込んでいる。
僕の異能で相手の異能を消せたとしても結局は肉弾戦になる。
運動が得意じゃない僕が生き残る為には、異能を消して相手が驚いているその一瞬を狙うしかない。中学の頃の妄想のように、僕はその瞬間を何度もシミュレートした。
そこまで準備しても心のどこかではクラスの誰かが仕込んだドッキリなんじゃないかと疑っている。むしろ、そうであればいいと思っていた。
殺されるのも殺すのもごめんだ。
「早いじゃないか、君」
薄暗い中、そんな考えをかき消すように男の子はなんの予兆もなく目の前に突然現れた。
「こんばんは」
驚きも相まって特に言葉が思い付かず、挨拶をしてみる。
それが面白かったのか、彼は「ふふっ」と小さく笑った。
「確かに、こんばんは、だな、この場にそんな間の抜けた言葉が通るとは思ってもみなかった、それで君、異能はわかったのかな」
「大丈夫です、僕は生き残らないといけない」
明日、知海さんに会うために。
「その意気やよしだな、さて相手だが」
男の子が振り返る。その視線の先、月明かりの中にぼんやりと人影が浮かんでいた。
「来たようだな」
次第にハッキリしていく人影が、なんとなく見知った姿に見えて、心がざわつく。
「あれ、サコ?」
聞き覚えのある声、見間違える筈のない姿。
「アカ、どうして」
赤根凛空、主人公がそこにいた。
ドッキリのネタばらし?
一瞬期待するがアカはそんな素振りも見せず、少し驚いたような顔をする。
「サコも異能者だったのか」
まるで、異能が当たり前のもののように彼は言った。
「なんだ、君たち知り合いだったのか、それはいい」
男の子が手を叩くが、なにがいいのかが分からない。
「待ってくれ、アカ、どうしてお前がここにいるんだよ」
「決まってるだろ、異能者だからさ、サコ、君もそうなんだろ」
「だからって、僕たちが戦う必要はないだろう?」
「必要はあるだろ、俺たちは異能者で、戦うためにここに来たんだから」
アカが笑う。それは今までに見たこともないような嗜虐的な顔だった。
「お話はそれくらいでいいかな、そうそう、言い忘れていたが対戦の最中は会場に侵入者がいないように隔離させてもらうよ、トイレの準備は済ませたかな?」
冗談めかして少年が言う。
「構わない」
「待てよ、僕は君を傷つけたくはない」
「まるで俺に勝てるような口ぶりだな」
「ふむ、説得するのは面倒だから始めてくれたまえ」
我慢できないように男の子が言った瞬間、足元を掬われるような感覚がした。
風。
そう思った時にはもう僕の身体は宙に浮いていた。
凄まじい勢いの風が、下から僕の身体を持ち上げている。
跡地を囲むバリケードよりも高く上がったところで風は止んで、僕の身体は重力に引かれ地面へと叩き付けられた。
「んぐっ」
背中の衝撃が全身へと瞬時に広がり、肺の空気を強制的に吐き出させる。
「ごめんなサコ、一回で終わらせるつもりだったけど足りなかったみたいだ」
まるで数学の問題を解く時のように冷静なアカの声がした。
全身が痛い。でも、動けない程じゃない。ゆっくりと立ち上がる。
手に握っていた包丁は叩き付けられた衝撃でどこかに飛んでいったようで、辺りには見当たらなかった。仕方なくポケットから折りたたみナイフを取り出して開く。
「アカ、本当に」
「サコ、君は大切な友達だ、だからって代わりに死んでやることはできない」
確かにアカに比べれば僕なんて大して価値のない取るに足らない人間かもしれない。
アカが死ぬより僕が死ぬ方がいいと思う人間は多いはずだ。
それでも、僕には死ねない理由がある。
明日学校に行って、月摘さん、いや知海さんに言わないといけない言葉がある。
「僕も、アカの代わりには死んでやれない!」
ナイフを強く握りしめて、僕は走り出した。
足元を風が流れる。
来る。
このタイミングだ。
僕は強く念じる。アカの異能を消す。この風を消す。
アカじゃない、僕が主人公なんだ!
強い風が吹いた。
なにも、起こらなかった?
僕の身体は容易く持ち上げられ、さっきより明らかに速い速度で空へと上っていく。
嘘だろ?
そう思う心のどこかで、当たり前だろうとも思っていた。
僕は主人公……じゃない。
主人公になんかなれない。
僕に異能なんかあるはずなかった。
僕はただのモブキャラだ。
死にたくない。
そんな思いを嘲笑うように遠くに見えるビルより高くなったところで、上昇が止まって、背中を押していた風が消えた。
風を切る音をさせながら、僕の身体が落ちていく。
落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、地面へと叩き付けられる。
背中だけじゃない、全身全体内蔵から骨、全てが弾けるような痛みが襲い、同時に頭は鈍い音を立てて眼底に火花を散らした。
こんな痛みは生まれて初めてで、それでも直感的に分かった。
これは助からない痛みだ。
直ぐに全身の痛みは飽和して、どこがどう痛いのかすらわからなくなる。
視界が明度を失っていく。
ごめん、知海さん。
思考が、消えていく。
「サコ、悪いな」