麓に至る道にいたのは美しい女性だった。
年齢は僕より少し上であろうか、清楚で穏やかなまるで絵物語に出てくる聖女のようであった。
「治癒神ミリア様よりも神々しいな」
と言うシュルツの言葉に思わず苦笑してしまうが、その意見は正しかった。
僕たちの存在に気が付いた彼女は、修道女のように毅然と尋ねてくる。
「そこにおられる方はもしやこの山に住まいし方ですか」
「そうです」
と答えると彼女は微笑む。
「神とその眷属が住まう聖なる山に土足で足を踏み入れて申し訳ありません。それにこのような輩を引き入れてしまって」
「そのことは気にしないで。どこからどう見ても男たちのほうが悪党に見えるよ」
「このものたちはおそらく邪教の集団の一味でしょう。私と勇者様の接触を拒んでいるのです」
「勇者?」
「この山に住まいし神々に育てられた少年のことです」
「というと僕なのかな?」
「失礼ですが、あなたは黒髪ですか?」
「そうだけど」
「ならばきっとあなたがそうでしょう」
黒髪であることも確認できないのはどうしてだろう、と疑問に思ったが、すぐに理由が判明した。
法衣を着た銀髪の女性は、盲目であった。
彼女の目の周りにはマスクがはめられていた。
僕が気が付いたことに気が付いたのだろう。彼女は説明する。
「私は地母神に身を捧げた盲目の巫女ルナマリア」
「地母神」
聞いたことがある。この大地に豊穣をもたらすいにしえの神の名前だ。とても戒律が厳しい神様として知られ、地母神に身を捧げる巫女は皆、自ら光を奪うのだ。幼き頃に自分の目を潰すのだ。さすれば聖なる巫女になれるというのが、地母神教を布教する司祭の言葉であった。
ただ、それは俗説というか伝説の類いで、現代でもそのような真似をしている巫女がいるとは聞いたことがなかった。そのことをルナマリアに伝えると、自嘲気味に笑う。
彼女は「盲目の仮面」を取ると、以後、素顔を晒しながら話してくれる。
「たしかに古い因習です。ですがその伝統は今も受け継がれています。私の他にも盲目の巫女はたくさんいます」
「その盲目の巫女がなぜ、このテーブル・マウンテンに?」
「それは……」
と言いよどんだのはなにか裏があるからか、それとも敵の攻撃が激しくなってきたからか、は分からなかった。双方のような気がしたが、ともかく、ルナマリアの応援をしたほうがいいような気がした。
僕とシュルツは敵兵の間に立ち塞がると、戦闘の意志を示した。
「灰色狼に人間のガキ。珍妙な取り合わせだ」
「手向かうならば斬るだけだが」
「子供を斬るのか? 始末するのは巫女だけと聞いていたが」
鎧を着た男たちは相談を始めるが、結局、多数決で僕を斬ることにしたようだ。依頼主はルナマリアの死を望んでいるそうだが、ルナマリアが探そうとしている勇者にも興味があるようだ。もしもついでに勇者を殺せれば重畳らしい。
まったく、人の命をなんとも思っていない連中だ。ため息を漏らしながら言葉を探す。
「シュルツ、こういう輩をなんて言うんだっけ?」
「悪党、だな」
狼のシュルツは一言で斬り伏せる。
「そうだった。悪党だ。こういうやつに遠慮はいらないんだよね?」
「ああ、喉笛を切り裂いてやれ」
シュルツはさっそく、彼らの喉笛を狙うが、僕も同様に攻撃する。無論、刃物は使わないが。僕が使うのは体術である。見ればこいつらはそんなに強くない。とても鈍重なのだ。一挙手一投足がとても鈍い。刃物など使わなくても容易に対処できそうだった。
僕はローニンに習った古武術を使う。相手の懐に入り込み、相手の呼吸に合わせて突きを繰り出す。子供の拳であったが、相手が前のめりになる瞬間、急所にぶち込めば大ダメージを与えられる。
相手の喉笛、みぞおち、目、こめかみ、どんな達人も鍛えられない場所に的確に打撃を与えていくと、悪党どもはその場で悶え苦しむ。
それを聞いていたルナマリアは賛嘆の声を上げる。
「勇者様の武術は神がかっています」
「神様に教えてもらったやつだからね」
「やはりあなたが伝説の子供、勇者様なのですね」
「それは違うと思う。神様である父さんたちに育てられたけど、勇者の印はない」
「……印がないのですか」
ルナマリアは軽く表情を曇らせる。
「善と悪に調和をもたらすもの。この世界の救世主。彼は神々に育てられた真の存在」
「それは?」
「我が教団に伝わる古い言葉です」
「神々に育てられたというところしか共通点がないね」
「ですね。しかし、それで十分です」
ルナマリアはそう言うと、右手を光らせた。それをそうっと悪党の胸に添える。悪党は一〇メートル吹き飛び、木々を折る。
「君もすごい力だね」
「この力は神の恩寵にしか過ぎません」
「すごい恩寵だ」
と言うが、僕はすでに五人の悪党を戦闘不能にしていた。このままならば簡単に殲滅できるだろう、と思っていたが、そうはいかなかった。
奥から悪党どもの増援が現れたからである。その数一〇。皆、重武装をしていた。
「……厄介だな。魔法の武器を持っているものもいる」
光を放つショートソードを見る。皆、熟練の傭兵といった感じだった。
「あいつらは邪教徒が雇った傭兵でしょう。手強いはずです」
「みたいだね。倒せないことはないと思うけど。……ルナマリア、僕の後ろに下がってくれる?」
「お気持ちは嬉しいですが、私は神と勇者様にその身を捧げた巫女でございます。命など惜しくありません」
「君が惜しくなくても僕が惜しいんだよ。今からこの辺りが真っ赤に染まる。僕の後ろにいれば《防壁》の魔法で防いであげられる」
「真っ赤? 炎の魔法を使うのですか?」
「不正解だよ。炎を使うのは僕じゃない。天から飛んでくるトカゲだ」
「トカゲ?」
ルナマリアが首をかしげると、空が真っ暗になる。
先ほどまで明るかった周囲が暗闇に包まれる。雲が出たわけではない。空を覆ったのは翼を持ったトカゲ。つまりドラゴンだった。
真っ赤な肌を持ったドラゴンは、口から炎を漏らしながら翼をはためかせている。まるで嵐が迫っているかのような風が周囲を包む。
ルナマリアもその風、それに竜の咆哮で恐怖の存在を察知したようだ。
「あれはドラゴンですね!」
「そうだよ。テーブル・マウンテンにはいないけど、その周囲には一杯いるんだ。あの傭兵たちが引き連れてきてしまったようだね」
見れば傭兵の衣服はそんなにくたびれていない。街から最短距離でここまでやってきたのだろう。ドラゴンの巣があるとも知らず、谷を通ってきてしまったのかもしれない。
彼らはその近道の代償を支払わなければならない。
レッドドラゴンはホバリングを止めると、急降下し、傭兵のひとりを鷲摑みにする。
そのまま大空を舞うと、高所から傭兵を解き放つ。大声を上げる傭兵であったが、ドラゴンは急滑降するとそのまま傭兵を飲み込んだ。悲鳴ごと喰らい尽くす。
怒りに燃えた仲間の傭兵は、クロスボウや弓で反撃を試みるが、巨大なドラゴンの鱗を貫くことはできなかった。それどころか頭上で炎の息を吐かれ、火だるまとなっている。
このまま見ていれば傭兵たちはもちろん、邪教徒も全滅であろうが、僕は傍観者にはなれなかった。
理由はふたつ、ひとつはもしもドラゴンがやつらを倒しても次は僕らにその牙をむいてくるに決まっていたからである。
ルナマリアという巫女とは出会ったばかりであるが、彼女には不思議と親近感を感じていた。守りたいという保護欲も。僕にとって彼女はすでに山の仲間たちと変わらない。
もうひとつの理由は、悪党とはいえ、見殺しにするのは気が引けたのだ。
こいつらはルナマリアを殺そうとしているらしいが、それでも彼女を殺したわけではない。もしかしたら誰かに命令されているだけかもしれない。
それにこいつらにだって、父親や母親はいるだろう。現世にいるかは分からないが、死ねば双方が悲しむと思われた。
レウス父さん、ローニン父さん、ミリア母さん、ヴァンダル父さん、それぞれの笑顔が浮かぶ。その表情を思い出すと、見殺しという選択肢は浮かばない。
なので僕は腰の短剣を抜き放つ。
ミスリル製の短剣だから、ドラゴンの鱗とて通すであろうが、どんなに深く差し込んでも内臓に届くようには見えない。それくらいレッドドラゴンは大きい。皮下脂肪がとんでもない。
「普通にやったら傷を付けるくらいだけど、僕には必殺技がある」
必殺技とは、剣神であるローニンに習った技術。魔術の神ヴァンダルに習った魔法である。
ローニンの剣技はペーパーナイフとて凶器に変える総合剣術、ヴァンダルは小枝すら業物に変える付与魔術を極めていた。
つまり、ミスリルという魔法を通しやすい金属に魔法を付与すれば、その威力は計り知れなくなるということだ。
僕は邪教徒たちを蹂躙するドラゴンを睨み付ける。
慈悲のない竜の目と視線が交差するが、恐怖は覚えなかった。いや、逆に竜のほうがただならぬ気配を察したようだ。
この少年を生かしておくと危ない!!
そう思った竜は食べかけの邪教徒を放り投げると、翼をはためかせ、こちらに向かってくる。
「……手間が省ける」
こちらとしては標的がこちらに移ってくれたほうが有り難い。
邪教徒から離れてくれたほうが大技を仕掛けやすいのだ。
そう思った僕は呪文の詠唱をする。
「無念の氷結よ、虚空の風を凍てつかせよ!
静寂を支配し、すべてを氷結させよ!」
そう詠唱を終えると、ミスリルの短剣が氷に包まれる。冷気の魔力に包まれる。
あとはそれを剣閃にして解き放つだけだった。
僕は何度も練習してきた剣閃をドラゴンに放つ。
練習で何百回もしたことであったが、実戦でもまっすぐに飛ぶ。
ローニンがその筋を褒め、ヴァンダルがその才を賞賛した魔法剣の一撃がドラゴンを襲う。
それを後方から確認していたルナマリアは驚愕する。無論、彼女の瞳に光はないが、その分、知覚は誰よりも優れていた。
少年の魔力の冷気は肌を刺すほどに冷たく、少年の魔力の波動はルナマリアの全身を包み込むかのようであった。彼の冷気の魔法剣の威力はとてつもないものになる。ルナマリアは確信したが、その確信は間違っていなかった。
冷気の剣で切り裂かれたレッドドラゴン。やつは炎の息で対抗しようとしたが、少年の放った冷気は炎ごと氷漬けにし、ドラゴンの肉を裂いた。
氷像のように氷漬けにされながら肉を真っ二つに裂かれるドラゴン。氷の中には赤い皮膚と鮮血が飛び散った竜がおり、とても美しい。
まるで美術品のようであるが、なによりも恐ろしいのは、この巨大なドラゴンを倒したのが、まだ一四歳の少年ということであった。
このような少年がいるとは聞いていない。
口々に悲鳴を漏らしながら逃げ出す邪教徒たち。
彼らが完全に撤退したのを確認すると、ルナマリアは改めて少年の前に立ち、右手を差し出す。握手をしたかったのだ。
それに名前も聞きたかった。
そのことを少年に伝えると、少年は気恥ずかしげに微笑みながら言った。
「──僕の名前はウィル。ただのウィル。平民だけど、父さんと母さんは神様なんだ」
照れ笑いを浮かべる少年ウィル。
とてもドラゴンを倒した英雄には見えなかったが、ルナマリアは彼がこの世界を救う勇者であると確信していた。