エカテリーナの魔法学園入学が翌々日に迫った日の話。
「お帰りなさいませ、若君」
皇城から公爵邸へ帰宅したアレクセイは、書斎で出迎えた腹心の部下ボリス・ノヴァク子爵に、微かな苛立ちを込めて応えた。
「若君はよせ」
「失礼いたしました、公爵閣下」
ノヴァクは涼しい顔だ。短く刈り込んだ黒髪には白いものが混じるようになったが、がっしりとした体軀は今もたくましい、五十三歳の老練な実務家である。
長年ユールノヴァ公爵家の領地管理を担ってきた実力者であると共に、アレクセイが幼い頃からの補佐役でもある。領地の経営をいろはから教え、公私に渡って支えてきた。アレクセイの今があるのは彼のおかげと言ってよい存在だから、少々の不機嫌など何ほどでもない。アレクセイも彼の前でだけは、自分の感情を隠さない。
「三公会議はいかがでございましたか」
「いつも通りだ。マグナが不愉快だった」
三公会議とは、このユールグラン皇国の三大公爵が皇帝の前に集まる御前会議だ。
アレクセイが当主である、鉱山などの資源が豊富な北方のユールノヴァ。
海に面する南方にあり港の交易などで栄える、ユールセイン。
東方の広大な平原と湖沼地帯を有する、ユールマグナ。
皆、皇国の開祖ピョートル大帝の弟を先祖に持ち、皇国の要所を押さえる家柄である。
三公は互いを呼ぶ時共通するユールを省略して「ノヴァ」「セイン」「マグナ」と呼び合うのが常だった。
従僕のイヴァンにマントを取らせ、アレクセイは革張りの椅子にどさりと座る。
「相変わらずの不平不満だ、自分ばかりが割りを食っていると。鉱山か港の利権を一部よこせとは図々しい。あれだけの農地があって、なぜ発展できないのかこちらが訊きたい。建国当時のまま大騎士団に無駄飯を食わせているツケを、なぜこちらが払ってやらねばならん」
「いつも通りにしては、いつもよりご不快のご様子ですな」
指摘されて、アレクセイはひくりと頰を引きつらせた。
「……エカテリーナを侮辱した」
『ノヴァの令嬢は病弱で、教師にものを習ったこともなければただの一度も他家から招待を受けたことがないそうな。わが娘エリザヴェータがたいそう同情して、一度お招きしたいと申しておった。優しい娘でしてな!』
ユールマグナ公爵ゲオルギーは三十八歳、鍛え上げた巨軀と、剝き出しの野心の持ち主だ。自分の娘を次期皇后に売り込む機会を虎視眈々と狙っての言葉だったが、エカテリーナ、ひいてはユールノヴァに対する侮辱にあたる。以前から若いアレクセイを侮る態度が目に余るこの人物の言動を、今までは受け流してきたが、これは腹に据えかねた。
「久しぶりに、部屋の温度を下げてしまった」
「それはそれは」
強力な氷属性の魔力を持つアレクセイは、感情が昂ぶると冷気を生み出してしまうことがある。ただ自制心も強いので、物心ついてこのかためったにそんなことを起こしたことはない。皇帝の御前でそれをやってしまったというなら、怒りのほどが知れる。
「セイン公が気をそらしてくれて、なかったことになっている。あちらは次期皇后の争いとは無縁だからな」
ユールセイン公爵ドミトリーは最年長の四十五歳、子供たちは皇子よりだいぶ歳上でみな既婚。さらに現皇后のマグダレーナはドミトリーの妹だから、次期皇后はあり得ない。洒脱で温厚、それでいて抜け目なく港の交易で富を成す商売巧者のドミトリーには、アレクセイも敬意を払っている。
「エカテリーナ様の教師たちから、現在の成績に関する報告が届いております」
「そうか」
書類を受け取ってざっと目を通し、アレクセイは顔をほころばせた。
「これならとりあえずは、学園で問題なくやっていけるだろう。よく頑張った」
「さすが閣下の妹君、学んだことがおありでなかった歴史や地理、魔法制御まで、必要充分に習得されました。もともと教科によっては充分な学力がおありでしたからな。数学など、むしろ優秀なほどで」
社畜こと利奈は理系だったので、高校一年生レベルの問題はさすがに楽勝だった。いや前世のほうが数学の教育レベルは高かったから、たぶんあちらの高一より易しいだろう。
それに、悪役令嬢エカテリーナの知識も思いのほか通用した。母から習った立ち居振る舞い、幽閉されていた別邸の乏しい書物を繰り返し読み込んで得た文学の知識は、しっかり基礎になっている。
「母君に習われたとか。エカテリーナ様がご聡明なのは間違いありませんが、母君もご立派でした」
「……賢明な方だったのだな」
アレクセイの声が沈む。
彼自身が送り出した、母親を迎えるための使者が母を死なせたのだ。その記憶は、生涯彼を苦しめるだろう。
いまわの際に彼を見て、父親の名前を呼んだ。一度も母の目に息子として映ることができなかった、あの記憶と共に。
「大奥様が命じられたことです。母君が本邸に戻られることになれば殺せと。よもや、前公爵も大奥様も亡くなられた後になっても、指示に従おうとする者がいるとは思いませず、私も警戒を怠りました。閣下の罪ではございません」
「私の罪だ、生涯消えることのない。……だが、エカテリーナは許してくれた」
『一番お辛かったのはお兄様ですもの。ひどいのはお祖母様と、お母様を守ってくださらなかったお父様ですわ。本当なら、お母様はお兄様を、会いたかったと抱きしめておられたはずでしたのに』
そう言って、エカテリーナは母の代わりのようにアレクセイを抱きしめたのだった。……その時になって初めて込み上げてきた涙を、アレクセイは隠しきれなかった。
「優しい子だ、あの子は」
母から引き離され祖母の下で育ったアレクセイだが、愛されて育ったわけではない。
父親アレクサンドルは人から愛される愛嬌と要領の良さの持ち主で、母親に溺愛されて育ったあげく、女遊びと賭博にしか興味がない怠け者になった。父親、つまりアレクセイにとっての祖父であるセルゲイが五十八歳の若さで亡くなり爵位を継いでも、領地管理の仕事はノヴァクに丸投げして遊び歩き、もちろん息子には興味も示さなかった。
容姿はその父親に似たが、性格は祖父に似て生真面目に生まれついたアレクセイに、祖母は厳しく接した。幼い頃から勉強漬け、父親が嫌う仕事は息子がやるのが務めと言い出し、アレクセイが領主の仕事を一部とはいえ代行し始めたのは、祖父が亡くなって間もなくの、なんと十歳の時だ。
その頃から大人びた子供だったアレクセイだが、母がそばにいてくれたらと思うのは当然だったろう。あの頃夢見た母に願ったことを、母によく似た妹が与えてくれた。
長い間つらい暮らしをさせてしまった、恨まれても仕方のない自分に。
母と妹を初めて目にしたあの時まで、二人があれほど酷い扱いを受けていたとは、アレクセイは夢にも思っていなかった。なぜなら二人を別邸に住まわせたのは、祖父セルゲイだったからだ。
大臣や宰相といった国の要職を歴任したセルゲイは祖母を抑えられる唯一の人物であり、心からの尊敬に値する人格者だったが、多忙で皇都を離れることができず、公爵領で妻が勝手な振る舞いをするのを止めることが難しかった。だから、別邸を母に与えて祖母が手出しできないよう手を打ったのだ。実際、祖父が生きている間は、生活費は充分に与えられ母と妹の暮らしに不自由はなかったはずだ。
しかし祖父の死後、祖母はひそかに別邸の使用人たちを解雇し生活費は横取りして、まともな生活ができない状態にした。外出ひとつできない、衣食すら事欠く幽閉状態に陥れていた。
祖父から母と妹を守る役目を引き継いだはずのアレクセイは、しょせん十歳の子供に過ぎず、それに気付くことができなかった。
初めて会った時、瀕死の母の傍らに立っていたエカテリーナは、瘦せこけた子供だった。その瘦せた身体にすら小さすぎる、着古した服を着ていたのだ。公爵令嬢たる身が。
そして怯えたような目でこちらを見ていた。
半年後に再会した時には見違えるほど美しくなり、大人びていたが、アレクセイとは口もきこうとしなかった。当然だと思った。
皇都に来て、突然倒れた時は胸が潰れるかと思ったが……意識を取り戻した時、こちらへ手を差し伸べて、手を握ってほしいと言ってくれた。
エカテリーナが許してくれても、アレクセイは自分を許すつもりはない。そして、妹の為ならどんなことでもするつもりだった。
「まこと、お優しい方です。少しばかりお話ししただけですが、ご聡明で快活なお人柄とお見受けしました。魔力も強く、容姿もお美しい。髪も瞳も高貴な青、ユールノヴァの青薔薇と讃えられましょう。ミハイル皇子殿下はエカテリーナ様と同い年、入学すれば学園で接する機会も多いはず。ユールマグナのエリザヴェータ様はまだ十歳ですので、はるかに有利です。皇后の座も充分に狙えますな」
皇国にはさまざまな色の髪の民がいるが、皇室では青系の髪の子が生まれることが多いため、青は高貴な色とされる。また三大公爵家の紋章にはそれぞれ花が含まれていて、それが各家の象徴となっている。
ユールノヴァは薔薇。
ユールセインは百合。
ユールマグナは水仙。
ここから、三大公爵家の権力闘争は〈青花の争い〉と呼ばれているのだった。
しかし、アレクセイは首を振った。
「いや、エカテリーナは皇室にはやらない。昨日あの子に言われた、お祖母様が育った皇室に嫁ぐのだけは嫌だと」
『わたくしと同じ学年に皇子殿下も入学されると聞きました。お母様はご生前、わたくしに殿下と出会って皇后になってと望んでいらした。そうすればお祖母様も、わたくしに頭を下げねばならないからと……。でももう、お母様もお祖母様もいらっしゃいません。ですからわたくしは、そんな冷たいところに近づきたくはないのです。皇室と一切関わりを持たず、静かに勉学に励みたいのですわ』
ノヴァクは肩をすくめた。
「……貴族のご令嬢として、お家のための結婚は義務と言えましょう。そのお言葉は、おたしなめなさるべきでしたな」
「だがあの子は病弱だ。世継ぎを産んで国母となるためには、健康であることは絶対条件だろう。その点ではエリザヴェータ嬢は確かに有利だ。むしろ譲って、金欠マグナが嫁入り支度で火の車になるのを見るのもいい。争うより、自滅してくれれば効率がいいだろう。持参金を高利で貸し付けてやれば、ウラジーミルの代になってもマグナの首根っこを押さえられる」
アレクセイはいささか口数が多い。ユールマグナの当主ゲオルギーだけでなく、その長男でアレクセイよりひとつ年下のウラジーミルとも不仲なのもあるが、本音はようやく兄妹らしく話せるようになったばかりの可愛い妹を手放したくないだけなのが明らかで、ノヴァクはくすりと笑う。
「それは……左様ですな」
頷きながらも含みのあるノヴァクの様子に、アレクセイは眉を吊り上げた。
「いえ、実際にミハイル皇子殿下にお会いしたら、エカテリーナ様のお気持ちも変わるやもしれませんので。殿下もうるわしい容姿のお方と聞き及んでおりますからな」
「……ふん」
反論の余地もなく、アレクセイは顔をしかめた。
「いいだろう、あの子が殿下を望んだなら、マグナと決闘でも戦争でもしてやろう。ユールノヴァのすべてをかけても、皇后に即けてやる。エカテリーナが望むものは、すべてあの子のものだ」