プロローグ 社畜と悪役令嬢②

 パン! と世界がはじけるような感覚に、目を開いた。

 天上界の神々が見える。

(え、ここ天国? いえいえ、ベッドのてんがいえがかれた絵ですね。ルネサンスのきよしようが描いたみたいな絵だよ、セレブやなー)

 わたくし、何を考えているの? ここはどこ?

「エカテリーナ!」

「はうっ!」

 すぐ横から名前を呼ばれて、そちらを見たエカテリーナは安心した。

 しかし中の人は思わずのけぞった。

(ななななんという美形! 肉眼で見たことない、俳優にだっていないレベル! どストライク命中すぎて胸に穴が空きそう!)

 ベッドの横にいるのはもちろん、前世のしアレクセイ・ユールノヴァ。水色の髪、水色のひとみ、トレードマークの片眼鏡もしっかり着けている。

 でもゲームの画面よりはるかに素敵だよ!

 けるように白いはだのきれいなこと。そして瞳の色。水色じゃ言いくせない、あれだ宝石のパライバトルマリン、自ら光を放つようなネオンブルーだよ実物は。切れ長の目がかしこそう、完璧な鼻、少しうすくちびるのバランスの良さ。

 アラサー目線ではまだ線の細さが残る若さがまぶしいけど、もう身体からだは成長して男の骨張った感じが出てる。可愛かわいいじゃなくかっこいいライン。

(一瞬にしてチェック細かいぞ自分!)

だいじようか、どこか苦しいのか? お前まで失ったら私は……」

 自分のほうが苦しそうなこわに、はっと我に返る。

 またお兄様を苦しめてしまった。

(ピンチはチャンス! 関係改善のチャンスだよ! 甘えてたよるだけでお兄ちゃん喜ぶよ!)

 ……なに、これ。

(あー、人格がぶんれつ状態……。同時に二人分の思考がどうしちゃってる……)

 頭が痛い。

 思わず片手を額に当てる。

「エカテリーナ……医師を呼ぶか? うなずくだけでいい、応えてくれないか。お願いだ」

 お兄様に、大丈夫と伝えなければ。でも、ずっと意地を張ってきて、今さら声がかけられない。

(んじゃ、額の手をちょっと横移動しようか)

 額からはなした手を横へ動かすと……兄へ手を差しべる状態になった。

 アレクセイは目を見開く。

 我に返って、エカテリーナの手が細かくふるえる。

 それに気付くと、アレクセイは妹の手を取って両手で包み込んだ。

 大きな手。温かい。……ここい。

 エカテリーナは横を向いて、兄と目を合わせた。

「お兄様……心配……おかけして、ごめんなさい」

 アレクセイは一瞬ぼうぜんとし、すぐに微笑ほほえんだ。とてもやさしく。おさえきれない喜びをにじませて。

「何を言う、悪いのは私だ。初めて皇都に来たお前を連れ回してしまってすまなかった」

 そう、だった。こうしやく家のこうていに着く前に、お兄様がわたくしのために、入学予定のほう学園へ馬車を着けてくださったのだけど。正門の向こうにそびえる校舎を見たとたん何かが心の中からき出してきて、何もわからなくなってしまった。

(魔法学園の正門て、乙女おとめゲームのオープニングでさんざん見たアレかー。それがきっかけでおくよみがえったわけね。じゃあここは公爵家か、どおりでセレブ)

 前世の記憶。

(ほんとになんじゃそらだけど)

 アラサーしやちく雪村利奈は、乙女ゲームの悪役れいじようエカテリーナに生まれ変わってしまったらしい……。

(え、じゃああのままいくとめつするの? 皇国がほろぶルートなんかもあったんだけど!)

「えっ!?」

 びくっと震えた妹の手を、アレクセイはあわてて離した。

「すまない、エカテリーナ。やはり医師を呼ぼう」

「いいえ、お兄様。わたくし、病ではございませんわ。誰も呼ばないでくださいまし」

「しかし……」

「それより、もう少し……手をにぎっていてほしいの」

 それを聞いて、アレクセイは今度こそ喜びに顔をかがやかせた。

「ああ、もちろん。お前が望むことなら、私は何でもしよう」

 そんな表情をすると、少し大人っぽさが薄れて、片眼鏡の似合わない少年の顔になる。

(あ、お兄ちゃんデレた。……くうう可愛い! エカテリーナもかべを破れて良かったねえ! よっしゃ、絶対あなたたちを破滅なんかさせない。それに私も、いいように使われて過労死する人生なんか二度とごめんだし。破滅フラグへし折って、みんなで幸せになるぞー!)

「い、痛……」

「エカテリーナ!」

(ごめん、まずこの分裂状態をなんとかしよう……)



 悪役令嬢と社畜の人格ゆうごうに、三日かかった。

 一日目はあの後こんこんとねむり、夢の中で二人分の人生を追体験した。やたらつかれた。

 二日目、だいぶすっきりしたので起きてみたが、ちょっと何かにおどろくとぶったおれた。心が同時にふたつの動きをして、身体にロックがかかるというか。右足と左足が別の方向に行こうとするようで、とにかく気持ち悪かった。

 三日目、心配するアレクセイにているようこんがんされて、それではと本を読んでみた。見たこともない文字がすらすら読めて不気味なような、読めて当然なような。軽くうような感じがあったが、読み進めるうちに加減がわかってきた。

 そして気が付いたら、心の動きにかんがなくなっていた。

(疲れましたけど、三日ならじゅうぶん早い順応ですわね)

 融合したといっても、悪役令嬢はことづかいだけで、社畜成分が強めな気がする。人生の長さが倍近いし、エカテリーナの人生は大半がゆうへいされて変化なしだったから仕方ないだろう。

 というわけで、令嬢の皮をかぶった社畜がばくたんした。



「お兄様、ご心配をおかけしました。わたくし、もう大丈夫ですわ」

 四日目の朝、いに来たアレクセイににっこり笑いかけて、自信を込めて言ったのだが、当然のように信用されないというか心配された。

「いいや、今日も休んでいなさい。あんなに何度も倒れただろう、お前はとてもせんさいで病弱なんだ。無理はいけないよ」

 ツンデレだ、この人は真正元祖ツンデレさんだ。

 どこかで聞いた話ではツンデレとは元々『他人にはツンとました態度を取るが、特定の人物に対してはデレデレ』な性格を指したらしい。今のいわゆるツンデレとはちょっとちがう。

 とにかく、アレクセイはエカテリーナにツンツンすることはなく、ひたすらデレなのだ。見た目はちようクールな美形が、世界でたった一人自分にだけ無条件かつ過保護にデレてくる人生……美味おいしすぎかよ。

「本当に大丈夫です。わたくし、今日ほどそうかいに朝をむかえたのは生まれて初めてと思うほど、元気になりましたの。まるで生まれ変わったよう。それに、休んでいたくない大きな理由があるのですわ」

 キリッ、とエカテリーナは表情を引きめた。

「お兄様、わたくしの学園入学まで、あと一カ月を切っておりますわよね。ですが……わたくしには学力と言えるものが、あまりにもとぼしいのですわ!」

 どどーん!

 そう。半年前まで幽閉されていたエカテリーナには、貴族令嬢としての教育を受ける機会がなかったのだ。

 いつぱん的な貴族の家庭なら、五歳かそこらから家庭教師をつけて教育を開始する……らしい。なのに、十四歳まで放置だ。お母様が教師をつけようとしていたような記憶はあるが、結局立ち消えになった。たぶん、よめのやることなすこと気に入らないクソババアがぼうがいしたのだろう。どうしてくれる嫁イビリクソババア、取り返しがつかないだろ。

 ある程度のことは母が教えてくれたが、教材などもろくになく、やがて母は寝たきりになってしまった。半年前からは兄が教師をつけてくれたが、はんこう状態だったためろくに勉強していない。よって学園での授業に付いていけるとは、とても思えない。

 なにしろ、入学するのは『魔法』学園。魔力の使い方を学ぶのが最大の目的という場所だったりする。なのに今の私は、魔力なんて本当に存在するのかも疑っちゃうレベルなんだよ。ゲームの世界なら魔力はあるはずだけど、使い方の前に存在かくにんさせてほしい。そんな段階なのに、授業を受けろって、あまりにご無体なちやりですよ。

「お兄様もそれを心配なさったから、入学より一カ月も早く皇都にお連れくださったのでしょう?」

「……だが、お前の身体からだの方がずっと大切だ。学園での評価など、私がなんとでもしてみせよう」

 って、こらこらこらこら。

 乙女ゲームのエカテリーナは、公爵家の権力でかせてもらってたんだろうか……。

「でもわたくし、お勉強したいと思いますの。昨日お兄様が貸してくださった歴史の本が、とてもおもしろくて」

 これは本当なので、真心こめて言える。そもそも、前世では就職して社畜にジョブチェンジするまで、歴女だったし。

 いやな歴史書より歴史小説が好きだった、なんちゃって歴女だけど。借りた本が面白くて、もっといろいろ知りたいと思ったのは本当だ。

「それにわたくし、やりたいことができましたの。そのために、たくさん学ばなければならないのですわ」

「やりたいこと? ほう、何かな」

「たくさん勉強して、法律でもなんでもわかるようになって……お兄様のお仕事を、お手伝いできるようになりたいのです」

 よほど意表をかれたのだろう、アレクセイは目を見開いた。

 十七歳ですでに公爵、という設定を前世で見た時は、ふーんとしか思わなかった。

 しかし……よく考えたらそりゃそうだ、という感じだが。この三日だけでわかってきた。

 公爵、ちようぜつ激務すぎ!

 前世の世界で例えたら、総合商社の社長と、県知事を、けんにんしてるレベルじゃないの!?

 この三日出来るだけエカテリーナのそばに居ようとしてくれたアレクセイだったが、それでも追いかけてくる書類やら意思決定願いやらがすごかった。

 聞き取れた話だけで、公爵領内の鉱山(あるんだスゲー!!)の産出量がどうのとか、どこかの村でがけくずれが起きてこれだけがいが出たので税のめんじよがとか、他国から輸入した食料の品質がこんなに悪かったのでばいしようせいきゆうする書簡にサインを、とか。

 なかでも思わず聞き耳を立ててしまったのが、領地に広がる森林にきよだいりゆうしゆつぼつしたため、特注されているじゆれい四百年以上のこくりゆうすぎばつさいするために森の奥へ入ることができないといううつたえ。らい者におくれを報告する書簡へのサインを求め、警護を強化するため追加予算をしんせいしているそうで……。

『竜が出た』のファンタジー感と『報告書』『追加予算』の日常感。シュールよのう……。

 まあとにかく、アレクセイはちやちやいそがしいようだ。

 しかし、それをこなしてるんだよこの人!

 たぶん彼の頭の中には、こうしやく領内のすべてがまっている。村の名前だけで、公爵領のどこにあり、どんな地形で、主な産物が何で、人口がどれくらい、とかって情報がすらすら出てくる。

 知識だけでなく対処のスキルもすごい。すべての問題にてきぱきと指示を出し、書類をさばいていて、とんでもなくこうはんな業務を理解しとうそつしている。

 なんというできる男! 十七歳でそれができるって、もうチートのレベルじゃないの? 江戸時代の名君、うえすぎようざんが似たようなねんれいはんしゆになってた気がするけど、張り合えるくらいすごいよ。

 そして、社畜ははたと思ったのだ。

 なんか……過労死フラグ立ってない?

 仕事ってのは、有能な人のところへ集まってくるんだよ!

 めつフラグへし折る決意をしたとたん、過労死フラグ(ラスボス)が見えたでござる。

 やめて!

 そんなフラグどうやって折ればいいんだよ。破滅フラグよりこっちの方がごわいわ!

 そんなわけで、お手伝い宣言になったわけだ。

 まあ、アレクセイはただ微笑ほほえましげながおなのだが。……本気にしてないよね、当然だけど。

「お前はやさしい子だね、エカテリーナ。仕事のことなど、気にしなくていいんだよ」

「はい、まずはつう程度の学力を身に付けるところからですわ」

 負けずにアレクセイの言葉を流すエカテリーナであった。

「無理はしないとお約束いたします。ですからお兄様、よい教師を手配してくださいまし。……このまま入学するのは、わたくし、こわいんですの。お願いですわ」

 ね、と可愛かわいい子ぶって小首をかしげてみせると、シスコンな兄はあっさりうなずき、明日から家庭教師を付けてくれることになった。よっしゃ!

 ……悪役れいじようの可愛い子ぶりっこにデレてくれるのって、お兄ちゃんだけだろうなあ……ほかの人にやらないように気を付けよう。ドン引きされるかもしれないし。

 とにかく、明日からがんって……人並みになるぞー。

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