三章 こんにちは花邑家 その3
花邑家に住むことで得られる特典は、花邑親子から魔法を教えてもらえるだけではない。エンチャント施設だってそうだし、煩わしい門限なんてものもない。
そして重要なこととして、色々な場所の開放だ。
「ああ、あの滝ね? 良いわよー。あれ……どうして滝があることを知ってるの?」
話が追及に変わる前に通話を切る。土地所有者の許可は簡単に下りた。それからすぐにはつみさんの部屋に行くと、ドアをノックする。
「はつみさん、ランニングがてら魔法の練習してきます。夕食前には戻ります」
「……わかった」
はつみさんの部屋から離れると、余ったお金で買ったランニングシューズに履き替える。
「よしっ」
まだ覚えていない道を、なんとなくで走っていく。一応はつみさんに多少案内して貰ったが、目的地までは案内してもらっていない。後半は勘で進まなければならないだろう。
「ハッハッハッハッハッ……」
人を避け一定のペースで道を走っていく。最初はコンクリートだったが、やがて舗装された足場を過ぎて土や草むらに変わる。そして目的地へ行くため林の中へ入っていった。
林に入って数分程走ったところで、まず音に変化があった。木々のざわめきから、水が打ち付けられる音へ。そして進めば進む程、その
たどり着いた場所にあったのは滝だ。
落差は十五メートルくらい、幅は三十メートルぐらいだろうか。薄く長く伸びたその滝の水は、空からの光を反射してキラキラと輝き、思わず口を半開きにして目を奪われる美しさがあった。慎み深い美と言えば良いだろうか。また
滝に近づいて分かったが、どうやらこの滝では角度によって虹が見えるらしい。先ほどは見えなかった小さな虹が、滝をラッピングするリボンのように長く伸びていた。
俺は足場が少し悪いその道を進み、滝の裏に足を踏み入れる。
「っ……」
言葉が出なかった。
それをたとえるなら、水のカーテンだ。裏から見る滝は、それはもう美しかった。青白く薄い水の幕がかかっており、その先には緑豊かな林に光が差している。風が吹けば木々がまるで泳ぐかのように揺れ、薄緑色の葉がひらひらと落ちていく。
圧倒的であまりにも美しい。見ているだけで心が洗われそうだった。いつまでも見ていたい、そう思える程美しかった。
でも、それ以上に美しいものがそこには居た。
ひゅぅ、ひゅぅ、ひゅぅ、ひゅぅ。
滝の音でうるさいこの場所に、風を切る音が聞こえる。
視線の先には
実のところ彼女がここに居るかもしれないとは思っていた。主人公は彼女に案内されてここに来るのだから。実を言えばだが、居ることを期待していた。
なんせ俺が一番会いたかったヒロインだから。
振るう度に彼女の
辺りには絶景が広がっているというのに、彼女から目が離せない。
まるで磨いたオニキスのように美しく光沢のある黒髪、鏡で映し出したかのように均一な顔。まるで妖刀のように妖しく鋭い瞳。どことなく
もしこの世界に女神が居るのだとしたら、それは目の前に居る。
俺は今もじっと彼女を見つめているが、彼女は反応せず、まるで意に介さない。彼女にとって俺の存在は一考にすら値しない程の小さな異物なのだろう。意識から除外され、まるでそこにある景色の一部のように自然と無視されている。
薙刀をふるう度に舞う黒髪。道着から出た細く白い腕からは、信じられない速度で薙刀が振るわれる。
まぶたを通過する汗をぬぐおうとして、俺の体が小刻みに震えている事に気がついた。それは畏怖からなのだろうか、武者震いなのだろうか、それとも喜びなのだろうか。
多分全てだろう。ただそのなかで一番の感情は、彼女に会えた喜びのような気がする。俺は
喜ばないわけがない。だってゲームで一番と言って良いぐらい心身込めて育てたキャラクターなのだ。戦闘から外すことはほぼなく、どんなに不利な条件であろうと出撃させ、
そう、いるんだ。現実に。マジエク三強の一人であり、風紀会副会長であり、水魔法の使い手ゆえ水龍姫ともよばれる、
彼女は何度も繰り返していた素振りを不意に止める。そして彼女は今までの上段の構えからの型を止めて、脇に構えた。
「ふっ」
彼女が息を吐くと同時に、一瞬何かが光る。気が付けば薙刀は前に突き出ており、水のカーテンが縦に二つに割れていた。
その突きは目で追うことが出来なかった。
薙刀の舞は、まだまだ終わらない。切り上げ、切り下げ、横払い。
その美しい連続技を見ていると、体の中がだんだんと熱くなっていくことに気がついた。居ても立っても居られない、そういう気持ちだ。今すぐ駆け出したい。そんな衝動に襲われる。
すぐにその原因には行き着いた。
俺は未だ薙刀を振るう水守雪音に背を向け、滝の裏から出る。そしてありったけの力を足に込めて駆けだした。
熱くなる心臓。まるで台風で氾濫しそうな川のように血液と魔力が流れ、体は
ああ、クソッ。と心の中で悪態をつく。
心奪われるほどの美貌に、叫びたくなるぐらいの羨望に、そして体にくすぶる嫉妬。それらがごちゃ混ぜになって、火が付いたのだ。あれぐらい美しく武器を振るいたい。あれぐらい強くなりたい。いや、あれ以上に強くなりたい。
体中がそう訴えていた。
滝から少し山を登り、開けた場所に出る。そこで俺はありったけの魔力を循環させながら、勢いよく走る。燃えた体を消火するかのように、これでもかと走った。
どれくらい走っただろうか。照らしていた日は沈みかけ、辺りは暗くなっている。これ以上ここで修行することは無理だろう。
「帰ろう……」
そう
頭に浮かぶのは水守雪音のことばかりだ。
薙刀の動きがまったく見えないなんて本当にばかげている。それも距離があったというのに全く見えなかった。どうすればあれだけ速く武器を振るえるのだろうか。そしてだ。俺はあの速さにどう対抗する?
相手が動く前にこちらが行動するのはどうだろう。こちらが先に動き相手の行動を妨害すれば、あるいは。それ以外ではストールで大きな盾を作るだろうか。
靴を脱ぎ家の中に入る。そして風呂に向かって一直線に進みながら考える。
まずは目を鍛えたい。そしてあの速さに反射的に反応して、ストールを動かせるようにしたい。
ストールを外し、汗で張り付いたシャツを脱ぐ。
スポーツ選手は目を良くする訓練や、反射神経を鍛える訓練をしているらしい。俺もそれをしてはどうだろうか。そしていくつかのスキルを獲得するのもいいか…………!
俺がノブに手をかけようとした瞬間、ガチャリとドアが開く音がする。
「……」
「……」
現れたのは白い素肌をほんのり桜色に染めたはつみさんだった。湯上がりなのだろう。肌にぺたりと張り付いた
頭のメモリーに永久保存しながら、急いでドアを閉める。
「っっぁぁぁぁ」
はつみさんから今まで聞いたことがないような声で叫ばれ、体中に罪悪感がわき上がる。
「すいませんでしたぁぁぁああ!」
そのとき、廊下からどたどたどたと足音が聞こえた。
「どうしたの!?」
どうやら毬乃さんが帰宅していたらしい。すぐさま駆けつけた彼女は、俺の全身を見て満面の笑みを浮かべる。
「きゃぁぁぁぁ♪」
なぜか楽しそうな叫び声だ。って、叫ばれた? え、なぜ。
ふと自分の体を見つめる。それなりに引き締まっていると自負している健康的な肉体。
なるほど、俺は全裸なのか。
服は脱衣場におきっぱなしだ。隠す布はない。
「うぇええええええええええええい!」
急いで両手で股間を隠す。まさかの二次災害だ。
「幸助君ったら気が早いわああぁぁぁぁ♪」
何言ってんだこの人は。毬乃さんは両手で顔を覆っているが、指の隙間からしっかり俺の体を凝視している。
ああ、どうすれば良い、どうすれば良い。ああ、ダメだ頭の中がごちゃごちゃして、何も考えられない。
ふとドアが開き、下着姿のはつみさんが出てくる。そしてその手から魔法が放たれた。防御は確実に間に合わない。というかストールがない。
「あ、これ死ぬ」
目の前が光でいっぱいになった。
この世界に来てから初体験をたくさんした。魔法をつかったのだってそうだし、魔力が動力となった車にも乗った。そして今日、生まれて初めての土下座をしている。いずれとある皇族にもする予定ではあるが。
はつみさんは先ほどからジト目で俺を見つめている。視線もはずしそうにない。俺が出来ることはおでこを地面にこすりつけるだけだ。
どうにかして許して
そうだ、エロゲに学ぼう。もしエロゲだったら風呂を
彼らはどのようにして許しを請うていただろうか。
うん。一緒に入ろうで許可すら出る超世界から一体ナニを参考にすれば良いんだ? それに彼らは主人公補正があるんだぞ?
「…………」
沈黙がつらい。だが悪いのは俺だ。どう考えても悪いのは俺だ。誰か居るかを確認せずに脱衣場に入ったのだ。考え事をしていたせいで、何も考えずに脱衣場に入ってしまった。
「ごはんできたわよぉ」
能天気な声がキッチンから聞こえる。もちろん俺は立ち上がることはせずに、地面に頭をこすりつける。前髪がハゲそうだが致し方ない。
「はぁ……こうすけ、頭を上げて」
彼女に呼ばれてゆっくり頭を上げる。ジト目はしていない。
「ご飯、行きましょう」
一応許してもらえたようだ。
ダイニングルームに行くとテーブルの上には、きのこのポタージュスープ、ハンバーグ、ライスと子供が好きそうな料理が並べられていた。みんなが席に着くといただきますと食事を始める。
はつみさんは怒っている様子には見えない。ただ黙々とハンバーグを口に入れていた。俺はそんなはつみさんを気にしながらも、食事を口に入れる。
意外なことに毬乃さんは料理が上手だった。ホテルや旅館で食べたのより
特に美味しいのはハンバーグだ。手作りのハンバーグからは、これでもかと肉汁が溢れ、口の中に入れると大洪水が起きる。
「実は幸助君の好きな食べ物にしようと思ってたんだけど……食べられないものはないし、なんでも好きっていうじゃない? だからはつみの好きなもので埋めてみたの。知ってる? はつみったら味覚が子供っぽいのよ」
と言うと、珍しくはつみさんが慌てた様子で首を振っている。
「そういえば昨日はつみさんが食べたのは……からあげとオムライスでしたね」
言われてみればどちらも子供が好きな料理だろう。
「っ!?」
はつみさんは顔を少し赤くしながら、毬乃さんを
「でも私もそういうの大好きですよ。はつみさん、この辺りでオススメの場所があれば連れていってください」
「……」
何も言わずにご飯を口に入れるはつみさん。まあ多分つれてってくれるだろう、そう信じておこう。
少しだけ良い気分になりながらスープを堪能していると、毬乃さんがあっ、と声を出す。不意に何かを思い出したようだ。
「そうだった。明日リュディヴィーヌちゃんくるから」
「へえ、そうなんだ…………………はぁ?」
今
「多分お昼過ぎかしら、家に居てね」
今『明日仕事で少し遅くなる』と同じくらいのノリで爆弾発言しなかっただろうか。
食後、一人部屋で頭を悩ませる。確かに後々来るであろう事は分かっていた。しかし俺としたことが、全く対応策を考えていない。
ひとまず現状を整理しよう。リュディヴィーヌ・マリー=アンジュ・ド・ラ・トレーフルはトレーフル皇国皇帝陛下の次女である。そんな高貴な身分の女性に俺がしたことは、ちょろっと助けてパンツをガン見しておっぱいを触った事である。
「……極刑だな」
とりあえず土下座しよう。リュディヴィーヌ殿下に対して非礼の数々を心よりお
はたしてそれで許してくれるだろうか。
もしだ。急に一般女性に俺の大切なところを触られたとしよう。許せるだろうか。場合によってはご褒美である。案外許してもらえるんじゃなかろうか。
「んなわけねえよなぁ」
と、色々対策を講じていると、不意にドアがノックされる。
「こうすけ」
「はつみさん? どうぞ」
はつみさんはぐるりと部屋を見て小さく息をつく。
不要そうな物をすべて置いてきたため、部屋の中はかなりすっきりしていると思う。もちろんやばい物などこれっぽっちもない。
「どうかしたんですか?」
じっと部屋を見つめているはつみさんに声をかける。
「いえ、なんでもない。ただこうすけに聞きたいことがある」
「なんですか?」
「……こうすけは、その、お年を召した人が好きなの?」
「は?」
「こうすけは熟女が好きなの?」
はて、彼女はいきなり何を言ってるんだろうか。
「母様はおばさんよ?」
「どうしてその結論に至ったのか詳しくお聞かせ願えますか?」
さあ、ここに座って欲しい。そして一から話してほしい。
「だって、母様とはすごく仲よさそうだし。あたらしいお父様に立候補するのかと」
そんなわけない。それに毬乃さんが、仲の良い
「とりあえず、それはありえません。それと毬乃さんの対応って、はつみさんと同じくらいのつもりなんですけど……」
「だって、私に対して言葉が堅い」
そういえばそうかもしれない。しかし。
「毬乃さんには敬語使うなと厳命されてて……敬語はクセみたいなものですし、勝手に口から出るんですよね」
毬乃さんに他人行儀な事をすると頰を膨らませるから仕方なくそうしてるんだ。頰を膨らませる? あれ、あの人何歳だったか。でも可愛いんだよなぁ……。
「私にも敬語はいらない、もっと親しみを込めて呼んで欲しい。お姉ちゃんでいい」
あなたはお姉ちゃん呼ばわりされたいのか。ゲームでは仲良くなるイベントなんて無かったから知らなかったが、結構キャラ崩壊するタイプなんですね。
まあ、それはいいとしよう。ただ呼び方は姉さんにしてほしい。『ちゃん』は恥ずかしい。いや、俺がそう呼んでしまおう。
「ええと……わかりました。はつみ姉さん」
魚の骨がノドに引っかかったように、煮え切らない表情で彼女は頷いた。
彼女はそのまま部屋を出て行くと思ったが、そんな事は無かった。そのまま部屋に転がり込んで、たわいもない会話をして一日が終わった。無論、リュディ対応策なんてこれっぽっちもしていない。