第四章 『旅の果て』1-2
姿を見せたのは当然、エイネだった。どうやら気配を殺し、話を伺っていたらしい。
ラミは少しだけ腰を浮かせて、また笑顔を浮かべた。
「エイネ……! よかった、目が覚めたんだな! 安心したよ……」
「うん、なんとかね。だいぶ心配をかけちゃったみたい。ごめんねラミ」
どこか、ばつの悪そうな表情のエイネ。
少なくともその様子は、精神は、普段通りのエイネとしてラミにも映る。
「ラミ、あれからどれくらい経った?」
「エイネが倒れてから七日ってところだ。……体は、大丈夫なのか? こんな風に意識を失ってて、何もないってことはないと思うんだが──」
言葉や態度は普段通りでも、体のほうはそうもいっていない。
ラミにもそれがわかった。扉を開けた彼女は、そのまま壁に手をやっている。
「あはは……いや、体の調子自体は、たぶん悪くないと思うんだけど」
「たぶん、って……お前なあ」
「言葉の通りだけどな。まあバレてるみたいだから言うけど、なんだか自分の体じゃないみたいな感覚があるんだ……いや、感覚がないんだ、って言ったほうがいいかも」
あっさりと、笑い話みたいに告げられた言葉。
意味を理解した瞬間、ラミは絶句した。その代わりにジャニスが口を開く。
「久し振りだな」
「はい。お久し振りですね、ジャニス師匠。どうしてここに?」
「いろいろだよ、エイネ」
「いろいろ……ですか。あははっ、そうかもしれない」
わずかに愉快そうな笑みを
ラミはジャニスに視線を向け、
「……師匠。エイネは」
「《使徒化》……便宜的にそう呼ぶが、その進行は止まっていないということだろう」
「そんな……っ」
「一度は使徒化したんだろ」焦燥するラミに対し、あくまでジャニスは理性的に。「
受けてエイネが頷いて笑う。
「だと思うよ。もしアレに完全に入り込まれたら、少なくとも今の私の
「才能がありすぎるのも考えものだな。本来なら長い年月を救星の旅に費やして、初めて花開く適性なのだろうが……ふん。歴代最強の神子か。よもや裏目に出てしまうとはな」
「そんな……簡単な」
「事実は事実だ。受け入れなければ先へ進めん。──まだ歩みを止めないのならな」
ジャニスは短くそう言い切った。
ラミも、確かにそれが現実なのだろうとはわかる。ジャニスは続けて、
「そしておおよそ判断はついた。なるほど、使徒……その目的があくまで救星であること自体に違いはない、か。まったく難儀な命数だな、神子というのは」
「師匠?」
「あいつらも世界に滅んでもらっては困る、ということだろう。あの実験場に残っていた命数を、シシューはおそらく惑星の破壊に使ったんだ。土地を傷つける形でな」
「……星を、壊そうとした……? なんで──」
「呼び出したんだろう、使徒を。
「あははっ! なんか壮大なお話になってきたね?」
どういうつもりか簡単に笑うエイネだったが、ラミも似たようなことを考えてはいた。ただまったく笑えないだけで。
「……どうするつもりなんだ? エイネは、それでいいのかよ……?」
ラミは問う。問わずにはいられない問いだった。
だって彼女も裏切られたひとりだ。このままではエイネの望みは、何ひとつとして
不可能だ、と突きつけられたに等しい。
だがエイネはごくあっさり、笑顔で答えた。
「いいよ。だって、いいも悪いもないから。でしょ?」
「は……?」
「私は神子だからね。やるべきことは初めから決まってるし、変わってない。今、だけどその方法のひとつが無理だとわかった。そこに文句を言っても仕方ないじゃん。だったら別の方法を考えるだけ。──そうでしょ、ラミ?」
「────」
絶句、した。
そのあまりにも強く折れない心に。
突きつけられたものは、間違いなく絶望だった。そのはずだ。どうにもならない現実を直視させられ、その上で彼女は迷いもせず立ち向かうことを断言してみせたのだ。
「──大丈夫だよ」
エイネは言う。
いつも通りの笑みをラミに向けて。
「大丈夫。まだ全部が終わったわけじゃない。ラミがこうして、私を連れ戻してくれたんだし、まだふたりとも生きてる。自分の足で歩けるまま。だったら前に進まなくちゃ」
「……エイネ」
「何も根拠なく言ってるわけじゃないよ。実際、反天会の人たちは──シシュー先輩とかティルアで会った人たちは──ああやって別の道を模索してるわけでしょ?
──別の方法。
そうだ。そもそも十人の神子が天命を達成したとして、すなわち使徒が十名になって、それでいったいどのようにこの惑星を救うというのだろうか。
その点からして何もわかっていないのだから。
諦めるにはまだ早い。絶望するのは、全てが
もちろん、これは机上の空論と呼ぶのも
だが、だからこそ──知らないのだから知りに行くのだとエイネは言う。
「使徒がいるっていうなら訊きに行けばいい。全部を知ってるかもしれない誰かと、話ができるならむしろ幸運でしょ? それだけ早く、知ることができるんだからさ」
「……そう、だな」
小さく息をついて、エイネの言葉を
折れかけていた心はそれだけで戻った。そもそもつらいのはエイネだ。彼女より先に、自分が諦めていいはずがなかった。
救った世界にエイネだけが存在できないなんて馬鹿げている。彼女だけが、神子だけが犠牲になって築かれる平和なんて、少なくともラミには甘受できない。できないのだからほかの方法を探す──なんて、ごく当たり前の話でしかなかった。
「──それで?」短く、ジャニスはエイネに
「……そうだね」
鋭く訊ねたジャニスに対し、エイネは一度だけ視線を落とした。
そんな幼馴染みを見つめるラミ。エイネは彼に視線を投げ、笑みをかけてから、言う。
「──まず明らかに異常があるのは視覚。今の私には色が判別できない」
「な……エイネ。目が、悪くなってるのか……!?」
「違う、そういうことじゃない」
驚くラミにエイネはすぐ首を振った。
「そういうことじゃない、ってのは」
「視力だけで言うならむしろ上がってると思う。……なんて言うのかな。認識がズレてるっていうか、実感が湧かないっていうか……自分じゃない体を使ってるみたいな気分」
「自分じゃない、誰か……」
「うーん……いや、そう思う私のほうが変わっていってるのかも。感覚で捉えてるものを実感として認識できないっていうのかな。ただとりあえずふたりの顔は、今の私には白と黒だけで見えてる感じ。あと温度もわかんないから、触覚もおかしくなってそう」
軽い調子で告げられる言葉の重さ。
それを感じ取りながら、ラミは問う。
「……それ以外は? 体が動きにくいとか……」
「そういうのはないかなー。基本的には感覚器のズレなのかも。嗅覚は……今のところはたぶん大丈夫。いや、よくわかんないけどね? 耳もちゃんと聞こえてるとは思う」
「そうか」ラミは一度だけ呟いてから。「……そうか。わかった」
もう一度呟く。
シシューからも聞いていた、体を《人間》から《使徒》のそれへ作り替えられる弊害。それがこういった感覚の喪失だというのなら、エイネはいったいどうなるのだろう。
それを押し
「猶予はないな」
ジャニスは短く言った。同じ予感は、もうラミも抱いている。
「このまま放置しては、さらに進行することがあっても止まることはあるまい。感覚的な能力を
「進化……ですか?」
訊き返したラミに、ジャニスは頷き。
「神の子が神の使いになる過程というヤツだろう。……考えてもみろ。大灯師と呼ばれる神子の全員が、例外なく素直に使徒になることを認めたと思うか? エイネやシシューのように、抵抗を覚えた者もいただろう。全員が全員、その命数を認めたとは思えない」
というジャニスの言葉に、エイネは軽く肩を竦めて反論する。
「それはどうだろ。この惑星を──全人類を救うためだって理由があるし、だから神子は教会に手厚く保護されるわけじゃん。なら疑問とかなかったのかもよ? 実際、こうして使徒になってる神子が、間違いなく六人はいるわけだし」
「拒否しているお前が言っても説得力はなかろう。
「褒めてくれてる?」
「好きに捉えろ。……
「……意識が変化するから、ですか?」
小さくそう訊ねるラミ。ジャニスは薄く笑った。
「乗っ取られる、と言ってもいいかもな? なにせ神の
その言葉にエイネも頷いて言う。
「神の端末に個人の意識は必要ない。だけどある程度の判断能力は必要……だから、統一意思に従って動く生命、つまり使徒に変貌する。人間性を喪って、神様の仲間になる」
「……実感があるか」
「一回、使徒になりかけたしね。そのときのことはあんまり覚えてないけど、なんとなくわかるんだ。──アレは、間違いなく人間をやめることで、戻っても来られない、って」
エイネは冷静に事態を把握している。
ある意味、自分のことだからこそ冷静でいられるのかもしれない。
ただ彼女にとっても、この状況は完全に想定外だ。自分の代で《神子》というシステムそのものを終わらせるつもりだったのだから。
──けど。
とラミは思う。彼は知っている。それでも彼女はまだ自分で歩くつもりでいるのだと。
エイネの
青年が幼い頃から憧れ続けてきた、自慢の幼馴染みの
「最後に、ひとつだけ訊いていいかな?」
彼女のその問いに、ジャニスは無言で首肯を返した。エイネは
「ありがと。じゃあ訊くけど──この惑星に果たすべき天命なんて本当はなくて、神子が旅をするのは、ただ命数術を使い続けた果てに使徒へと至るため。それはわかったけど」
「……けど?」
「──それがどうして、この星の寿命を永らえさせることに繋がるのかな?」
ジャニスはまっすぐエイネを見ていた。彼女は続ける。
「私たちは教会からこう教わって生きてきた。──神によって課された天命を、神子の、人間の手で果たすことで、この惑星において存続する権利を人は得る、と。だけど本当は天命なんてなかった。神様から命じられた課題なんてない。なら私たちがこうして戦っていることは、本当に救星に繋がるの? 神様は……本当に人間を助けてくれるのかな?」
しばし、ジャニスは目を閉じていた。
数秒、間が生じる。そのあとでジャニスはエイネを見据え、答えた。
「──わからない。神子ならざる
「ん。そっか」
「それを知っている者があるとすれば、それこそ神以外には……かつて神子でありながら使徒に至った、大灯師と呼ばれる六人だけだ。
「じゃ、決まりだね」エイネはあっさり、笑顔のままで言う。「直接、訊きに行こう」
ジャニスは小さく、かぶりを振ってこう言った。
「一応の義務だと思って、言っておこう」
「聞くよ」
「このまま使徒になる道を選べば、お前は七番目の大灯師として歴史に名を刻む。お前の妹であるアウリも、姉の偉大な名があれば守ってやることもできるだろう。それが、最も正解に近い道なのかもしれない。──それでも、お前はそれを選ばないんだな?」
「今のとこ、私は私であることをやめるつもりはないよ。かといって神子の責務から逃げ出して、旅を終わらせるつもりもない。まだ、私は何ひとつ、諦めてないから」
その宣言に息を吸い、
ジャニスは、まるで実際の経験であるかのように、こう言った。
「──まずは視界から
「…………」
「見える世界を、人間を、認識できなくなるところまで行くんだ。誰の顔を見ても同じに見える。個人という概念があやふやになり、やがて人間を総体でしか認識できなくなる。友の肌に触れても感覚はなく、花の匂いがわからなくなり、言葉を聞いても
「……っ、それは──」
ラミは思わず声を上げていた。
感覚を喪う、ということの意味を完全に捉えきれていなかったと気づいたからだ。目を
「そうだ、ラミ。感覚が揺らぐ、とはそういうことだ。五感の機能不随なんて大した問題ではなかった。厄介なのは、それらに向けていたはずの感情まで失っていくことだった」
触れても温度を感じない人肌に。
なんの香りも感じない花に。
舌に載せても味のわからない食事に。
ただ鼓膜を揺らす空気の振動でしかない音に。
瞳に映る、全てのものに。
──やがて神子は、感情を向けることができなくなっていく。
「本人から訊いたに過ぎないがな。
失われるのは感覚ではなく人間性だ。感じられないものなどどうでもいいと理性が自ら判断してしまう。身の回りの全てが次第に意味を喪失し──結果、神子は
神の気分が赴くままに、人間世界を管理、支配するための意思なき
「そうか。ロック……! あいつも、その状態になったのか……!」
気づいたラミに、ジャニスは首肯を返した。
彼が、エイネにとって神子の先輩であることは事実らしい。
「……ロックは、治ったんですか?」
「
死ぬことを恐れたわけではないのだろう。
神子として、たとえ自らの命と引き換えにしたとしても、国の民のために殉じる覚悟を彼も持っていたはずだから。偉業と引き換えに死を迎えられるなら、悪くなかった。
だが、使徒になることは受け入れられなかった。
そうして神の手足となることではない。その過程で人間性を失うのなら、自分がなんのために戦ってきたのかがわからなくなってしまうから。それが彼には恐ろしかった。
大きな理想があった。
全ての人間を救ってやろうという気概があった。
しかし、救った人間をどうでもいいと思ってしまう感情の喪失には──耐えられない。
「……お前は進めるのか、エイネ? 一度はお前も、その意識を得ただろう。人間を個人として見ることができず、ただ総体として生かそうとすることだけを思う視座を。どんな数の人間が死のうと、大切な誰かを喪おうと──最後に生き残る者がいればいいと。そう考える視点に至ってなお、お前は……それでも、神子として戦うことができるのか?」
静かに、けれど重たく響くジャニスの問い。
エイネは、迷うことなく希望を返した。
「うん。できるよ、私には」
「なぜ?」
「──だって私にはラミがいるから」
ラミはその言葉に目を見開き。
「そうか。……あの日のガキどもが、強く育ったものだよ」
「もちろん! ふたりならできないことはない。そう思ってここまで来たんだ。この程度じゃ私は折れない。だって本当に、ラミはこうして、私を呼び戻してくれたんだから!」
ラミは心底から驚いた表情だが、エイネにはそれが面白いと同時に少し不満だ。
まったくもってわかっていない。ラミの存在が、いつだって自分を支えてくれた、幼馴染みの少年が──いったいどれほど少女の力になってくれたことか。
彼がいなければ、神子の役割なんて投げ出してとっくの昔に逃げ出している。
「そうでしょ、ラミ? ……最後まで、私についてきてくれるんでしょ?」
それほどの信頼に。
それほどの覚悟に。
そうだ。応えられずして何が騎士だろうか。
「……さっき、夢を見てたんだ。お前が神子だってわかって、置いてかれたときのこと」
ラミは静かにそう語った。
エイネは微笑し、懐かしいね、と笑いかける。
「あのときエイネはオレを信じてくれた。自分のところまでオレが
「別に、ラミに裏切られたと思ったことなんて一度もないけどね」
「オレは才能がなかったからな。エイネだけだ。何もできないガキだったオレが、本当に守護十三騎に選ばれて、お前といっしょに旅に行けるって信じてくれてたのは」
「確かに私は神子で、命数はラミよりずっと多いけど」エイネは笑う。「そんな私にずっと食らいついてきてくれたのもラミだけだもん。ラミなら絶対、夢を叶えるって信じてた」
そして、本当にラミは、ひとりでは届かなかったはずの頂へと手をかけた。
ならば今度は、エイネも同じことをして証明しなければならない。
幼馴染みだ。ずっと対等であった。ラミがこうして不可能を超えたのだ、次はエイネの番。それだけの話だ。
ロックのようにご大層な理想なんてない。
エイネが神子の責務に向き合う理由なんて実に個人的なものだった。
「──行こう、ラミ。使徒に会いに」
「ああ。行こう、エイネ。オレが必ず、お前の行きたい場所まで送り届けてやる」
ふたりはそうして、決意を新たに顔を上げた。
これまでと何も変わらない。ラミとエイネにとっては、ふたりであること以上に大切なことなんて存在していないのだから。ならばどこまでだって戦い抜ける。
「──わかった」
と、そこでジャニスが言った。
「ならば、お前たちは北の果てへ向かえ。──そこに、全ての答えがあると聞いている」