第二章 第二話

 通されたのは広い畳の間だった。緋蝶は緊張しつつ、部屋に入る。

 雫花帝に失礼にならないようなあいさつの仕方を、さきほど東雲に教えてもらっていた。

〝主上は御簾の中にいらっしゃるから、近くまで行って正座して、両手をついて頭を下げてください。主上と直接話ができるのは、大臣や側近などの限られた方だけなので、その方の指示に従ってください。決して勝手にしやべらないように〟東雲の言葉を頭でり返しながら、その通りにした。頭を下げたままで待っていると、苑紫の声がする。

「緋蝶様、主上が顔を上げよとおつしやっています」

 ゆっくりと顔を上げると、正面に御簾が垂らされていて、そのななめ前に苑紫が座っていた。

「本来なら、主上にお目にかかるり行いますが、今回は主上より大臣や官吏達を同席させず、直接話したいというご意向がありました。たくさんの人に囲まれては、緋蝶様が緊張するだろうと心配なさっての事です。それでは、主上のお言葉をたまわります」

 苑紫が御簾に向かって頭を下げた。直接雫花帝から言葉を頂くなんて、おそれ多くて息が止まりそうだったが、何とか心を落ちつけようと深呼吸して言葉を待つ。

「……ようこそ、緋蝶。もっとこちらに近づいて、よく顔を見せて」

 落ちついた大人の女性の声が、御簾の向こうから聞こえた。

 東雲に目をやると、彼が顔をせたまま、軽く頷く。立ち上がって、二、三歩進んでもう一度座った。御簾を見つめると、再び声がする。

「まあ、可愛かわいらしいわね。……そこにいるのは東雲ね。話は聞いています。緋蝶を連れてきてくれてありがとう」

 斜め後ろに座っていた東雲に目をやると、彼は顔を上げた。

「お言葉、きようえつごくにございます。緋蝶は私の屋敷で働いていました。事情はうかがいましたが、本人は戸惑っているようです。竜神様のご宣託にちがいがあるはずはございませんが、緋蝶の話も聞いて頂ければ幸いにございます。ですが緋蝶は緊張してどう話していいかわからないと申しておりますので、私が説明させて頂いてよろしいでしょうか?」

 東雲が再び頭を下げると、ややあって御簾の中から声がした。

「いいでしょう。聞かせてちょうだい、東雲」

 許可が出た事にほっとする。雫花帝と話すなんて恐れ多くて言葉も出ないと、さきほど東雲に相談していたのだ。許可が得られれば、東雲が説明すると約束してくれていた。

「まず緋蝶の母親は、主上の妹君とは名前が違います。そして……」

 東雲の話を一通り聞き終わった雫花帝が、静かに声を上げた。

「わかりました。では、緋蝶。の中に入ってきなさい」

 とつぜんの事に目をまたたかせた。東雲もおどろいたようで、声を上げた。

「ですが、緋蝶は……」

「主上のお言葉です。緋蝶様、前へどうぞ」

 御簾の前に座った苑紫が、するどい声を上げた。

(貴族のおひめ様は家族と夫以外には顔も見せちゃいけないって聞いた事があるわ。主上の顔を見るなんて、きっととんでもなく恐れ多い事なのよ。どうしよう、話しかけられてもどう返事していいかもわからないのに)

 目を白黒させていると、東雲が息を吸い込んだ。

「主上、恐れながら、緋蝶はだいだいでの作法を知りません。知らずに主上に無礼を働いては大変です。どうかこのままで……」

ひかえろ、東雲。主上のご命令に逆らうようなら……」

 苑紫の声に殺気が込められていると気づいて、はっとした。

「お待ちください。わたしが一人で参ります」

 声を上げるのは人生で最大の勇気がいった。

 それでもこのままでは東雲がまずい事になりそうだ。だから勇気をしぼった。

「東雲様、大丈夫です。直接、人違いだと説明して参ります」

「……わかりました。御簾に入ったら、すぐに跪いて頭を下げるんです。いいと言われるまで顔を上げてはいけません。話す時は、まず主上のお言葉を聞いてからです」

 うなずいて、身をかがめて御簾に近づいた。

「どうぞ」

 苑紫が御簾を上げてくれる。中に入って、言われた通りにすぐに跪いて頭を下げた。

 心臓は痛いくらいに大きくどうを打って、息をするのも苦しかった。

 それでもここでげるわけにはいかない。そんな事をしたら東雲にめいわくがかかるだろう。

「顔を上げて、緋蝶」

 きんちようしつつ、顔を上げた。前方を見て、思わず目を見開く。

 目の前にいたのは、美しい女性だ。やわらかなものごしと、優しげな顔立ち。身のたけより長いつややかなくろかみで、いくにも着重ねたからぎぬに身を包み、ひじけにもたれている。

 年は四十歳をえていると聞いたが、ずっと若々しく見えた。

 この方が雫花帝かと驚くと同時に、彼女のとなりにいる少年にも目を見張った。年のころは十歳くらいだろう。着ているのは上質な絹のかりぎぬだ。愛らしいが生意気な印象もある顔立ちだった。

 てっきり雫花帝一人だと思っていたので、子どもがいた事にびっくりした。

(主上の子どもかしら……?)

「初めまして。わたくしはやまぶきです。あなたの伯母おばよ」

 ふわっと花がほころぶように山吹が笑う。

 見た目はか弱そうな印象を受けた。とても一国を預かるじよていとは思えない。

 見とれてしまいそうなほどれんだったが、ここに来た目的を思い出して、はっとする。

「初めまして、緋蝶と申します。恐れながら、わたしは主上のめいではありません。人違いだと思います。母の名前は撫子なでしこではなくて、もえと言います。着物の仕立てをして、生計を立てていました。母はとても皇族には見えませんでした」

「……撫子はもともと皇族らしくなかった」

 ふいに少年が言葉を発したので、驚いて彼を見つめた。

(なに、この子……。撫子様を知っているような口ぶりよね。でも、撫子様がけ落ちしたのって、二十年も前ではないのかしら)

「着物の仕立てをして生計を立てていたというのも、撫子らしいな。ゆいいつの取りい物としゆうだったからな。おてんばだったが、手先は器用だった」

 少年の言葉に、山吹がそっと微笑ほほえんで頷いた。

「撫子が刺繡と仕立てをした着物で、わたくしはしゆうげんをあげました。あの時の着物はまだとってあります。撫子がもうこの世にいないなんて……。そんな事になるなら、あの時彼とのこんいんを許してもらえるよう手をつくせばよかった。そうしたら死なずにすんだかもしれないのに」

 言葉にこうかいにじんでいた。少年がかたすくめる。

「身分が違う。雫花帝の妹と、下級の武官だぞ。どうしても婚姻したいなら、出ていけと言った言葉に後悔はない。あのまま大内裏で婚姻させても、きっと苦しんだだろう」

 少年の言葉はどうにもおかしかった。いまの言葉をそのまま受け取ると、彼が婚姻に反対して、撫子達を大内裏から追い出したようだ。しかし彼女達がここを出たのは、この少年が産まれるずっと前のはずなのにと、首をかしげた。その様子に気づいたのか、山吹が微笑む。

「どうかしたの?」

「すみません。さきほどからこちらの方が言われている意味がよくわからなくて」

 子どもでも貴族なのは確かだろう。だから言葉には気をつけた。山吹がゆっくりと微笑む。

「緋蝶。この方が見えますか?」

 変な問いだと思ったが、相手は雫花帝なので失礼があったら首が飛ぶとあわてて頭を下げた。

「はい」

「どんな姿をしていますか?」

「十歳くらいの子どもです。髪は短くてくせで、目が大きくてしい感じがします」

「この方が言っている事が聞こえる?」

 目だけをそっと上げる。山吹の表情は、まるでほっとしているように見えた。

「はい、聞こえます」

「そう。見えるし、聞こえるのね。わたくしにはもう、声しか聞こえなくなってしまったわ。この方の姿を最後に見たのは、半年も前なのよ」

 思わず首を傾げた。山吹が何を言っているのかわからなかったからだ。

「申し訳ございません。よく意味が……」

「苑紫、許します。入ってきなさい」

 山吹が声をかけると、御簾がわずかに持ち上がり、苑紫が静かに入ってきた。

「何でございましょう」

「ここにいる人達の名前を言ってみて」

(名前って……いったい、何がしたいんだろう)

 やんごとなき身分の方なので、とりあえずは成り行きを見守った。

「ここにいらっしゃるのは、主上と緋蝶様です」

 苑紫が目でかくにんしたのは、こちらと山吹だけだった。そしてその言葉にもかんを覚える。

「もう一人いらっしゃいますよ」

 おずおずと声を上げ、山吹の隣に座る少年を手で示す。なぜ苑紫は彼を無視するのだろう。

「……そこにいらっしゃるのですか?」

 苑紫が手で示した方をぎようしているが、わずかに視線が少年から外れている。

「もしかして、見えないんですか? 目がお悪いんでしょうか。そこに子どもが……」

 御簾の中はそう広くはない。ろうそくのおかげで明るいし、少年は堂々と座っている。

 いくら目が悪くても、見えないはずがないのにとまどった。

「わたくしも見えないわ。この方が見えているのは、あなただけよ」

 山吹が静かに声を上げた。信じられなくて、少年に目をやる。

「そんなはず……だってそこに……」

「もういい。山吹。男はきらいだ。こいつを下がらせろ」

 少年が年に似合わないような苦い表情で、苑紫を手で追いはらう仕草をした。

「かしこまりました。……苑紫、下がりなさい」

 山吹は女帝だというのに、さきほどからずっと少年に敬意を払っている。

 その様子に、思わず目をまたたかせた。

(いったい、どういう事なの? 苑紫様はどうしてこの子が見えないなんて言うの?)

 知り合ったばかりだが、苑紫はまじめそうでうそをつくようには見えなかった。

 苑紫が出ていったのを確かめて、山吹がこちらに目を向けた。

「この方の姿も見えて声が聞こえるのは、特別な女性だけなの。────女帝か、皇族の血を引き、女帝となり得る資格を持った女性だけなのよ。この方が見えて声も聞こえるというのなら、あなたはちがいなく皇族の血を引いているわ」

「……どうしてもお言葉の意味が理解できません。そもそもこちらの方はどなたですか?」

 少年がふっと微笑んだ。見た目のねんれいには似合わない、大人びた笑みだった。

「僕はりゆうじんだ」

 いつしゆんじようだんだと思った。紗和国を長い日照りから救った竜神は、想像する事すらおそれ多いような尊い姿をしていると思っていた。だから目の前の少年が竜神とは、どうにも信じがたい。

(でもでもでも、苑紫様は彼が見えないみたいだったわ。主上も声は聞こえているけど、姿は見えないっておつしやってたし……。いや、でもそれを信じるとしたら、なぜわたしは見えるの!?)

 混乱している中で、少年が小さく息をついた。

「新しい女帝候補は、鹿なんだな」

「ば、馬鹿って……!」

「じゃあ、いまお前が置かれているじようきようを客観的に説明できるか?」

 ためすような口ぶりだった。必死で頭を整理する。

「……主上や、苑紫様があなたを見えないっていうのは、本当だと思います。二人の視線はあなたからそれているから。あなたが本当に竜神様だとしたら、姿が見えるわたしは……」

 口にしてから、何度も首を横にった。

「でもまさか母さんが皇族だなんて。だってしよみんの暮らしに思いっきりけ込んでたし」

「撫子は事情があって、子どものころだいだいではなく父親の地元で育った。田舎いなかに住んでいた時は父親の意向で、貴族や庶民といった身分の差にこだわらず、のびのび育てられたようだ。おかげで十五歳で大内裏にもどって来た時は、皇族とは思えないほど自立していた。あいつなら、庶民に混じって暮らせるだろうな」

 山吹がしようして、再びこちらに目を向けた。

「緋蝶、わたくしはここ何年かずっと体調が悪くて、最近は雫花帝の務めを果たすのにえいきようが出るようになったの。半年前から竜神様の姿も見えなくなったわ。竜神様が見えなくなった雫花帝は、地位を退かなくてはなりません。ですが、そこで一つ大きな問題があるのです」

「問題……ですか?」

「ええ。……この国で百年ほど前、長い日照りが起こった話は知っていますか?」

「はい。有名な話なので」

 しきでも東雲とその話をした事があった。

「百年ほど前、皇族のひめが日照りに苦しむたみために、竜神様の生けにえになったの。竜神様は女性がお好きだから、姫しか生け贄にはなれなかったのよ」

 さらりと口にした言葉に、少年……竜神がむっとした。

「それでは僕がただの女好きみたいだ」

「本当の事でしょう? 殿とのがたが同じ部屋にいると、いつもいらいらしていらっしゃるし」

 にっこり笑った山吹に、竜神がうでみをした。

「余計な事は言わないで、さっさと話を進めろ」

「はい。……でも姫はむざむざ生け贄になるつもりはなかったの」

 初耳だった。話で聞く姫は、生け贄に名乗りを上げ、国を日照りから救ったゆうかんな女性だ。

「そうなんですか?」

「ええ。もちろん民や国を救いたいとは思っていたそうよ。だけど生け贄として身をささげるより、生きて民や国の為にできる事をしたいと思った彼女は、竜神様と取り引きしたの」

「取り引きって……いったいどんな?」

くわしく教えてもらえないの。竜神様は心がせまい……いえ、ケチ……いえ、性格が悪い……」

「何度言い直しても、悪口にしか聞こえないぞ」

 竜神がふてくされた顔をした。

「あら、失礼しました。……そういうわけで、しようさいはわからないけれど竜神様はその姫と取り引きをしたそうよ。姫の願いをかなえる代わりに、彼女は竜神様の願いを叶えると」

 竜神がゆっくりと立ち上がった。

「僕の願いは秘密だが、あいつの願いは教えてやろう。国が日照りでなやまされずにすむ事だ。そして民が安定した暮らしを送れる事。当時のみかどは病弱なせいで、かん達が権力をにぎっていた。あいつが、貴族のしよくや権力争いに巻き込まれて民が苦しむのを何とかしたいというから、ではお前がじよていになって思った通りのまつりごとを行えと言ったんだ」

 竜神が何かを思い出すように遠い目になって、話を続けた。

「あいつはかしこくて度胸があった。気弱で官吏達の言いなりだった父親よりずっといい帝になると思ったんだ。だから雫花帝という名をあたえて、反対するやつらを僕の力でねじせてやった。あいつは自分が死んでも、血族の女性が僕の願いを叶え続けると約束した。お前達が僕の願いを叶えている間は、僕も国が栄えるよう手を貸してやろう」

 竜神はそう言ったあとに、ふとこちらをじろじろと見つめて、ため息をついた。

「だが、今度の女帝候補はあいつに似ず、馬鹿なようだな。こいつでは、僕の願いは叶えられないぞ。山吹、さっそく女帝教育をしろ。僕の話についてこられるように知識をたたき込め」

 話がどんどん進んでいくのに気づいて、あわててこしを上げた。

「待って待って、待ってください!」

 片手を挙げると、竜神はまゆを寄せた。

「わたしが皇族の血を引いているかもしれないというのは理解しました。でも、女帝候補なんてとっても無理です。わたしは国政の事も大内裏の事も何も知らないんです」

「そんな事はわかっている。だからけん達を集めた後宮を作ってやったんだ」

「花賢師?」

 竜神がそんな事も知らないのかと言いたげな顔をした。

「雫花帝の為に作られた後宮と、らいとうぐうの為に作られた後宮は、同じ後宮でも意味合いが違う。雫花帝の為の後宮は女帝とその夫、そして二人のをする男達が集まるところだ。だが花蕾東宮の為に作られた後宮は、教育を受ける場であるとともに、夫選びをする場でもある」

 聞き慣れない言葉と、見聞きした事もない大内裏の話に、ついていくのがやっとだった。

 竜神はこちらを気にした様子もなく、どんどん話し続けた。

「花蕾東宮を育てるのが、貴族達の中から選ばれた花賢師だ。彼らはそれぞれ得意な分野を持っている。雫花帝となる為の必要な知識を彼らから学べ」

 竜神にそう命じられたが、混乱しつつ首を横に振った。

「花賢師……? その方達から女帝としての教えをさずかるという事ですか? そんな事、わたしには無理です」

 竜神がめんどうくさそうな顔になった。山吹は困ったような表情をして、口を開く。

とつぜんの話だから戸惑う気持ちはわかります。でも雫花帝になれるのはあなたしかいないの。わたくしは竜神様が選んだ男性達がいる後宮の中から夫を選んでけつこんしたけれど、身体からだじようではなくて、子どもは一人しか産めなかった。そしてその子は男の子だったの」

 山吹は微笑ほほえんでいるが、つらそうな目をしていた。

「親類にも女の子どもはいないから、いまのままではあとぐ皇女がいないわ。竜神様は初代の女帝の血を引く女性しか雫花帝として認めてくださらないし。どうしたらいいかほうに暮れていたら、竜神様が撫子の子どもが女の子だと教えてくださったの。居場所と名前もね」

 竜神が腕組みをした。

「もう一度言うが、お前にはこれから雫花帝として必要な教育を花賢師達から受けてもらう。お前が雫花帝としてふさわしいと僕が認めたら、お前は晴れて皇位を継ぐ」

「皇位を継ぐとか、女帝としての教えを授かるとか。何度も言いますが、そういう事はわたしには無理です。読み書きもやっとなんです。このまま帰らせてください」

 頭をたたみに押しつけるようにして下げた。

「帰ってもいいぞ」

 思わぬ言葉に、うれしくなって顔を上げた。だが竜神がいやな笑みをかべているのに気づく。

「ただし、その場合お前の命はない」

「そんなちやちやな!」

「僕は神だ。僕の姿を見て声を聞くというえいたまわるのは、雫花帝と女帝候補だけ。お前が候補から外れるなら、庶民が神の姿を見るという無礼を働いた事になる。命をとられるのは当然だ」

 あまりに堂々と言われたので、一瞬そうかとなつとくしそうになったが、慌てて首を横に振る。

「当然じゃないと思います。わたしは見たくて竜神様の姿を見ているわけではないので」

「いいや。僕は神だから、このくつであっている。そうだな、山吹」

「さようでございます。竜神様」

 にっこり笑った山吹を見て、思わず青ざめた。

「じゃあ、わたしは帰れないって事ですか?」

「だから帰りたければ帰れ。ただ、神の姿を見たという無礼を働いた罪で死ぬだけだ。打ち首がいいか? しばり首がいいか? 死に方くらいは選ばせてやろう。僕はやさしいからな」

 あまりの事にぼうぜんとした。そしていままでの事を思い返して、ある事に気づく。

「……つまり、わたしはだいだいに来て、りゆうじん様の姿を見たしゆんかんから、雫花帝を目指して教えを授かるか、死ぬかしか道はなかったのですね」

「まあ、そうともいう。あきらめて女帝教育を受けろ。死にたくはないだろう」

 げ道はないようだ。いままでの話を頭で整理して、そして息を吸い込んだ。

「────嫌です」

 そのひと言に、竜神の目つきがするどくなった。

「なんだと?」

 神を相手に口にしてはいけない事だったかもしれない。それでも言わずにいられなかった。

「わたしには雫花帝なんて務まりません。いまからどんなに勉強したって、国を立派に治めたりできないと思います。そうなったら苦しむのは、この国に住む人達ではありませんか?」

 つたなくても自分の思いを伝えたくて、必死になった。

「わたしのせいでだれかが苦しむのは嫌です。皇族に女性がいないというなら、男性が皇位についたっていいじゃありませんか。竜神様がそれを認めればよいのではありませんか」

 まっすぐに見つめると、竜神は楽しそうな表情になった。

「なるほど。僕に意見する気か? いい度胸だ」

「逆らうつもりはありません。ただ、そんな大役を背負えるだけの能力が、わたしにあるとは思えないだけです」

 竜神がくっと口元をつり上げた。

『あの姫の血筋の女は、みんな度胸がいい……』

 ふいに聞こえたのは、子どものものとは思えない低い声だった。まるで頭に直接ひびいているかのような声におどろいていると、少年の目の色が黒からうすい青に変わった。そのまま、少年の姿がゆらりとゆがむ。そしてあっという間に、の中いっぱいに大きな竜が現れた。

たみめいわくがかかるというなら、死ぬ気で教育を受けて、迷惑をかけずにすむほど雫花帝にふさわしくなればいい事だろう。……そうだな、それでも嫌だと言うなら、一つお前のやる気を引き出してやろう。────よく聞け。お前の兄は生きている』

 突然の言葉に目を見開いた。竜の姿におののきつつも、声を上げる。

「本当ですか? もしかして、居場所がわかるんですか?」

『ああ、わかる』

「では教えてください!」

『ただでは教えられぬ。……そうだな。竜神のせんたくを聞けるのは雫花帝だけだ。だからお前が雫花帝になれたら、宣託として聞かせてやる』

「そんな……!」

『一月後に花蕾東宮の位を授けるしきを行う。それまでに最低限の知識を身につけろ。できなければ女帝候補から外れてもらう。そうなったら命はないし、兄の居場所もわからないぞ』

 たとえ命はないと言われても、断るつもりだった。雫花帝になって、国を治めるなんてとうてい無理な話だ。しかし竜神の言葉に、決心がぐらつく。

(竜神様はわたしの居場所と名前を知っていた。その力があれば兄さんがどこにいるのか本当にわかるのではないかしら。兄さんがいなくなって二年。探しているけど、かげさえ見つからない。これからもおしきで働きながら探したって、わたし一人では限界がある……)

 竜神に目を向けた。部屋いっぱいにとぐろを巻いた竜は、実体はないようでけて見える。

(兄さんが帰って来ないのは、きっとあの時おそってきた男につかまっているからだわ。自由に行動できるなら会いに来るはずだもの。兄さんを助けるためには人ならぬ力が必要なのかも……)

 考えていると、再び竜神の声が聞こえた。

『緋蝶よ。お前が花蕾東宮としての知識を習得したら〝雫花帝にとってもっとも必要な事は何か?〟を聞くぞ。私が納得する答えを考えておけ』

 その言葉を残して、とうとつに竜神の姿が消えた。

「……竜神様は帰られたようね」

 山吹の声にはっとして彼女を見つめた。

「緋蝶、最近雨が降らなくなった事に気づいている?」

 ふいに問いかけられて、驚きつつもうなずいた。

「はい。働いていた屋敷に野菜を売りに来ていた農家の方が、雨が降らないせいで農作物のしゆうかくがいつもの半分だと話していました」

 山吹が辛そうに目をせた。

「もう民にもえいきようが出ているのね……。実はあなたの存在は二月ほど前に竜神様からうかがっていたの。でも撫子は好きな人と自由にこんいんしたくてけ落ちした。そのむすめを大内裏に連れて来る事にていこうがあったわ。だからどうするか考えさせてもらっていたの」

 山吹は一つ息をついて、話を続けた。

「でも竜神様はあなたを連れて来ないからおいかりになって。緋蝶を連れて来るまでは雨は降らせないとおつしやったの。それが一月と十日前。それから雨が降らなくなってしまったわ」

 竜神の姿を思い出す。神の意志一つで、これだけのがいが出てしまうのかとふるえが走った。

「緋蝶、じよていが国を統治する前は、数十年に一度の日照りで、何百人もの民達が命を落としていたの。これ以上雨が降らないと、また同じように民の命が危険にさらされるわ」

 山吹の表情が、ふいにぜんとしてしいものになった。

「突然の事で混乱していると思うわ。だけど、これだけは伝えておくわね。新たな雫花帝をようりつできなければ、竜神様はこの国を去ると仰ってるの。竜神様は守護神としてこの国にうるおいをあたえてくださった。もし守護神がいなくなれば、遠からずこの国はほろんでしまうでしょう」

 信じられないような話だったが、山吹は本気のようだ。

「竜神様は緋蝶を連れて来たほうとして、明日あしたから二日間は雨を降らせてくださるそうよ。でもそのあとは、緋蝶が花蕾東宮と認められるまで雨は降らせないと仰っているの。……だからお願いです。まずは花蕾東宮になって雨を降らせて、民を救ってください」

 姿勢を正した山吹が頭を下げた。

「主上! 頭を上げてください。おそれ多いです」

「いいえ。……わたくしはもともと身体が弱くて、いまはもう雫花帝としての務めを果たせなくなってしまったの。子どもも男の子一人しか産めなかった。私がもっとじようで、たくさん子どもを産めていたら、あなたに重い責任を負わせなくてすんだの。────ごめんなさい」

 再び頭を下げた山吹に何と言葉をかけていいかわからない。一月と十日、雨が降らなかったせいで、農作物の収穫が半分になった。これがずっと続けば確かに国の存亡にかかわるだろう。

「……すみません。いつたん落ちついて考えさせてください」

 断るつもりだった。女帝なんて重責をになえる自信はない。

 しかし山吹の姿を見て、この国の未来のじようきようを想像したら、それを口にできなくなった。

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