夜が明けた早朝、屋敷に迎えに来たのは、苑紫が引き連れた従者数人と、立派な輿だった。
緋蝶は東雲が用意してくれた小袖をまとい、生まれて初めて輿に乗った。
従者数人が輿を担ぎ、馬に乗った苑紫と東雲が両隣を守るように進んだ。
御簾越しに外を覗いていると、見慣れた町並みがゆっくりすぎていく。緊張しながらどれぐらい輿に揺られただろう。昼近くになった頃、輿の揺れがようやく止まった。慌てて外を見ると、前方に巨大な門がそびえている。立派な鎧を着た武官が門を守るように数人立っていた。
(ここが大内裏なの……?)
都には住んでいるが、外れの方なので大内裏を見た事すらなかった。東雲の屋敷を初めて見た時は、その大きさに開いた口が塞がらなかった。だがいま目の前にある門と高い塀は、それより何十倍も大きい。この中に入るのかと思うと、恐れ多くて震えが走った。
(落ちついて。人違いですって言いに来ただけだもの。大内裏なんてこれから一生入る事はできないだろうから楽しむぐらいの余裕を…………いや、やっぱり無理!)
あたふたしていたが、そんな事はお構いなしに輿は再び動き出して、門をくぐった。
門の中は、外の町並みとはまるで世界が違うような光景が広がっている。玉砂利が敷かれた庭は、塵一つないように美しかった。その奥にそびえる建物は、黒い屋根と朱色と黄金の柱がまばゆいほどの光を放っている。庭を歩く人々はみな貴族らしく、立派な身なりをしていた。
建物はいくつかあるようだが、輿は中央にある一番大きな建物に向かって進んでいく。
輿が揺れるたびに、身体が緊張で強ばっていくのが自分でもわかった。
(場違いだって雰囲気をひしひし感じるわ。どうしよう、帰りたい。でも人違いだって説明してわかってもらわないと……。うん、大丈夫よ。東雲様が一緒だもの)
輿の右隣にいる、馬に乗った東雲を見つめた。背筋を伸ばし馬に揺られている彼は、凜々しかった。彼の姿を見ると、少しだけ緊張が和らぐ。
しばらく進んでようやく輿が止まった。
(うっ、いよいよね。雫花帝に会うなんて考えた事もなかったわ。昨日までは屋敷で食事の支度と洗濯と掃除に明け暮れていたのに、何でこんな事になったんだろう)
何とか落ちつこうと胸に手を当てると、輿が地面に下ろされて前方の御簾が上がった。
「到着しました」
跪いて声をかけたのは苑紫だ。礼を尽くしてくれる彼に何だか申し訳ない気持ちになる。
(大事な客をお招きしているような態度だけど、人違いだってわかったら気まずいだろうな)
戸惑っていると、苑紫が手を差し出した。
「どうぞ」
「い、いえ! 自分で出られますから!」
強く断りすぎただろうかと一瞬思う。親切で言ってくれたのにと、更に申し訳ない気持ちになった。苑紫は気にした風もなく、さっと立ち上がる。
輿から出て、白い玉砂利が敷き詰められた地面に降り立った。
「ようこそ、紗和国、大内裏へ」
どうやら中庭に降ろされたようで、目の前にはひのきの香りが漂う建物がある。
朱色と黄金の柱が美しい建物は、庭に面した廊下もぴかぴかに磨かれていた。
苑紫が先に立って歩き始めたので、大人しくそれに続きながら、横を歩く東雲に目をやる。
「東雲様……。すごく場違いな感じがします。できたら帰りたいんですが」
正直な気持ちだった。もちろんできない事はわかっていたが、言わずにいられなかった。
「ここまで来たら、もう主上に会わずには帰れません。大丈夫です。私も同席させてもらえるよう苑紫に頼んでありますから」
東雲は優しく微笑んで、ぽんっと背中を叩いてくれた。まったく見知らぬ場所で、知らない人達に囲まれて不安だったが、東雲の手は勇気を与えてくれた。
建物に入って、廊下を奥に進む。通されたのは、小さな畳の間だ。苑紫が向き直った。
「準備ができるまで、こちらでお待ちください。東雲。一緒にここで待っていてくれ」
東雲が頷くと、苑紫が従者を連れて部屋を出た。
「……東雲様。主上ってどんな方でしょう」
ようやく二人だけになったのでこっそり聞くと、東雲がやや首を傾げた。
「実は私も会った事はないんです。数年前に夫君を亡くされて以来、ほとんど人前に姿を見せられなくなってしまって。最近はご体調が思わしくないという話も聞いた事があります」
「人前に姿を見せなくても、雫花帝としてのお務めは果たせるのですか?」
素朴な疑問だった。いままで大内裏とか女帝とか、自分とはまったく違う世界すぎて、あまり気にした事はなかった。毎日食べて生きていく、それが精いっぱいだったのだ。
「雫花帝には、竜神様が選んだ優秀な男子が集められた後宮がありますから。前にも夫君に選ばれなかった男子達が、それぞれ官吏や武官として政を行う手助けをすると話したでしょう。雫花帝の主な仕事は、彼らが進言する内容を吟味し、竜神様のご宣託を聞く事だそうです」
(そういえば、前に不知火さん達がこそこそ話しているのを聞いた事があるわ。いまの雫花帝は政には積極的じゃないって。竜神様のご宣託を聞くだけのお飾りの女帝だって)
不知火は、男の子しか産まなかった雫花帝にがっかりしていると続けた。
いくらひそひそ話でもあまりに不敬だったので、よく覚えている。不知火達の話を思い出していると、東雲がこちらを見つめているのに気づいた。首を傾げると東雲が口を開く。
「苑紫達が屋敷に来たのは、竜神様が緋蝶は皇女だと主上に宣託を下されたからです。その宣託が間違っているとは思えません。まずは主上と話をして、事情を詳しく尋ねてください」
心配そうな東雲に頷くと、戸が開く音がした。顔を向けると、苑紫が廊下に座っている。
「おまたせしました。こちらにどうぞ」
いよいよ女帝と対面だと、緋蝶は自分に気合いを入れた。