グリフォンとナックラヴィー

その3


                  ***


「あの日、親父とお袋、俺と妹は、夜遅く、小さな湖と海の間の道を歩いていた。隣街の親戚の結婚式に行った帰りだったんだ。今でも忘れもしない。お袋と妹は珍しく着飾っていて、とても綺麗だったよ………その時、アイツが現れたんだ」


 ソレはおぞましい怪物だった。


 その体は大きな馬のようで、脚には幅広いヒレらしきものがついていた。鯨のように裂けた口からは、勢いよく醸造鍋の蒸気のような息が吹き出していた。一つしかない目は火のように紅く―――最も異様なことに―――背中からは男の上半身が生えていた。


 男の腕は地面に届くほど長かった。頭部は巨大な玉のようで、今にも転がり落ちそうに肩の上を左右に動いていた。


 そして、怪物には皮膚がなかった。


 露出した赤黒い生肉の上を、真っ黒なタールのような血が流れているのが見えた。

 ライオスの父親、レンヴァートは貴族の森に招かれ、狩猟を行うほどの高名な狩人だった。今まで数多の獣を屠ってきた彼は、その一瞬で悟ったという。


 逃げても無駄だ。自分達は食い殺される、と。


 それでも、彼は家族を生き残らせるために足掻くことを決めた。彼らは少しずつ進む速度を緩め、父親の合図で振り向き、駆け出した。


 背後から、荒れ狂う海の音のような吼え声が追いかけてきた。


 ライオスは髪の毛が逆立ち、身の毛がよだつほどの恐怖を味わった。早鐘を打つ心臓と死の恐怖に震える体が、本能で告げてきた。怪物はもう間近にいる。今にもお前に手を伸ばすぞ、と。その時、妹が足を滑らせ、湖に落ちた。もう終わりだとライオスは思った。だが、跳ねた水が脚にかかった瞬間、怪物は後ずさりした。


 慌てて妹を抱え上げながら、父親は気がついた。怪物は淡水が苦手なのだ。彼らは湖に足を進めた。だが、湖は小さく、怪物の手からは逃れられそうにない。


 彼らは水を跳ねあげ、走り続けた。家族の行く先には小川があった。そこには淡水が流れている。それを超えれば、怪物は追っては来られなくなるのではないか。

彼らはその予測に賭けた。


 走って、走って、走った時――――ライオスはある予感に駆られ、横を見た。


 その瞬間、時間が凍りついたように感じられた。


 妹の髪に―――彼がよく梳いてやった自慢の黒髪に―――怪物の指が絡んでいたのだ。


 彼女は恐ろしい力で後ろに引かれた。咄嗟に、妹に抱き着いた母親の姿も視界から消えた。背後から、悲痛な叫びが聞こえてきた。



 痛い痛い助けて助けてと繰り返す声。

 肌と肉がぐちゃぐちゃにされる音。


 父親は後ろに戻りかけたが、首を横に振り、暴れるライオスを抱き上げた。彼は恐ろしい顔をして川を渡った。ライオスが振り向くと、そこに怪物はいなかった。


 ただ、見覚えのある腕と足が一本ずつ落ちていた。

 以来、黒かったライオスの髪は鼠色になった。


「幻獣書、第三巻八ページ―――『ナックラヴィー』、『第一種危険幻獣』。『馬のような体と人に似た上半身をもつ幻獣。その体には皮膚がなく、形以外の外観は馬とも人とも異なっている。作物をしおれさせ、人間を食らう。だが、海妖なため流れる淡水を渡ることができない』まさかナックラヴィーに遭遇するとは………お気の毒でした」


「気の毒? 気の毒で済むと本当に思うのか? 以来、親父は普通の獣を狩ることを止めて、幻獣殺しに走ったよ。俺も諸手をあげて賛同したさ………世の中には、幻獣調査官の対処が間に合わない獣害があまりに多い。需要は十分にあった。でもな、同時に、殺しても金にならない幻獣が罠にかかることも多くなったんだ。それで、俺達はこの場を作った。親父が狩りに出て、俺が場を運営する。そういう取り決めだった」


「幻獣殺しを見世物にする場を、ですか?」


「その通り。アンタは悪趣味な遊びだと思ってるだろうさ。実際、俺もそう思う。だがな、ここに集まる人間の多くは獣害の被害者だ。どうしても晴らすことができない、憎しみや苦しみを抱えた人間が、それを薄めるためにやってくる。幻獣殺しの志願者もそうだ。俺はそれを悪いとは思わない。邪魔はさせない」


「私も今まで何度も、獣害の被害に遭われた方々とお会いしています。あなた達の怒り、悲しみ、憎しみはよくわかります。決して、それを軽視しているわけではないことを、どうかご理解ください。そのうえで、再びお尋ねしたいと思います」


 すうっと、フェリは息を吸い込んだ。彼女はナナカマドの杖を持ち上げる。丸い杖先で、フェリはグリフォンを指した。怯え、暴れる幻獣を示し、彼女は尋ねる。


「『この子』が、『あなた』に何かをしたのですか?」


「………………はっ?」


「あなたの怒りを、憎しみを、苦しみを、何もしてないこの子に負わせることが本当に正しいのですか?」


 フェリの声には純然たる疑問と、真っ直ぐな怒りが覗いていた。蜂蜜色の瞳に見つめられ、ライオスは一瞬息を呑む。だが、彼は首を横に振って続けた。


「確かに、そいつは人を食ったわけじゃないし、グリフォン自体は危険幻獣でもないさ。だが、その考えが甘いんだ。俺は親父の仕事に付き従って、グリフォンが黄金を守る範囲に入ってしまったせいで、皆殺しにされた人達も見たことがある。幻獣なんて庇うもんじゃない」


「グリフォンが黄金を守っている地域は、近隣住人にも立ち入り禁止とされているはずです。その方達は、何故、範囲に侵入を?」


「………鹿を追って、うっかりな。無残なもんだったよ」


「残念な話ですが侵入不可範囲に入ったのでしたら、その安全は保障できません」


「あまりにも代償が重すぎる! アンタは幻獣の側に立つっていうのか?」


「場合によります。幻獣と人の共存のためには、線引きが必要なのです。私は両者の傍に立つ者です。どちらの側にもつきはしません」


 フェリは揺らがない瞳にライオスを映した。彼女は静かに口を開く。



「私は、幻獣調査員ですから」



 花嫁のようなヴェールが微かに揺れる。だが、彼女の断言をライオスは鼻で笑った。


「何が幻獣調査員だ………アンタ達の対処が間に合っていないから、こういう商売が成立するんだ。それなのに、偉そうにすんじゃねぇよ」


「………えぇ、わかっています。だからこそ、私は幻獣書を作っているのです。もう誰も泣かなくていいように。彼らの生息範囲と性質を明らかにして、人と幻獣がお互いのことを知り、傷つけあうことなく、生きていけるように」


「馬鹿げたことを言うな。憎いものを理解しろと?」


「理解もせずに、全てを憎いと断じるのですか?」


 苛立ちの滲む声に、フェリはそう返した。だが、ライオスの目の中で燃える憎悪は変わらない。彼は唾を吐き捨てて続けた。


「人と幻獣との共存は不可能だ。奴らは危険すぎる。見ているがいい。いつか人間は奴らを滅ぼすさ」


「そうですね。いつか、人は自然を削り、幻獣を幻の存在へと追いやっていくのかもしれません。ですが、結果が出るまでは共に生きていかなければならないのです。それに幻獣が危険だからといって、これに何の意味があるのですか」


「…………意味?」


「今、どれだけ幻獣狩りを行おうと、彼らを殺しつくすことは理論上不可能です。そして、この場はあなたの言葉通り、単なる憂さ晴らしのための空間にすぎない。罪のない幻獣を殺して苦痛が癒える? それは個人への怨みを、人間という種全体にぶつけるようなものです。どう言葉を重ねても――――それは娯楽にすぎない」


 フェリは―――ライオスの憎悪に劣らず―――強い信念を籠めた声で続けた。


「――――故に、私は止めます」


「いいからやっちまえ、エド! 構うな!」


 瞬間、沈黙を解き、ライオスが叫んだ。彼の視線はグリフォンの檻に向けられている。


 フェリはそちらを振り向いた。そこでは、一人の少年が鍵を手に微かに震えている。


「でも、でも、おいら」


「早くしろ!」


 少年は唇を噛み、グリフォンに近寄ると素早くその足輪を外した。何もされていないというのに、少年は小さく悲鳴をあげ、転がるように逃げていく。


 グリフォンは大きく羽ばたいた。二、三度低く飛び上がり、彼は自分が解放されたことを悟ったらしい。高い鳴き声をあげながら、強烈な風を起こし、グリフォンは飛び立った。彼は目に明確な殺意を浮かべる。


 宙に固定されたまま、ライオスは哄笑した。


「さぁ、もう御託はうんざりだ! なら、身を呈して止めてみせろよ、幻獣調査員殿! アンタは強い幻獣に頼って、自分は安全なところにいるからそんなことが言えるんだ! 高みから、好きなだけのうのうと正論を吐くのは気分がいいよなぁ!」


「やれやれ、毒虫はこれだからな」


 溜息を吐き、クーシュナは指を鳴らそうとした。だが、フェリは素早く腕をあげ、それを制した。前を見つめたまま、彼女は短く囁く。


「クーシュナ」


「構うことはない、我が花よ。戯言だ。奴が怒りに取り憑かれたままでも、お前に一体何の関わりがある」


「クーシュナ」


「………わかった。他でもない我のお前の願いだ。我は我のお前に弱い。今回きりだぞ」

 クーシュナは首を横に振り、手を下ろした。


 高みに舞い上がり、グリフォンは一気に下降した。彼は固定されたままのライオスに迫る。だが、グリフォンが辿り着く前に、その手足を戒める闇が溶けた。ライオスは解放される。

 それでも、彼は逃げようとはしなかった。


 不敵な笑みを浮かべ、ライオスは革靴から新たな短剣を引き抜いた。


「来いよ。俺は自力で抗ってやる!」


「駄目!」


 鋭い制止の言葉と共に、フェリが―――ヴェールを外して床に置き、素早くトローの安全を確保すると―――その腰にぶつかった。彼女とライオスは地面の上を転がる。


 危うくグリフォンの爪を逃れた後、フェリは彼より先に身を起こし、駆け出した。

 そのまま、彼女は逃げるだろうと、ライオスは予測した。


 両腕を広げ、フェリはグリフォンを頭から抱き留めた。


「――――はぁっ?」


「大丈夫………怖かったわね………落ち着いて、いい子、いい子」


 優しく囁き、フェリはグリフォンの首筋をくすぐるように撫でた。


 グリフォンは激しく頭を振る。彼は力強く翼を羽ばたかせ、フェリごと宙に舞い上がった。鋭い嘴が動く度、彼女の脇腹を抉る。だが、白い服に血が滲んでも、フェリは腕を離さなかった。


 そのまま、器用にグリフォンの首筋から翼の間に移動し、彼女は危うく背中にしがみついた。フェリは彼に囁き続けながら、落ちかねない危うい姿勢で、その頭を撫でる。


「落ち着いて。大丈夫よ。もうここに、あなたを傷つける人はいないから。暴れなくてもいいわ。そう、敵はいないの………いい子ね」


「なん………何やってんだ、アイツ」


「あれが、我が花だ。我が永遠の花だ………わからぬか、毒虫よ」


 呆気に取られるライオスの隣に、クーシュナが立った。彼は兎の目に心配と、手を出せない歯痒さを覗かせながら、フェリを見つめる。


 次に、ライオスに視線を移し、彼は物語を綴るように低く囁いた。


「我がいない時も、アレは一人で何百という幻獣達と関わってきたのだ。たった、一人で。ただの少女の身で、だ。我と巡り合う前だが、アレは幻獣に殺されたことすらもう何度もあるそうだ。無残に、凄惨に………幻獣や人のせいで死んでも、アレは一度も何かを憎んだことはなかった。絶望も、失望もしなかった」


「何言ってんだ………別に、あの子は死んじゃいないじゃないか?」


「………そうだな。お前には想像すら及ばぬことであったな。毒虫よ。だが、あの様子を見ればわかるであろう? アレは人と幻獣の共存を………そのための情報を集めることを、伊達や酔狂で言っているわけではないのだ。その知識が、お前達のような危険な幻獣の被害に遭う者が出るのを減らすことになると、本気で信じている」


「……………馬鹿げた夢物語だ」


「その通りでもある。だが、そのためにアレは命を賭け続けているのだ。お前の父親も、だからこそ納得したのだよ」


 ライオスは微かに眉を顰めた。その間にも、グリフォンは落ち着き始める。フェリの言葉を聞き入れて、彼は誰も傷つけることなく床に降り立った。


 その背中を何度も撫で、フェリもグリフォンの隣に並んだ。彼女はライオスに向き直る。白い服は羽根塗れになり、脇腹部分がひどく破けていた。決して少なくない量の血まで滲んでいる。見るも無残な有様で、それでも彼女は変わることなく微笑んだ。


「やっと落ち着いてくれました………これでもう大丈夫ですよ。本来優しい子ですから」


 ライオスは心底呆れ返った顔をした。やがて、彼はぽつりと呟いた。


「………親父は、なんで死んだんだ」


「あなたのお父様は、ナックラヴィーと遭遇したんです。ナックラヴィーには剣も銃も効かない。それなのに、彼は逃げることなく、大怪我を負いました」


「なんで、アンタに招待状を渡したんだ………アンタが来なけりゃ、俺達は」


「それは、ですね」


 フェリは辺りを見回した。観客達は未だ闇に固められている。

 彼らとライオスを、フェリは幻獣調査官に引き渡すつもりでいた。その決まりを曲げるつもりは、彼女にはない。だが、数秒悩んだ後、フェリは小首を傾げ、彼に尋ねた。


「一緒に、来ますか?」


 ヴェールに絡まり、じたばたしていたトローは、フェリの傷に怒り狂った。憤慨し、暴れる彼を何とか宥め、フェリは近隣の幻獣調査官に連絡を飛ばしてもらった。

そして闇はそのままに、彼女はライオスとグリフォンを連れ、廃墟を抜け出した。


 朝が来ていた。鮮やかな日差しが、地上へ降り注いでいる。

 空を飛ぶには絶好の天気だった。



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