その2
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「幻獣書、第一巻四百二ページ―――『
檻の中の幻獣の姿を食い入るように見つめ、フェリはそう呟いた。
鉄格子の一部が開かれる。中から、足輪をつけられたグリフォンが出て来た。薬でも打たれているのか、彼は妙にふらふらしている。
その前に、武装した男が進み出た。筋骨隆々とした男は、見せびらかすように無骨な剣を掲げる。まるで幻獣退治に挑む、勇者のような振る舞いだ。
場を盛り上げようとでもいうのか、青年が声を張り上げた。
「さぁさぁ、今宵の挑戦者は、無事幻獣を打ち倒し、勇者になれるのか!」
「『勇者』の定義を完全に間違えていますね。旧き竜が目覚めた際には間に合いませんでしたが、本来『勇者』とは人類が外敵の侵略による著しい危機を迎えた際、それに備えたかのように事前発生する、特異な力を持つ個体のことです………『なれる』ものではありません。もしも人が簡単になれるものなら、私の苦労も大いに減っています」
ぶつぶつと呟き、フェリは更に目を細めた。
男はグリフォンに近づくと、勢いよく剣を振り上げた。
グリフォンは甲高い威嚇の声を発し、飛んで逃げようとした。だが、その足輪がガチリッと無慈悲な音を立てた。鎖に引っ張られ、彼は地面に墜落する。
何度も羽ばたきながら、グリフォンは切なげな声をあげた。
処刑人のように、男は剣を振りながらグリフォンに近づいた。盛り上げろとでも言われているのか、彼はトドメを刺すつもりはなさそうな動きで、二枚の翼へ切りつけた。
血飛沫があがり、幻獣の無残な悲鳴が響き渡る。
―――はずだった。
振り下ろされた刃を、黒い影が受け止めた。愕然として、男は必死に腕を振り回す。だが、剣に絡みついた黒色はびくともしない。更に、闇はぶわりと膨張した。
マントが振られたかのように、闘技場にいる全員の視界が黒色に覆われた。それが晴れた後、剣を握る男の隣には手品のように白い姿が立っていた。
観客は動揺の声をあげる。
クーシュナに一瞬で運ばれたフェリは目を開いた。
瞼の下から、印象的な蜂蜜色の瞳が瞬く。
観客達が思わず息を呑む前で、フェリはガサゴソと鞄の中を漁り始めた。微妙な間が開く。観客達が戸惑う中、フェリは空気も読まずにある物を探し当てた。
トローに一度羽ばたいてもらってから、彼女はそれをかぽんっと頭に被せた。
幻獣調査員の証である、花嫁のようなヴェールが揺れる。
更に、彼女は胸元から銀の膏薬入れを取り出した。
「幻獣調査員、フェリ・エッヘナと申します。幻獣に対する虐待、殺害未遂行為を確認しました。全員、その場を動かないでくださいっ!」
凛とした声が場を揺らした。一拍置いて、悲鳴が響く。
慌てて、観客達は逃げ出そうとした。だが、彼らは立ち上がることすらできなかった。いつの間にか、その足に―――グリフォンの足輪と同様に―――ガッチリと黒い影が絡みついていたのだ。それでも身分の高そうな男は何とかして逃げようと試みた。
彼は靴を脱ぎ捨てて走り出す。だが、闇にひょいっと足首を掴まれ、無様に転倒した。
その騒ぎの中、唯一、自在に動く者がいた。
ギィンッと、高い刃鳴りの音が響いた。
フェリの首を断とうとした刃を、クーシュナの影が受け止めたのだ。
相手は先程前口上を述べた、灰色狼を思わせる髪の青年だった。彼は闇に完全に固められる前に足を引き抜き、更に剣を構えたまま固まっている男の背を踏んで跳んだのだ。
「―――――チッ!」
追撃を食らう前に、青年は影に巻きつかれている剣の柄を蹴り、後方へ宙返りした。まだ黒色の広がっていない地面の上に、彼は猫のごとく着地する。
それを見て、フェリの隣に渦巻いた闇が、細い紳士の形を取った。
「ほうっ、咄嗟にそれだけの反応ができるとは。人間風情が、なかなかやるではないか」
黒い兎耳を揺らし、クーシュナは囁いた。この場にいる者達に恐れられたとて知ったことではないと、今の彼は人の姿を装ってはいない。
兎頭を持つ生き物の登場に、新たな動揺の声があがった。青年は唾を吐き捨てる。
「ハッ、人間には見えねぇ面だな。調査員が幻獣連れかよ。にしては、見たことのないやつだ!」
「ふふん、我は我が花の騎士にして紳士。比類なき存在故な。そんじょそこらに同種はおらぬわ。というか、それこそ我のような『王様』が他にほいほいいてたまるものか」
からかうように応え、クーシュナは鼻を鳴らした。
青年はフェリに向き直ると、腰から短剣を引き抜いた。彼は不機嫌に叫ぶ。
「なんだって、幻獣調査員のクソ野郎がここに侵入してるんだよ! リザ、お前、一体何を確認したんだ!」
「わ、私は悪くないよ! 確かに、その子は入場券を………しかも、レンヴァートさんしか配れないやつを持ってたんだ!」
「親父のを?」
入場券を確認した娘―――今は観客席で酒を売り歩いていた途中で固められている―――の言葉に、青年は眉を顰めた。バッと、改めて彼はフェリに顔を向ける。
その視線を受け止め、彼女は実に悲し気に顔を歪めた。
「あなたが、レンヴァートさんの息子さん………ライオスさんですね。お話は伺っています。私の招待状と入場券は、この場の噂を聞き、真実かどうか確かめるため、彼に長く同行し―――その末に、直に渡して頂いたものです」
「ふっざけるなよ、親父が幻獣調査員に渡すもんか、嘘を吐くな! 親父はどうした!」
「落ち着いて聞いてください――――あなたのお父様は亡くなりました」
瞬間、躊躇うことなく、ライオスと呼ばれた青年は短剣を投擲した。それは槍のごとく、真っ直ぐにフェリの喉へと奔る。だが、柔らかい肉に突き刺さる寸前、音を立てて、刃は闇にへし折られた。宙を回転しながら、その鋭い切っ先はグリフォンに向かう。
黒色はそれも無事に受け止め、飲み込んだ。
兎の耳をひくりと揺らし、クーシュナは地を這うような低い声をあげた。
「貴様、我が貴様を拘束しないでやっているのは、慈悲だということがわからぬのか。よくやると言っても、所詮は人間よ。毒虫風情が闇に敵うと本気で思っておるのか?」
言葉と共に闇を操ると、クーシュナはライオスの腕を絡め取った。
ライオスはぎょっと目を見開いた。観客達を全員拘束したうえで、クーシュナにそこまでの余力があるとは予想しなかったらしい。
クーシュナは容易く彼の体を持ち上げた。ギチリッと骨の軋む音が響く。
苦痛に、ライオスは低く呻いた。フェリは慌てて制止の声をあげる。
「クーシュナ、クーシュナ、乱暴をしては駄目よ!」
「無茶を言うでない、我が花よ。我にとって、我のお前を傷つけようとする者は、皆、等しく毒虫だというのに………な、なんだ、その目は………わかった。わかった。善処しよう。我は我のお前にだけは弱いのだ、全く」
フェリの蜂蜜色の目にじっと見つめられ、クーシュナは溜息を吐くと、指を鳴らした。ライオスの全身を縛る闇が、僅かに緩む。彼の前に立ち、フェリは静かに告げた。
「あなたのお父様は亡くなりました。ですが、私が殺したわけではありません」
「………信用できねぇな。それならなんだ、死体でも漁ったってたのか? あの人は俺と同様に幻獣を憎んでいた。幻獣の肩を持つ、調査員に協力なんかするもんか!」
「………幻獣を憎んでいる。あなたも、レンヴァートさんも同じ………だから、こんなことをしたのですね?」
フェリは囚われているグリフォンに悲し気な眼差しを注いだ。彼は未だ怯えた声をあげ続けている。ぎゅっとナナカマドの杖を握り締め、彼女はライオスに尋ねた。
「この子が、一体、あなたに何をしたというんですか?」
「はっ、お望みなら教えてやるよ」
俺達が幻獣に何をされたのか。
ライオスは暗い瞳で言う。フェリはぴんっと背筋を正した。
「――――お聞きしましょう」
その素直な反応も、また予想していなかったのだろう。ライオスは、一瞬、虚を突かれた顔をした。だが、再び憎悪を目に宿し、彼は口を開いた。
闇を抜け出そうと、騒ぎ始めている客達を無視して、ライオスは記憶を綴り始めた。