その7
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翌朝、爽やかな空気の中、樫材の机の上にトローは腹ばいになっていた。彼はぴっ、ぴーっと普通の
「別の調査員から
フェリはそう深々と頭を下げた。その前では、集まった村人達が魂が抜けたかのように呆けている。彼らはもう何の補償も得られないのだ。中の数人は、お前が故意に逃がしたのではないかと疑うようにフェリを睨んでいた。
だが、不意にトマスが呟いた。
「…………あぁ、でも、これでよかったのかもしれないな」
帽子を胸に押し当て、彼は噛み締めるように言った。その背中をイヴェールがどつく。だが、多くの村人の顔には安堵にも似た色が広がっていた。何か憑き物の落ちたような、悪夢の去ったような顔で、彼らは辺りを見回す。
やがて、村長は席を立つと口を開いた。
「調査員、フェリ・エッヘナ殿、あなたのご協力に感謝します。お勤め、ご苦労様でした………さっ、お前達、何をしている。もう
それに頷き、人々は動き始めた。フェリはトローがヴェールに張りつくのを待ち、再び頭を下げ、場を後にした。彼女は後ろ手に軋む扉を閉じ、丘を降りる。麦畑で働く女達を見ながら、彼女は再び森へ向かった。
木々の間に入りこもうとした時、後ろから高い声が彼女を呼び止めた。フェリが振り向くと、子供達が駆け寄ってきた。彼らは息を荒らげながら、ソバカスの散った頬を赤くしてフェリに何かを押しつける。
「あの、これは?」
「内緒だよって、父さんと母さんが」
小さな籐籠の中には固焼きのパンと水分の少ないチーズ、蓋つきの牛乳の器が入っていた。フェリは穏やかな顔で籠を抱き、深々と頭を下げた。
戸惑う子供に、彼女は囁く。
「どうかありがとうございました、と、お伝えください」
フェリは再度礼を言い、籠を片手に下げると森の中へ歩を進めた。彼女が途中で振り向くと、子供達は大きく手を振っていた。
そのまま長く長く、彼らは手を振り続けていた。
***
慣れた足取りで、フェリは積み重なった葉を踏む。森の中にまだ生き物の姿はない。だが、すぐに妖精や獣、小さな幻獣も戻ってくることだろう。フェリにはそれがわかっていた。彼女が蜂蜜色の目で森を映していると、
その足元の影がほどけ、クーシュナが隣に並んだ。両手を頭の後ろで組みあわせ、彼はおどけた調子で歩きだす。
「聞かないのだな?」
「わかっていますから」
「わかっているのに、よいのか?」
「あなたは私ではないから」
「ん? それはどういうことだ、我が花よ」
ピンクの鼻をひくひくと動かし、クーシュナは尋ねた。問いかけに、フェリは穏やかな微笑みで応える。蜂蜜色の目を閉じて、彼女は内緒話を囁くように言った。
「あなたは幻獣調査員ではない。だから、決まりに縛られなくてもいい」
「なるほど。納得したぞ。確かに、その通りだ。我のお前は強情なだけでなく、柔軟な思考の持ち主でもあるな。
「欲しいものはないから」
「で、あろうなぁ」
フェリのつれない返事を楽しむように、クーシュナはくつくつと笑った。その隣をフェリは歩き続ける。だが、彼女は不意に何かを思いだしたかのように足を止め、くいっくいっとクーシュナの袖を引いた。首を傾げて、クーシュナは彼女を振り向く。
「どうした、主?」
「クーシュナ、ちょっと」
「ん?」
「いい子、いい子」
「んん? なんだ、なんだ? 何事だ?」
「トローがね、飛竜がいなくなる時の周囲の声を、少しだけ拾ったと話してくれたの」
「ん?」
「だから、あなたも撫でられるの、好きなのかなって」
それだけよと微笑んで、フェリは歩きだした。後に残されたクーシュナは呆然と立ちつくす。彼はパンッと大きな掌で顔を覆った。そして、声をあげて高らかに笑いだした。
「ははははははっ、これよ、これっ。全くくだらぬがこれのために確かに死ねるわっ!」
うるさいと顔をしかめながら、トローはフェリのヴェールをつんつんと口で引っ張った。トローもいい子ねと、フェリはその頭を撫でてやる。クーシュナは上機嫌にフェリに追いつき、おい、小僧っ子もかと不満を訴えた。その顔にトローは間髪を入れずに飛びつく。ふたりは仲がいいのねとフェリは微笑んだ。
彼らは共に森を行く。
その後ろを金色の羽をした、妖精が飛んでいった。
***
村から東に山を二つ越えた谷間にて、野盗のあじとが襲われた。何者かの炎に焼かれ、盗賊達は逃げまどい、何人かが死んだという。今ではその場には、草木一本残っていない。こうして、長く各地で続いていた野盗の被害は終わりを告げた。
それと関連があるのかどうかはわからないが、時を同じくして、ひとつ珍しい目撃証言があった。羊達を連れた老人が、この地にはいないはずの空を飛ぶ竜を目撃したのだ。
老人の見間違いでなければ、悠々と空を行くその背中には人影が乗っていたという。そして、長くたくましい尾には、誇らしげに青いリボンが巻かれていた。