その5
数十の影が植物のように大気中に伸びあがる。それは腕を伸ばし、
衝撃波のような風が、フェリ達を襲う。クーシュナは慌てることなく、宙を蹴った。二つの風はぶつかり合い、消滅する。
その間にも、影達は縦横無尽にしなり、飛竜に迫っていた。その尾に影が絡みつきかけた瞬間、飛竜の体は横に傾いだ。飛竜は急旋回し、ほぼ羽ばたくこともなく影の隙間をかいくぐる。重力と慣性を無視した動きに、フェリは思わず声をあげた。
「凄いっ! やっぱり、飛竜はその体躯では本来不可能な動きを行うことができるんだ。幼生でもこれだけの動きを見せるなんて………なんて凄い生き物なのっ!」
「我が花よ。確かに我は余裕だが、なんと言えばいいか相変わらずだなお前は。というか、お前がそんなちょっとはしゃいだ声をあげるのは久しぶりではないか? んっ?」
「あのね、ガルガン博士の仮説ではね、彼らは独自の力場を形成していて」
「うむ、わかった。後で聞こうぞ。後でな。うむ」
二人の会話を
賞賛するかのように、クーシュナは両手を打ちあわせた。
「ハハッ、いいぞ、いいぞ。末席でも流石は竜種か。では、喜べ、飛竜よ――――我が行ってやる」
そう言い、クーシュナは踊るように右足を前にだした。その足裏の影が雨あがりのキノコのように宙に伸びる。影の上で、彼は片足でバランスを取った。だが、耐えきれず前に傾ぐとまた別の影が伸び、その左足を支えた。次々と伸びる影の上を、クーシュナは飛び石を渡るような気軽さで歩いていく。
あろうことか空中歩行で接近してくる彼を見て、飛竜はいらだたしげにくちばしの先端の骨を鳴らした。火花が散り、ガスに引火しかける。その寸前、クーシュナは影を蹴った。ある意味、実に『兎らしく』彼は高々と跳躍する。目標を見失い、飛竜は火を吹くのを止め、きょときょとと辺りを見回した。
その頭の上にクーシュナは着地した。目を見開く飛竜を見降ろし、彼はにぃっと笑う。
――――ギィィッ?
「――――よぉ、若造」
そのまま、クーシュナは地面の上に飛竜を蹴り降ろした。
飛竜は激しく地面に叩きつけられるかに思えた。だが、彼が地面に接した瞬間、その周囲が沼のように黒く崩れた。下に控えていた影に、飛竜はどぷりと受け止められる。
底なし沼に落ちた獣のように、飛竜は激しくもがいた。だが、無数の黒い蔦に押さえつけられ、そのまま影の中から抜けだせないよう拘束される。
飛竜が動けなくなると、次々と家々の扉が開いた。窓から様子をうかがっていたのか、村人達は外に飛びだすと喜びの声をあげた。
「やったのかっ」「すげぇ、ついについに」「このくされ竜が」「今までよくも俺達をコケに」
「――――駄目っ」
歓声をあげ、飛竜に近づく人々を見てフェリは地面を蹴った。たとえ体を押さえつけられていても、飛竜にはまだ別の武器がある。飛竜は首をもたげ、人々を睨んだ。鱗に包まれたその胸が今までになく大きく膨らむ。今度こそ全てを燃やしつくすと決めたのか、彼は巨大な炎を吐こうとした。その瞬間、フェリは叫んだ。
「人を、傷つけては駄目よっ!」
高くか弱い声を聞き、何故か飛竜はぴたりと火を吹くのを止めた。
フェリはその隣にしゃがみこんだ。彼女は素早く鞄の中から青いリボンを取りだし、飛竜の口を縛った。まじないにでもかかったかのように、飛竜の体から力が抜ける。その頭をフェリは優しく撫でた。
「そう、言われた? そうよね。人のことは人がなんとかするから、傷つけてはだめと止められたのよね? あなたの一撃はあまりにも重いから。私なら止める。きっと、あなたの大事な人もそうして止めたはず。あなたはだから盗賊を逃がした」
フェリは青いリボンを指でなぞった。まじないの縫いこまれたリボンには、竜のことを考えてか、柔らかな裏地がつけられている。リボンが擦れても竜の固い鱗は何も感じないにも拘わらず、だ。きっと聖女は優しすぎるくらい、優しい人だったのだろう。そう、リボンの持ち主に思いを馳せながら、フェリは言葉を続ける。
「でも、あなたは許せなくなってしまった。彼女がいないのに、村人達が同じ暮らしを続けるから。誰も助けに行ってくれなかったから。いつまで待っても、彼女が帰ってこないから――――あなたはかしこい子。彼女はもう帰ってこないとわかってしまった」
そのリボンは、昨日フェリ達が聖女の家で見つけだしたものだった。森の中ほどにある聖女の家は、火を点けられたのか半分焼け落ちながらも、まだ原形を保っていた。その中は意外なほど荒れておらず、雨もほとんど流れこんでいなかったのだ。
爪痕の残る屋根を確認して、フェリは察した。飛竜は翼を広げて屋根となり、村人に助けられた彼女が帰って来るのを待っていたのだろう。きっと長く長く、彼は待ち続けたのだ。けれども、彼女は帰ってこなかった。
誰も彼女を取り戻してはくれなかった。村人達には取り返す気すらなかった。彼らは無理だと諦め、彼女は奪われたままとなった。幼い彼はひとりぼっちでそこに残された。
飛竜は他の動物に比べれば遥かに豊かな知性を持ち、情緒を解する。突然、自分の母や姉を奪われれば、人も耐えることはできない。そして飛竜の思考は人間に近い。
時に、ひどく傷つくこともある。
クゥゥと何かを訴えるかのように飛竜は鳴いた。その頭をフェリはゆっくりと撫でる。
「いい子、いい子。あなたはいい子。彼女の言う通りに、人を信じて裏切られてしまっただけ。それでも、私はあなたを止めなくてはならないの。えぇ、悲しいわ」
フェリは手を止め、ゆっくりと瞼を閉じた。その眦から一筋の涙が零れ落ちる。それをぬぐい、再び労わるように飛竜を撫でながら、彼女はもう一度呟いた。
「私は、とても悲しいの」
再び歓声が沸いた。完全に飛竜が抵抗を止めたのを見て、村人達は嬉しげな声をあげる。喜びに沸く人々の中、フェリはひとり涙を流した。
そのままひとりぼっちの飛竜に、彼女は長く寄り添い続けた。