その3
不意に詩を詠むように滑らかな口調でフェリは囁いた。
同時に、彼女の足元の影が一冊の本を吐きだした。
キルト地のテーブルクロスの陰に隠れて旧い本を受け取り、フェリはそれを今、鞄からだしたような体でページを開いた。変色した紙には掠れた手書きの文字が並んでいる。迷うことなく該当箇所に辿り着き、彼女は口を開いた。
「暗記はしていますが、念のため参照しましょう。『体内に溜めた浮遊用のガスを口から勢いよく放出。くちばしの先端にある骨の突起をぶつけ合うことで着火し、火炎を放出することが特徴』そして『既に登録済み』とあります。竜種は地脈に棲む長達と契約があり、無差別の狩り、駆逐は禁止され、個体は全て国家に登録されています。彼は別の幻獣調査員に確認され、国へ報告、この地の固有幻獣として認定された個体ですね?」
フェリはページから顔をあげた。蜂蜜色の目が再び村長を映す。
「本来、
「それは」
「彼女は今どこに? 飛竜の暴走についてお話をうかがいたいのです」
「彼女とは」
「この本に記述があります―――『リボンの乙女』」
フェリがその言葉を口にした瞬間、石を投げこまれた鳥の群れのように人々はざわついた。アベルと呼ばれた比較的若い男が、彼女に一歩近づく。
「急に何を………それには一体何が書いてあるんだ、貸してみろよ」
彼はフェリの肩に手を伸ばした。だが、次の瞬間、その手首にくるりと黒い影が巻きついた。ぎょっとアベルが目を見開く間にも、影は人間の掌の形をとっていく。その根元には筒のように細い腕が続いていた。恐る恐る顔をあげ、アベルはまたぎょっとした。
「おっと可憐な姿に勘違いをさせてしまったか? すまぬなぁ、物騒な護衛つきなのだ」
いつの間にか、彼の前には分厚い黒布で顔を隠した異様な人物が立っていた。
ギリギリ人間に見えなくもない―――兎の耳を山高帽で隠し、喪に服すかのような黒布で顔を覆った―――クーシュナはチッチッと口の前に立てた指を気取った仕草で左右に振った。
「困るぞ若造よ。気安く触る許可などだしてはおらぬ。何せ、我ですらあの小僧っ子に叱られるくらいだからな。お前だけ自由に触れるのではズルかろう? ん、どうだ?」
「いたたたっ、痛い、痛い」
「クーシュナ」
「おっと、すまん、すまん。ハッハッハッ、ついうっかりな。いや、人の腕も妖精のマッチ棒じみた腕とそうは変わらんな」
陰鬱な声を快活に響かせ、クーシュナはアベルの手を離した。顔の前の分厚い黒布を揺らしながら、彼は白いヴェールに覆われたフェリの肩を抱き寄せる。
「わかれ、人間。我の主人は人が害意を持って触れていいような花ではないのだよ」
「私はあなたがたの話を飛竜の暴走原因の参考証言として求めているにすぎません。被害申請を受けた以上、その理由がなんであろうと私の務めは変わらない。あなた方のためにも、そしてあの子のためにも私はこれ以上の被害を食い止める必要があります。ただ、あの子の暴走原因について知らないままではいられないのです」
場の騒ぎに負けないよう、フェリは声を張りあげた。突如現れた異様な男と、どうやら飛竜を指すらしい『あの子』という言葉に場の混乱は更に深まる。
だが、やがて諦めたかのように村長は首を横に振り、再び口を開いた。
「実は………外の方にお聞かせするには、お恥ずかしい話なのですが」
この村では『リボンの乙女』と呼ばれる聖女が、代々
『リボンの乙女』――彼女は遥か昔、棲家である大樹を失った
金銭だけでなく、若い娘を要求され、村人達は野盗に聖女の家を教えてしまった。
「ひどい話だとお思いでしょう。わかっています。私どももそう思います。ですが、我々にとっても辛い選択だったのです。カナリの街の自警団に連絡はいれましたが、彼らにそこまでの期待をするのは………我々だけで野盗に挑むのはあまりに危険すぎますので………そんなことはとてもできません。どうかご理解いただきたい」
「………わかりました。彼女はもういないのですね。ご報告をありがとうございます」
フェリは村人を責めることなく頭を下げた。外部の人間の言葉を強く恐れていたのだろう。その反応に、村人達は胸を撫でおろした。
だが、フェリは沈痛な表情で続けた。
「あなた方は、突然、自分の母や姉を奪われて耐えられますか?」
「はっ?」
「
人々は思わず顔を見合わせた。人として女性として余所者として、フェリに彼らを責めるつもりはないらしい。だが、彼女は真剣な表情で誰も予想しない言葉を続けていく。
「あの………それは一体なんのお話ですか?」
「あの子の、
村人達は更に訝しげな顔をした。だが、フェリは愚かなほど真剣に言葉を紡いでいく。
「彼らの想いは人に近い。時にひどく傷つくこともあります。どうかそのことを忘れないでください。幻獣と関わる時彼らの視点を忘れてはなりません。忘れてしまうのは」
クーシュナがその手から本を受けとり、閉じた。彼は現れた時と同じように、するりとほどけ、フェリの影の中に消える。トローはパタパタと鹿の角から舞い降りると、ぺたりと彼女のヴェールの上に着地した。フェリは静かに首を横に振り、立ちあがる。
「それはとてもとても悲しいことだ」
深く頭をさげ、フェリは席から立ち上がった。彼女は夫人にも礼をすると廊下を歩きだした。枝の冠飾りが下げられた玄関から外に出ると、彼女は軋む扉を後ろ手に閉じた。
村を見回すと、随分と時が経っていた。麦畑の向こうの稜線は夕暮れに染まりつつあり、森にも橙色の光が落ちている。燃えているかのごとく金色に輝く木々は、数万という葉を風にきらめかせていた。涼しい風がどこからか運んできた灰を彼女に吹きつける。けれども、それは一片残らず、下から伸びた影に叩き落とされた。
『元気をだせ、我が花よ。幻獣に感情移入をするのは、我のお前のいいところであり悪いところだ』
「ありがとう、クーシュナ………そうよね、落ちこんでいる暇なんてない。あの子が来る前に準備をしなくては」
そう呟き、フェリは蜂蜜色の瞳で強く空を見つめた。
荒ぶる
それまでに、彼女には確かめなければならないことがあった。