第二幕 悪役令嬢は可愛げがないので泣かない その1
婚約破棄からエンディングまでの間で、アイリーンの進退に関係すると考えられる重要なイベントは二つある。一つは自分の死に直結する
そして、もう一つはセドリックがアイリーンとの婚約破棄を公にし、リリアとの婚約発表をする夜会イベントだ。
悪役令嬢のアイリーンは婚約破棄を承諾せず、リリアとセドリックの婚約発表を
そうとも知らずセドリックとよりを戻そうと夜会に出席したアイリーンは、会場に現れたリリアから告発を受け、ドートリシュ公爵家からも切り捨てられてしまい、平民として下町に放り出されるのだ。アイリーンにとってできれば阻止したい展開だった。
なぜならば、平民になって生きていけるだけの能力がない。
かといって、夜会に出席しないという
かといって
つまり現状、ゲームのフラグ回避については、具体的に打つ手がなかった。
(でもせめて、クロード様を夜会にパートナーとして連れて行って、
そうすれば別の
あとは、父親からの『損失を取り返せ』という任務もこなさねばならない。
(時間がないわ。──並行で進めるしかないわね)
そんなわけで、昨日の今日にもかかわらず、アイリーンは森の小道を歩いていた。
問題は、ぐるぐる小一時間、同じところを歩かされていることだろう。
「これが結界というものかしら」
目印代わりに木の枝に結んでおいたハンカチをほどき、アイリーンはパラソルを閉じた。
空を見上げても
「森に入る
ぐるりと見回すと、不自然なまでにしんと
ためしにもう一声、投げてみる。
「わたくしを
風景は変わらない。だが、気配がした。魔王を
(私にだけ誰も見えていない、とか? ゲームでもそうだったけれど、本当に
そしておそらく、クロードも魔物達に弱い。
アイリーンはしおらしく
「わかりました、今日お会いするのは
返事はない。だが、
アイリーンは持っていたバスケットのふたを開け、誰もいない空間に向け中を見せた。アーモンドやチョコなどの味をとりそろえた、たくさんのクッキーだ。
意外なことに魔物が人間の食べ物を好んで食べるというのは、ゲームのおかげで知っている。
「わたくしが作ったの。お口に合うかどうかわからないけれど、もらっていただきたいわ。それとこれを、カラスさんにと思ったのだけれど」
そう言ってバスケットの内ポケットから一つ、小さな
それを片手ににっこりアイリーンは笑う。
「昨日も言いましたけれど、カラスの
風景は何も変わらない。変わらないが、戸惑いの空気だけは
「そのためのアクセサリーです。カラスの皆様の中で一番強いまとめ役の方だけでも、これをつけていただけないかしら。魔王様が
返事はない。だが、門番の証、という声が聞こえた気がした。
昨日のベルゼビュートの
「代表で誰か出てきてくださらない? それとも魔王様はそれも
「人間ノ娘、ヨコセ!」
ばさあっと
アイリーンは地面に降り立ったカラスに目線を合わせるべく、
「あなたが一番強い方?」
「ソーダ!
「つけて差し上げるからうしろを向いてくださる? あなた、魔王様と同じ目の色なのね」
「魔王様、同ジ!」
すっかり浮かれきった様子でカラスがくるりと背を向ける。その目の前に、アイリーンは開けたままのバスケットを置いた。
「よろしかったら、好きなクッキーを味見なさって」
「娘、イイ心ガケ。俺様、アーモンド!」
器用にくちばしの先で一枚だけアーモンドクッキーをとり、ぱくりと食べる。その間にアイリーンは蝶ネクタイを首にそっと回した。
意外にふわふわした
「ウマイ! ウマイ! 娘、
「あら
「俺様、一番、強イカラナ! 娘、オ前見ル目──グッ」
びくっと全身を
明るい森の小道が一瞬で
だがアイリーンは、ぶるぶる羽の先まで震えているカラスをしっかりと
「動かないでくださいませ、皆様。
「人間ノ
「グ……何、シタ、娘……!」
「クッキーにしびれ薬を仕込んでおきました」
「殺ス! 殺ス、娘!」
「あら、魔王様に
薄く笑ったアイリーンを非難するように、があがあとカラスがわめく。
かまわず、声を張り上げた。
「さあクロード様、この魔物を助けたければわたくしの前に出てらっしゃい! でなければ今からこの魔物の羽を一枚一枚もいでハゲに」
台詞を
「王!」
「魔王サマ! 人間ノ娘ガ裏切ッタ!」
ふわりと地面へ足を下ろした魔王に、魔物達がすがりつく。アイリーンはにこりと笑った。
「ごきげんよう、クロード様」
無言しか返ってこない。だが、
「この方を治して差し上げられて? 時間がたてば平気になるはずですけれども」
クロードが正面に膝をつく。そして、アイリーンの腕の中でしびれているカラスに、そっと手を
瞬間、かっと目を見開いたカラスがばたばたと羽を動かし始める。どうやらしびれが取れたらしい。
「さすがですわねえ」
感心するアイリーンの腕からもがき出たカラスが、クロードの
「娘! 殺ス! 絶対殺ス!」
「あら。これでおあいこでしょう」
「何がだ」
立ち上がったクロードが短く
「わたくし、忘れておりませんわよ? カラスの皆様によってたかって侮辱されたことを」
完全に冷め切っていたクロードの表情に、わずかな
「そこでわたくしに負い目を感じるなら、最初からカラスを教育すればよろしいのです。ねえ、
「殺ス!」
「仲直りしましょう。お詫びにチョコクッキーを差し上げますわ」
「騙サレナイ! 騙サレナイ!」
「
そう言ってアイリーンは取り出したチョコクッキーを、さくりと音を立てて口に
「ね? 大丈夫でしょう。さあどうぞ。これで仲直りしましょう?」
食べかけのクッキーを差し出す。赤い目がぎょろぎょろとアイリーンと、それからクロードを
思いがけない展開にアイリーンは目をまばたいた。クロードはすました顔で飲みこみ、半分になってしまったクッキーを肩の魔物に差し出す。
「大丈夫だ」
「ウマイ! チョコ、ウマイ!」
「マ、魔王様……」
周囲の
「アーモンド以外は大丈夫なんだな?」
「え、ええ……でもどうしましょう。こんなところで困りましたわ」
「……どういう意味だ。まさかチョコクッキーにも何か仕込んだのか」
「はい。クロード様にその気になっていただこうと思って、男性にしかきかない
にこやかに答えたアイリーンの背後で、
「君はおかしい」
げっそりとしたクロードに、アイリーンは小首をかしげた。
「そうでしょうか。クロード様は責任感の強い方だと見込んでの策だったのですが」
「なんの責任だ」
「あら、それをわたくしに言わせようとなさるなんて」
「あっははははは、あははははは!」
紅茶を出してくれたキースが、ついに
「何がおかしい、キース」
「だ、だって、魔物を
「おほめにあずかり光栄ですわ、キース様」
用意された紅茶を一口含み、カップをソーサーに置く。
今いるのは、昨日アイリーンが
人を案内できる場所がここしかないというのは問題だが、出された紅茶もソファの座り
「でも残念ですわ。クロード様に媚薬がきかないなんて……」
「王にそのような
「クロード様は散々毒殺とか
「あら。でしたら、もっと強力なものを用意してもきかないのかしら」
「君が用意した食べ物は、今後
「じゃあ別の方法を考えますわね」
「考えなくていい」
「だって時間がないんですもの」
「理由を聞いて下さいます?」
「聞きたくないんだが」
「そうですか。実は二ヶ月後の夜会に出ることになりまして」
「今、聞くか聞かないかの前置きは必要だったのか?」
「それでぜひ、クロード様にエスコートをお願いしたいんですけれども」
「聞くしかないんだな、わかった。……しかしそれでどうして媚薬になるんだ……」
「?
目を丸くして尋ねると、クロードが無表情になった。腹を
「だ、だから
「何がなるほどだ。
一人がけの
一瞬だけアイリーンは真顔になったが、すぐさま
「それがクロード様のお望みなら」
「望んでない。
「では夜会に一緒に出席してくださる?」
クロードが頭を抱える。キースは笑いすぎてひいひい言いながら、声を上げた。
「い、いいんじゃないですか、夜会。
「まあ! 有り
「ちょっと待て、勝手に話を決めるな。行くと言っていない」
「王が望まぬことを押しつけるのは我々が許さぬ、人間共」
ベルゼビュートがクロードを守るように一歩前に進み出た。
「人間の夜会だと? そんなくだらぬもの、会場ごと
「ベルゼビュート様。あなたは何もわかっておられないのね」
「何だと」
「ベル。お前が言いくるめられる予感しかしない、やめろ」
「世間に知らしめたくありませんの、クロード様の
「クロード様は素晴らしい方でしょう」
「……もちろん、王は素晴らしい方だ」
「でしたら夜会への参加は
「……王が……輝く……」
ちらちらとクロードを見るベルゼビュートは迷っている。自分達の敬愛する王が、
そしてクロードはそんな魔物達の期待を無下にできない。
「クロード様、エスコートしてくださる?」
「……そもそも魔王の僕が
「……クロード様……昨日のわたくしの話を聞いてらっしゃらなかったの? わたくしはあなたを飼うと言ったはずです」
ぶっと再度キースが噴き出し、クロードが
「聞かなかったことにしたんだが」
「ではもう一度聞いてくださいませ。わたくしはあなたを飼います。つまりあなたはドートリシュ
「……婚約者という前提がまず間違っていると
「わたくしがついておりますのよ。堂々と正面から入場されればよろしいの。魔王だからってなんだというのです。責任はわたくしがもちます」
自信満々に
「
勝手に会話を進めると、クロードは
「……君の立場が悪くなるぞ。魔物に
「まあ……まあまあまあまあ! わたくしを心配してくださるの、クロード様!」
両手を胸の前で
「
「自分でそれを言うのか」
「だってそもそもこの夜会がわたくしを
「人間は本当にくだらない
「そこでクロード様ですわ、ベルゼビュート様!」
「今のわたくしの横に立ってなお、
「な……なるほど……!」
「なるほどじゃない。──いい加減にしてもらえないか。僕は出席しないと言っている」
思いがけない強い口調にアイリーンは口を
一人用の椅子からクロードが静かに立ち上がり、アイリーンを
「ドートリシュ公爵令嬢。お引き取り願おう。見送りはしない。自分の足で帰れ」
「……。お断りしたら?」
「好きにすればいい。僕に
(ドートリシュ公爵家の
確かにドートリシュ公爵家の財力も権力も、クロードには不要だろう。彼は魔王なのだ。その気になればなんでも手に入れられる。それをしないのは、望んでいないからに他ならない。
(だとしたらこの人が望んでるのは何? ゲームでは、普通の人間として接してくれるリリアに
ゲームではどうやって結ばれたのだろう。そういえば思い出せてない。その時だった。
「魔王様! 魔王様! 迷子!」
テラスから飛びこんできた声に、退室しかけていたクロードが足を止める。クロードが
が、アイリーンの姿を見た
「ゲ! オ前、マダイル……!」
「あら。ずいぶんな
「何ダソレ! 俺様、アーモンド、
「あなたの名前です。正確にはアーモンドクッキーを食べてしびれたカラスさん」
「かまうな、何があった」
「帰ッテコナイ! 森ノ外、出タ! フェンリル、子供!」
「結界の外に出たのか」
クロードのつぶやきを聞いたアイリーンは、キースに
「森というのは、この城を囲んでいる森のことですか?」
「そうです。ほら、森に入る前に
「不戦条約を
「さすがドートリシュ
クロードが
魔物に人間を
わずか十歳の子供が皇帝と
(……でも、それはあなたが本当に欲しいものでしたの?)
何もかも手に入れてこそ、人生は素晴らしいのだ。
「フェンリルの子供が出て行った方向は、東の二層か」
「東の二層というと──
ここ、皇都アルカートは、皇城を中心に
そしてこの廃城と森は皇城の背後、扇を円に補う形で存在している。層を分ける
「よりにもよってですね……五層の方々なら、魔物の子供くらい害がないならまあいいかで
「こう、クロード様の
「強制転移は、僕の視界に入っている対象でないと発動させられない」
「俺がさがす」
「ちょっと待ってください、ベルゼビュートさんを他の人間に見られたらますます
「だが手が足りないだろう。二層のどこへ行ったかわからないんだぞ」
会話を横で聞きながら、アイリーンはふと思い出す。
(……そういえば、学園に魔物が現れるイベントがなかったかしら……そうよ、マークスのルートであったわ! 確かリリアがかばって、聖剣の乙女の力を発揮させて、マークスと力を合わせて魔物を
魔物の『子供』ではなかった気がするのでイベントではないかもしれないが、倒されるというのは殺されるということだ。迷子になっただけでそれはあんまりだろう。
じっと目を閉じていたクロードが、ふと
「──学園も、騎士団の方も、まだなんの騒ぎも起こってないようだが……」
「でしたら今の内に見つけましょう。わたくし、学園をさがすのをお手伝いします」
挙手したアイリーンに全員の目が向けられた。
「わたくしでしたら学園内をうろうろしても、そう不自然ではありません。学園の地理も
「え? はあ、まあ……そうしていただければ助かりますが」
「
「それはキース様も同じでしょう?」
「キースは顔なじみだ。
「なら、クロード様の身につけているものを貸してくださいませ。
反論がないあたり、いい案なのだろう。にこりと笑ったアイリーンは、クロードの
「お借りしますわね」
そう言って自分の手首にタイを巻き付けて結ぶ。
「クロード様は、わたくしの動向を追えますか? 見つけたら人目のないところへ連れて行きますので、すぐ
「できるが……いや、待て。そもそも君の助けは必要ない」
「安心してくださいませ。見つけたら夜会に出席しろと
「──なら、どうしてだ。君が手伝う理由がないだろう」
「何を仰ってますの。
「……」
「もちろん、クロード様に恩を売って夜会に出席させることを
「狙ってるんだな」
「狙ってますわよ? でもわたくしはまず、あなたの願いを
「それに魔王の妻が、魔物を助けにいくのは当然ではなくて?」
「──。いやちょっと待て、さらっと今『妻』とか言わなかったか」
「さあ、細かいことは気にせずにクロード様。わたくしを学園まで転送してくださいませ」
「まったく細かくないんだが」
「人間は
アイリーンの差し出した手を、クロードは一度目を閉じて、意を決したように取る。
「……頼んだ」
そのかすれた願いに、あらと目を上げた時、そこはもう見慣れた学園の裏庭だった。
緑が
(頼んだ、ですって)
やはり
ただ道を少し