ゲームの舞台になっている学園は広い。むやみやたらにさがすのは体力の無駄だとわかっていたので、アイリーンはまず魔物を倒すイベントが起こる、寄宿舎裏へと向かった。
(マークスを見張ってもいいけれど、イベントが起こる前に魔物を見つけるのなら後手になるわ。そもそもイベントに関係ないのなら、マークスを見張っても意味がないし)
寄宿舎の裏門を抜けると、聖騎士団の訓練場へと抜ける石畳の道がある。聖騎士団への入団を目指すマークスは、授業が終わるとひそかにそこへと通い、訓練をつけてもらっている──という設定があった。その道すがら、魔物と遭遇するのがイベント内容だったはずだ。
その周辺で魔物の姿がないのならば、そもそも迷子の魔物がイベントと無関係という線も考えなければならない。
「あっさり見つかってくれると助かるのだけれど──あら」
寄宿舎裏に近づくにつれ、喧騒が聞こえた。嫌な類の笑い声と、獣の悲鳴だ。
「くっそ! 角が固い、木の棒じゃ無理だ」
「早くしろ、罠に引っかかってる内に殺すんだよ!」
「まず殴って弱らせろ! フェンリルを倒したなら、聖騎士団入りも夢じゃないぞ」
その短いやり取りだけで状況が察せられた。拳を握ったアイリーンは、急ぎ足で寄宿舎裏に広がる畑の隅で何かを取り囲んでいる男子生徒の背中に向かう。
同時に、がうがうと必死で唸っている、あどけない獣の声も聞こえた。
「角と牙は傷つけるなよ。フェンリルの角と牙は高く売れる──」
「何をなさっているの」
男子生徒達の背中が震えた。振り向いた顔を、素早くアイリーンは確認する。
(騎士爵の子息ばかりじゃないの。マークスをお坊ちゃんと陰で馬鹿にしていた──そのわりには、情けないこと)
男子生徒の隙間から、いわゆるトラバサミに前脚を挟まれた白の獣が見える。小さくもふもふしているが、可愛らしい見目に反する鋭い角が額から二本生えていた。爪も大きく、どう見ても犬ではない。だが足に食いこんだ刃をどうにかしようと必死でもがいている姿を見て、なお痛めつけようと思える精神は、とても騎士道精神に見合わない。
嘲りを隠さず、アイリーンは優雅に微笑む。
「魔物を殺すおつもり? 不戦条約をご存じないのかしら」
「──ア、アイリーン様……退学なさったって、聞きましたけど」
「び、びびるなよ。こんな女……」
相手にする時間も惜しいと、アイリーンは男子生徒達の間をすり抜けた。
(確か、解除の仕方はお兄様に教えてもらったはず……!)
真っ先に罠に手を伸ばそうとすると、横から唸り声と一緒にかみつかれた。腕の衣服が裂ける音に、男子生徒達の方が悲鳴を上げる。
「かっかまれた!」
「お黙りなさい! ──賢い子だわ、この子」
血は滲んでいたが、肉をえぐり取られたわけではない。まだ手加減しているのだろう。クロードの命令を覚えているのだ。
一呼吸おいてから、アイリーンは唸る魔物の子供に微笑みかける。
「初めまして、わたくしはアイリーン。あなたを迎えにきました」
手首をそっと魔物の子供の鼻先に差し出す。ふわっと風に揺らいだタイに、魔物の子供が目をまたたかせた。
「わかるわね? 少し我慢してちょうだい。動かれるとこの罠をはずしてあげられないの」
じっとタイを見つめる目が迷っている。だが次の瞬間、ぐいとアイリーンの体が後ろ向きに引っ張られた。足首が嫌な音を立てたあとで、尻餅をつく。
「何をなさるの!」
「うるさい! 人間を傷つけたんだから、こいつはもう殺していいんだろう!」
再び全身の毛を逆立てて唸り声を上げ出した魔物の子供を、鍬を持った男子生徒が取り囲む。
「やめなさいと言って──」
途中で言葉が影に飲まれた。アイリーンがはっと顔を上げたのと同時に、男子生徒が情けない悲鳴を上げて脱兎のごとく逃げ出す。
ぬっと壁を飛び越えて地面に足を着け、現れたのは魔物。罠にはまって鳴いていた子供が甘えた声を上げる。
(──これ、イベントの魔物……そうか、親!)
クロードの言いつけを破り、結界を越えてさがしにきたのだ。その瞳には怒りが燃えている。
この状況を見れば、当然だ。罠にはまって前脚から血を滲ませた子供。不自然に曲がった後ろ脚。人間に傷つけられた、そう考えない親はいない。
アイリーンを睨め付けた魔物が、恐ろしい牙が並んだ口を開ける。吠えようとする仕草に、アイリーンはとっさに声を上げた。
「待ちなさい! 吠えては駄目、人がくる!」
制止したアイリーンは、立ち上がろうとして膝を沈ませた。さっき男子生徒に押しのけられた時、足を挫いたらしい。だが歯を食いしばって、這いずりながら罠に手を伸ばす。
「怒るのはわかるわ。でもあとになさい、今はこの子が先でしょう!」
吠えるのをやめた魔物がぎょろりと視線を動かす。その間に急いで罠の解除を始めた。兄に教えてもらった手順通りに操作すると、すぐに嚙み合っていた罠が開く。
か細い声を上げて魔物の子供が、親の下へ向かおうとする。アイリーンは恐らく言葉が通じているだろう、親の方に声をかけた。
「子供を連れてすぐ人気のないところへ行きなさい。クロード様が迎えにきてくれるわ。怪我も治してもらえるでしょう。森へ帰るのよ」
「……」
「早く行きなさい。あとはわたくしがなんとかしておくから、早く!」
既に背後が騒がしくなってきた。帯剣したマークスがやってくればイベントが始まる。さすがにマークスの剣の腕をしのげるほどの力はない。
魔物はじっとアイリーンを見ていたが、子供の首筋をくわえ、ひょいと壁を飛び越した。ほっとしたが、気が抜けたのは一息分だけだった。
「──アイリーン。どうして君がここにいる。自主退学したんだろう」
マークスの苦々しげな声と、あとに続く厳しい強面の面々。恐る恐るといったように、リリアもついてきていた。
(……やっぱりイベントだったのね)
迷いこんだ子供を痛めつけられ怒った魔物の親が人間を襲ってしまい、倒される。そういう理不尽きわまりないイベントだったのなら、たとえ自分の進退に関係なくても回避できて万々歳だ。
いい気分で、アイリーンは優雅に微笑む。
「忘れ物を取りにきましたのよ」
「忘れ物、か。……魔物が出たと聞いたのだが」
「ええ、いましたわね。そちらの罠にはまっていたので、逃がしてやりました」
「逃がしただと? こんな獣用の罠を、公爵令嬢の君が解除できるわけないだろう」
そう信じて疑わないという声色に反論し損ねてしまった。
(……まあ確かに、普通、できませんわね)
その沈黙をどう勘違いしたのか、マークスが率直に尋ねる。
「君が罠にかかった魔物を傷つけ、リリアを襲わせようとしているという報告を受けた」
「──は?」
「ここはリリアの部屋の、真下だろう」
指摘され、アイリーンは横にある寄宿舎を見上げる。
そうなのかという妙な納得と共に、笑いがこみ上げてきた。
「馬鹿馬鹿しい計画ですこと。穴がありすぎますし、真っ先に自分が死にますわ」
「それでも君ならやりかねない。現に、返り討ちで襲われていたとも聞いている」
ちらとマークスのうしろを見ると、先程逃げ出した男子生徒がいた。自分達のやったことを先回りしてアイリーンにかぶせたのだろう。そう言えばマークスはそれを信じるから。
(あらどうしましょう、マークスが没落する未来しか見えませんわ)
冷たく笑うアイリーンに、マークスが厳しく告げる。
「魔物とは不戦条約があるとも知らないのか、ドートリシュ宰相のご令嬢が」
「待って、マークス。私はアイリーン様がそんなことをたくらんだとは思えないの。何かの誤解だわ。そうでしょう、アイリーン様。私は信じますから」
さすがヒロインだ。正解にたどり着いている。だが婚約者を奪った相手によくも信じるなどと出てくる。こちらにはそちらを信じられる要素などまったくない。
だからアイリーンはあえて黙ったまま、何も言い訳しなかった。それをどう思ったのか、マークスが舌打ちする。
「……何もなかったわけだし、リリアの優しさに免じて許してやるが。さっさと学園から出て行くことだ。失礼する。行こう、リリア」
「マークス。アイリーン様、怪我をなさってるんじゃないの?」
「自業自得だ。這って帰ればいいんだ」
ちらとアイリーンの足下を見たマークスは、アイリーンの足の負傷にも気づいているのだろう。目敏い。さすが未来の騎士団長候補様だ。たくさん残念なところがあるだけで。
(でもこれで騒ぎにならずにすんだわ。何もかもわたくしが悪いのは癪だけれど、特にこれで落ちる評判でもないし──)
胸は痛みはしなかった。とっくに諦めているからだろう。立ち去るマークス達の背中を、ぼんやり見送る。その時だった。
夕闇に染まりかけた空が、ねじ曲がった。
「な、ん──っ」
マークスがリリアを背にかばい、剣に手をかけたところで、固まってしまう。
夕暮れの空に宵闇の髪と漆黒のマントがなびく。赤い目が、ゆっくりと開かれた。
空に浮かぶその姿は、人間ではあり得ない。
「魔王……?」
「まさか、森から出てこないって」
誰かが呟いた。アイリーンも瞳をいっぱいに見開く。
(……どうして、クロード様が?)
今、彼が出てくる理由はどこにもないはずだ。
つま先から地面に足をつけた魔王の姿に、人間達が魅入られたように凍りついている。
その呪縛から真っ先に解かれたのは、マークスだった。
「──貴様、何者だ! 魔王か!?」
「……」
「答えろ。……でなければ、不審者とみなして捕縛する!」
夕日に剣先がきらめく。だがアイリーンが静止するより先に、クロードの剣がそれを受け止めていた。マークスが両目を見開く。だがすぐさま次の剣戟を繰り出した。
アイリーンの目には見えないマークスの剣さばきを、クロードは目線も投げずにその場に留まったまま受け止め続ける。圧倒的技量の差が、素人目にもわかった。
「──くそっリリア、うしろに下がっていろ」
「は、はい」
「おおおおおおおぉ!!」
雄叫びと一緒に、剣を握り直したマークスが突撃する。
だが、クロードが溜め息と一緒に、しらけたつぶやきを落とした。
「うるさい人間だ」
何が起こったのかは見えなかった。マークスも目を丸くして尻餅をつき、剣を首元に突きつけられた格好で呆然としている。
クロードは最後までマークスに目を向けず、剣を鞘におさめた。その音を聞いて、マークスが叫ぶ。
「──待て、どうしてとどめをささない!」
「アイリーン・ローレン・ドートリシュ」
「は、はいっ?」
「あなたに感謝を申し上げる」
完全にマークスを無視したクロードは、胸に手を当てて、アイリーンに頭を下げた。
ざわっと周囲に動揺が走る。同じようにアイリーンも動揺した。何が起こっているのかさすがに理解が追いつかない。その間に、クロードの口上は続く。
「罠にかかり脅えたフェンリルの子供がかみついても怯まず助けの手を差し伸べたあなたに、魔王である私から直接礼を言おうと、ここへきた」
クロードの口調がいつもと違う。よそ行きのしゃべり方なのだと察したが、どうしてクロードがそんな風に自分に語りかけるのかわからず、アイリーンは困惑したまま口を動かした。
「……礼だなんて、わたくしは何も……」
「魔物との争いを起こさぬよう、あなたは魔物を傷つけたのが自分であるという濡れ衣までかぶろうとした。自分が傷つけられたならば誰もかばわないからと、そんな悲しい理由で」
クロードの言葉にざわりざわりと周囲が目配せし合う。マークスが眉をひそめ、アイリーンと先程魔物の子供を傷つけようとした男子生徒達を見比べていた。
「助けられた魔物が、恩人であるあなたを侮辱する人間に怒っている」
そこでちらとクロードは背後の人間達に目を向けた。震え上がったのはもちろん、魔物の子供に暴力を振るった男子生徒だ。
「──だが、あなたが許せと言うなら、今回は飲みこもう」
呆然とクロードの話を聞いていたアイリーンは、やっと気づく。
(……助けにきて、くださったんだわ)
アイリーンの濡れ衣をはらしに姿を現してくれたのだ。
そんなことをしても、クロードになんにもいいことなんてないのに。
「……いえ。その言葉だけで、十分です」
胸に手を置いて、アイリーンはやっと、それだけ答える。クロードは頷いた。
「そうか。では不問にしよう──あなたに免じて」
最後まで念を押すことを忘れず、クロードはぱちんと指を鳴らした。途端、アイリーンの周囲を光の粒が舞う。
魔法だ。引き裂かれた服が元に戻り、ついた泥も汚れもほどけて消える。滲んだ腕の血も足の痛みもなくなった。一瞬で起こった光景に、マークスもリリアも目を丸くしている。
「どこか痛みは?」
「だ、大丈夫ですわ」
「なら、私が屋敷までお送りしよう」
もう一度ぱちんとクロードが指を鳴らした瞬間、今度は真横に銀色に輝く馬車が現れた。
立派なたてがみを持つ黒馬による二頭引きの、豪華な馬車だ。
「ど、どこから出したんですか!?」
さすがに驚いたアイリーンに、クロードが目を丸くしたあと、かすかに笑う。
(あ)
冬なのに、花の香りがする。今、どこかで花が咲いた。どうしてだか、そう確信する。
「驚くのはまだ早い。──手を」
言われるがままに、アイリーンは手を差し出す。その手を引いて、クロードが馬車の扉を開けた。
「この馬車は、空を飛ぶ」
「えっ」
馬がいななき、その背から翼を出す。ペガサスだ。
驚いて思わずクロードの腰に抱きついたアイリーンの体が、馬車ごとふわりと浮く。
ぽかんと口を開け惚けるマークス達を地上に置いて、馬車が宵闇の空へ向けて駆け出した。
夜空を走る馬車に、憧れない乙女はいない。アイリーンは窓の外を流れていく夜空と、煌めく皇都を眺める。
またたき始めた星の光。扇形に広がる、瓦斯灯や家から漏れる灯りの数々。中でも商業区である第三層あたりは色も輝きもきらびやかだ。
「きれい……」
「──そうしていると、普通の令嬢に見えるな」
紅潮した頰で窓に張り付いていたアイリーンは、その声で我に返った。真向かいの席にクロードが脚を組んで座っている。観察するような眼差しに、咳払いをした。
「失礼なことを仰らないでくださる? わたくしは普通の令嬢ですわ」
「普通の令嬢は魔王に媚薬をもろうとしたりしない」
「……でも、どうして助けてくださったんですか?」
「それはお前が何にも言い返さないからだ、娘!」
突然聞こえた声にアイリーンはきょとんと馬車の中を見回して、ぎょっとした。
窓の外にベルゼビュートが張り付いている。
「窓からの眺めが台無しですわ……!」
「やかましい! どうして言い返さなかった、娘! 万倍言い返すと思ったのに」
「あなた、それを聞きに空をわざわざ飛んでますの?」
「王が我々は出るなと仰るから、ここまで我慢したんだ」
「ソウダ! 娘! 説明!」
反対方向の窓はカラスで埋まっている。アイリーンは真顔になった。
「……クロード様。ひょっとして今、この馬車の周りは」
「魔物で埋まっているが?」
「……色々、本当に台無しですわ……折角の素敵な夜空の旅が」
「いいから答えろ、娘! 王が返事をお待ちだ」
どう見ても返事を待っているのはこの馬車を囲む魔物達だ。
深い溜め息を吐き出したあと、アイリーンは行儀良く座り直して簡潔に述べた。
「都合がよかったからですわ」
クロードは相変わらず静かにアイリーンを見つめている。そのおかげで淡々と説明できた。
「大事なのはあの魔物の子供が無事で、かつ人間側から言いがかりをつけられずにすませることです。あの場があれでおさまるなら、多少の誤解など些事でしょう」
「……そう、かもしれないが……」
「それに、うまく言いくるめる方法も思いつかなくて」
ふう、とアイリーンはわざとらしく溜め息をつく。
「学園での信用が最底辺なわたくしが、あの男子学生が先に手を出していたと言ったところで誰も信用しませんでしょう? むしろますます立場が悪くなるだけ──」
「違ウ! 違ウ!」
「まあ、わたくしが噓をついているとでも?」
「そうではなく、どうして我々に証言をさせようとしなかった!」
思いがけない憤りをぶつけられ、アイリーンはぱちぱちと長い睫毛を上下させる。そしてそのあとで、ぼそりとつぶやいた。
「そんなことをしたらもっと厄介なことになったような気がしますわ……」
「ど、どういう意味だ」
「あなた方が何か証言したところで、わたくしが魔物をたぶらかしたと思われて余計事態が悪化するだけです。というわけで、余計な気遣いですわ」
「なんだと!?」
苦虫をかみつぶしたような顔で、ベルゼビュートが窓硝子に顔を近づける。そのむきになった顔に、アイリーンは淑女らしく微笑みかけた。
「あなた方に助けられるほど落ちぶれておりません、ということです」
「オ前、ダカラ嫌ワレル! 可愛クナイ!」
「あらご明察。わたくし、恩を売られるのが大嫌いですの。恩を売るのは好きですけれども」
「……ベルゼビュート。全員、下がれ」
静かにクロードが命じた瞬間、窓硝子ごしに睨んでいたベルゼビュートの表情が真顔になった。今までのいがみ合いが噓のように、優雅な一礼を返し、ふっと姿が消える。
反対側の魔物もいなくなり、あっという間に静かになったところで、クロードが口を開いた。
「魔物達は君を好ましいと思い始めている」
目がまん丸になった。
「わたくしを……ですか」
「いいか悪いかでの評価ならほぼ悪いだが、フェンリルの子供を助けたからな」
「たかが一回子供を助けただけで、単純すぎません?」
「魔物達は人間のように上っ面を重視しない。君が身を挺してまで仲間を助けた、どんな理由だろうがそれがすべてだ。気にさせまいと悪ぶっても、あまり意味はない」
何もかも見透かしたような口調が釈然としないが、理解はした。
「すぐに騙されて痛い目をみそうで、クロード様は目が離せませんわね」
「君だって似たようなものだ」
「はい? わたくしは騙されたりしませんでしてよ」
クロードは答えない代わりに、ちらと視線だけを流した。あえて指摘しないと言いたげな眼差しに、ぴくりと眉を吊り上げる。
「……元婚約者のことを仰りたいなら、余計なお世話でしてよ……?」
「君は泣きもせず、言い訳もせず、助けも求めない人間なんだということはわかった」
目の前の謎を紐解いていくような、同情もなにもない赤い瞳で、クロードは続ける。
「だから愛してもいない、しかも人間ですらない僕になぜ求婚しにきたのか、その理由を言わないんだな。今も、言う気はないのか?」
「言っても信じてもらえないと思いますけれど」
「信じるか信じないか、それを決めるのは君じゃない」
それはそうだ。ふむと頷いたアイリーンは、にっこり笑った。
「では申し上げますわね。実はわたくし、前世の記憶があるのです」
「は?」
「実は、この世界はわたくしの前世にあった乙女ゲームなんですの。リリア様がヒロイン──主人公で、わたくしは悪役令嬢。いわゆる当て馬のやられキャラですわね。そして婚約破棄は、なんとわたくしが死ぬ未来のフラグなのです。魔物として竜になったクロード様に殺されるんですのよ」
「……」
クロードの目が冷たい。ものすごく冷たい。だが、アイリーンはにこにこと説明を続けた。
「でも愛の力ってありますでしょ? だからてっとり早くクロード様をわたくしのものにしてしまえば殺されずにすむと、そう考えて求婚しに参りました。うふふ、ご理解いただけました?」
「……ああ。よくわかった」
クロードがしらけた相槌を返した瞬間、ぱっと周囲が星空だけになった。馬車が消えたのだ。
頰を撫でる夜風と、眼下に広がる皇都。足下には何もない。
当然、落ちる。
「君がどうせ理解できないだろうと馬鹿にして話していることは、よく理解できた」
「いっ──」
悲鳴が落下に飲みこまれた。雲の隙間を突き抜けるスカイダイビングだ。
(噓! 死ぬ!)
恐怖で悲鳴も凍る。パニックを起こしたアイリーンは伸ばされたクロードの腕をとっさにつかみ、首に腕を回してしがみついた。それでも加速度的に増していく落下は止まらない。
下からの強風に耐えていると、耳元でくすりと笑う声が聞こえた。背中から落ちていくアイリーンの視界いっぱいに、夜空が広がる。
(あ、流れ星)
落下速度が不意にやわらいだ。
クロードの靴先が芝生の上を踏む。クロードの首に抱きついていたアイリーンの足も、ゆっくりとつま先から地面に触れた。
そのまま、へなへなと芝生にへたりこむ──と同時に、怒鳴った。
「なんってことなさいますの! 殺す気ですか! 人でなし!」
「ああ。僕は魔王だからな」
「開き直りましたわね!? 一体どういうつもりでわたくしを墜落死させようとなさったの!」
「夜会には出席しよう」
「──え?」
唐突な承諾に、怒りが削がれた。へたりこんだまま、芝生の上に立つクロードを見上げる。
「ど、どうし、ましたの。いきなり」
「これで貸し借りなしだ。君の狙い通りだな」
「……そ、そうですけれども。ならどうして、笑ってらっしゃいますの」
「ああ。笑っているのか、僕は」
凄絶に妖艶な笑みを口元に浮かべているご本人には、自覚がなかったらしい。
「魔王らしい感情だな、と我ながら思うな」
「説明を──いえいいです、なんだか嫌な予感が」
「君を、泣かせてみたくなった」
は、と言葉が空気が抜けるような音に変わった。
とんと軽い音を立ててクロードが地面を蹴り、夜空に浮かぶ。その背後でまた流れ星が落ちるのが見えた。今日はよく流れ星が落ちる日だ。
いや、そうじゃない。クロードの感情が流れ星を落としている。やたらときらきら星が輝いているのはそのせいだ。
(そ、それってどういう感情!?)
呆然とするアイリーンをドートリシュ公爵家の中庭に放置して、赤い瞳の美しい魔王は、三日月の夜空に姿を消した。
※カクヨム連載版はここまでです。お読みいただきありがとうございました。
続きは本編でお楽しみください。