主君に剣を向けられているのに、ベルゼビュートもキースも涼しい顔だ。それはそうだ、アイリーンなど、クロードが本気になれば一瞬で消し炭にできるに違いない。
それでもアイリーンの矜持にかけてこれだけは言わなければならない。
「確かにわたくしにも至らない点はあったでしょう。それは認めます。でもだからってあんな仕打ちを受けて、一生めそめそ泣いていろとでも? 冗談ではありませんわ。あんなゴミ屑男のためにわたくしは人生を一秒たりとも無駄にする気はありません」
「……ゴミ屑。ずいぶん手厳しくなるんだな」
「ええ。女は恋を積み上げるものです。わたくしは、あなたを愛すると決めました。さあ、愛を育みましょう」
「剣を突きつけてか?」
冷めた目のクロードに、アイリーンはできる限り美しく微笑んだ。
「愛していると言い続ければ、その内本当になるらしいですわ。試してみません?」
「なるほど」
少しも抑揚のない声で応じたあと、クロードが手を伸ばしてきた。思わず剣を胸に抱いたアイリーンの肩から落ちた髪を、そっと長い指がすくい、赤い瞳が怪しく眇められる。
「つまり君は、魔王を口説きにきたと?」
「くどっ……」
かあっと頰が赤らんだ。男性に対する免疫のなさのせいだ。前世は乙女ゲームがお友達で、今世は婚約者こそいたが箱入りのお嬢様として育ち、セドリックとは悲しいほど何もなかった。
しかしうろたえるなんて弱みをさらすことはできない。及び腰のまま、綺麗な無表情に向けて無理矢理不敵に笑う。
「え、ええ。そ、そういうことになりますわね」
「……。声が震えてるような気がするのは気のせいか」
「き、気のせいです」
「口説けるほど男慣れしてるように見えな」
「わたくしを誰だと思っていらっしゃるの、殿方を口説くなんて朝飯前の百戦錬磨です!!」
力いっぱい言い切っても、クロードは無表情だった。ただ頭のてっぺんから足の先まで、しげしげと眺められる。
いつも通り化粧もドレスも完璧なはずだ。魔王の城に挑みにきたので軽装ではあるが、公爵令嬢として恥ずかしくないと自負できる。でもどうしてだか突然に恥ずかしくなって、アイリーンは身じろぎした。
(や、やたらと美形な人が目の前にいると緊張が……あ、髪! ぼさぼさじゃ──)
今頃気づいた。靴は泥で汚れているし、どこかにひっかけたのかドレスのレースはほつれ、全体的によれよれだ。森の中を突っ切ってきたのだから仕方がない。とはいえこれはゆゆしき事態だ。
この時代、完璧な装いこそが女性の戦装束であり、防御力なのだから。
「きゅ……求婚しにきたのに、お見苦しい格好で失礼しました。もう一度、出直しますわ」
「出直す必要はない」
クロードがぱちんと指を鳴らした。魔物でもやってくるのかと身構えたが、ふわっと優しい風が足下から吹き上がり、アイリーンの周囲を光をまき散らしながら舞う。靴の泥が取れ、ほつれたレースが編みこまれたように戻り、木の枝にひっかけた生地が修復され、綺麗になっていく。ぼさぼさの髪の毛も丁寧にとかしなおされたように風と一緒にうしろに流れ、心なしか疲労も軽くなった。
(……魔法だわ)
ぱちりとまばたいたアイリーンにそっけなくクロードは告げる。
「これで二度とこなくていいだろう。帰れ」
「……。わたくし、この服、宝物にしますわ」
「は?」
「だって魔法がかかったドレスなんですもの! 素敵!」
目を輝かせてくるりと回ると、お忍び用のワンピースの裾が広がった。同時に、花瓶に活けてあった花のつぼみが開く。これも魔法だろうか。目を輝かせて棚の上の花瓶を凝視したが、一輪つぼみが開いただけで、それ以上の変化はない。
不思議で、アイリーンは無表情のクロードに尋ねる。
「今、花が咲いたのも魔法ですか?」
クロードは何も答えない。その斜めうしろから、キースが意味深に笑った。
「やはり女性がいらっしゃると部屋が華やかでいいですねえ。魔物に囲まれてばっかりだとクロード様の美意識や常識がゆがむのではないかと心配してたんですよ」
「そう、思い出しましたわ! 道中のカラスのことです」
「……僕は帰れと言っているんだが、聞いていないのか」
「聞いていますがお断りしているだけです。それであのカラスなんですけれども、あれはクロード様の部下なんでしょう?」
微妙な顔をしているクロードの目の前、アイリーンは仁王立ちした。
「この森に入った者に対して警告するのはいいとは思いますが、嘲るのは下品です。部下の行動はクロード様の品位にかかわります。低俗な醜聞を元にした誹謗中傷は控えるよう教育しておいてくださいませ」
「なぜ君にそんなことを言われなければいけない?」
「婚約者が品のない方ではわたくしが恥ずかしいからです」
「そもそも僕は君の婚約者になった覚えはないんだが」
「それと、ベルゼビュート様の格好が破廉恥です。品がありませんわ」
ベルゼビュートが目を白黒させ、キースが腹を抱えて爆笑した。
ベルゼビュートは上半身は長いベストを羽織っただけで肌の露出が多い、いわゆる東国風の格好だ。ゲームで見ていた時は何とも思わなかったが、この国でわざわざ肌を見せるなんて常識外れだ。大体、今は真冬である。見ていて寒い。
「きちんとしたものを仕立てましょう。あとは礼儀作法も学んでいただかないと」
「おい、人間の娘。どうして俺がそんなことをせねばならない」
「クロード様の片腕なのでしょう。魔物だろうがなんだろうが公の場に出て行けるよう、きちんとしていただかないと困ります」
「……。片腕」
ベルゼビュートが心なしか弾んだ声を出した。これは簡単に操れそうだ。
「キース様は……同じ服をずいぶん長く着回してらっしゃる感じですわね。物持ちのよさは好ましいですが、無精は困りますわ。きちんとした公の場に出られる衣装はおあり?」
「あー、数年前に仕立てたのがありますねえ。というのもですね、アイリーン様、聞いてくださいよ。私、高官のはずなんですが、クロード様の味方しすぎて給料ゼロなんですよ! 支払い明細に額面あるのにおかしいと思いません?」
「まあ」
横領だろうか。顔をしかめたあとで、アイリーンは考えこむ。
「……わかりました。となると、クロード様にもお金はないんですのね?」
突然、花瓶に活けてある花が一斉に散る。それを見た従者二人の反応は早かった。
「クロード様、傷つかなくていいですからね。私めは、十分人生楽しいですからね」
「王よ、そもそも金銭が必要ならば我々が奪ってくる」
「二人とも黙れ。──わかっただろう、僕に嫁いでも君になんの利益もない」
「あら、そんな小さなこと気になさらないで。わたくし、クロード様を養うくらいの甲斐性はありましてよ? なんなら、魔物として飼って差し上げてもいいくらいです」
途端、窓の外で落雷が発生した。もう驚かず、あらあらとアイリーンは笑う。
無表情のままクロードがうなるような声を上げた。
「……どうしてそうなる。口説きにきたんじゃないのか」
「口説くよりそちらの方がわたくしの性に合います」
ラスボスを飼う。いい展開ではないかと、ほくほくアイリーンは微笑む。
クロードが冷ややかにそれを見返した。
「口説く方がまだましだとわからない君の感性はおかしい」
「褒め言葉として受け取っておきますわ。というわけでわたくしと結婚という名前の契約を致しましょう。うんと頷いてくださるだけで、皆様に快適な生活と幸福が訪れます」
「うわあ、新手の宗教勧誘っぽいですねえ」
「クロード様。わたくしへの見返りは、あなたの愛だけで十分です。それがどんなに難しいことなのか、わたくしはどこかのゴミ屑男のおかげで思い知りました」
クロードが顔を上げた。ほんの少しだが、感情が出ている気がする。
頷かせてしまえばこっちのものだと、アイリーンはクロードに詰め寄った。
「あなたは優しい人です。自分が人間を憎み切れないせいで魔物達が窮屈な思いをしていることにも、心を痛めてらっしゃったりしません?」
「……」
「わたくしはわたくしを侮辱した連中なんて頭から魔物に食べられてしまえばいいと思いますけれど、あなたの場合はそう願えば現実になってしまう。それはどれだけの重責で、葛藤でしょう。──その誘惑に耐えられるあなたの強さを、尊敬します」
クロードの動揺が、初めて表情に出た。瞠目した瞳の中に映りこんで、アイリーンは悪魔の笑みを浮かべる。
「わたくしと結婚してくだされば、わたくしはあなたもあなたの大事な魔物も守ります。一人で背負わせたりしませんわ。これでも皇妃になるはずだった人間ですから、心得ています」
クロードが唐突に無表情に戻ってしまう。まるで感情を押し殺したみたいに。
まばたいた瞬間、アイリーンの眼前にクロードの綺麗な顔があった。
「もう帰れ」
それは言葉ではなく呪文だった。
とんと額を人差し指でつかれ、よろめいた瞬間ふわりと体が浮いた──と思ったら、次の瞬間、ぽすんと腰から落下し、柔らかいものに受け止められた。
ベッドの上だ。突然現れた自分の寝室を何度もまばたきして見渡し、臍をかんだ。魔法で強制送還されたのだ。
「……やられたわ。もうひと押しだったのかしら……それともはずした?」
今一つ反応がつかめない人だ。淡々としていると思ったら、あっさり動揺したり、すぐ冷静に戻ったり。今回、ただの一度だって笑わなかった。
白のカーテンの隙間から差しこむ朝日に目を細めて、アイリーンは考えこむ。
(脅しじみてたのがよくなかったかしら。まあヒロインはあんなこと言わないものね……でも瞬間移動させられるのって、だいぶ好感度上がった時に起こるパターンだったはず)
ヒロインに惹かれていくのが怖くてわざと距離を置こうとしたりするときに、クロードは瞬間移動を使って物理的に距離を置く。
その行動から推測すると、初日から結構いい線をいったのではないだろうか。
「まだ時間はあるし、明日はひかえめにいってみるべきかしら? アプローチも変えて……」
「失礼します、アイリーン様。アイリーン様……お目覚めですか?」
寝室を叩扉する侍女に、アイリーンは声を上げた。
「起きているわ。何か用?」
「旦那様がアイリーン様にお話があるそうです。もういい加減、立ち直れと」
そういえば、今の自分は婚約破棄のショックで部屋に引きこもっている設定だった。
(でも昨日の今日で立ち直れとか、相変わらずあのお父様は……)
アイリーンの時は当然だと思っていたが、なかなか過酷な気がする。前世の記憶が戻るなんて衝撃的な出来事がなかったら、普通切り替えられない。
だがそれはそれだ。嘆息したアイリーンはベッドから下りて、寝室の扉を開ける。
「わかったわ。お父様に何かご迷惑をかけていないといいのだけれど」
「旦那様はいつも通りでいらっしゃいます。ですが、セドリック様との婚約破棄の件で色々支障が出たようで……その件についてかと思います」
「そう」
そっけなくアイリーンは応じた。ならお説教も仕方のないことだと、気を取り直す。
「嫌なことはさっさとすませましょう。支度をするから──いえ」
魔法がかかった服を見て、アイリーンは怪訝な顔をした侍女に首を振る。
「このままで行くわ。あとで朝食を持ってきてちょうだい」
魔力の名残がそよ風になって足下を流れていく。
どさりと椅子に腰を落として、クロードはまぶたを閉じ、こめかみに指を押し当てた。
「なんなんだ、彼女は」
「あれ、強制転移させちゃったんですか? まさかとんでもないところに送ったり」
「してない。ちゃんと彼女の部屋に送り届けた」
目の前から消えた令嬢がきちんと自室のベッドに落ちたのをまぶたの裏で確認する。何やらぶつぶつ言っている光景が視えたが、聞かないことにした。千里眼は便利だが音まで聞こうとすると神経を使うし、なにより悪趣味な力だと自覚している。
目を開いたクロードの前に、キースがお茶を淹れ直してくれた。
「ならいいですけどねえ。いやー、朝っぱらからにぎやかでしたね」
「王がわざわざ送り届けずとも、俺が窓から屋敷めがけて放り投げてやったのに」
「それは死にますって」
「あれは殺しても死なない女だ」
真顔で断言したベルゼビュートに、キースは苦笑いを浮かべる。
クロードも否定はできなかった。
「あれはまたくるのでは? どうされる、王」
「飽きるまで放っておけばいい」
「あのお嬢さんが飽きるより、クロード様がどうにかなる方が早い気がしますがねぇ……」
「魔王様、魔王様! 伝令! 皇帝ノ使イ、クル!」
真っ黒なカラスがテラスでばたばたと羽ばたきながら鳴く。おやおやとキースが笑った。
「今日はお客さんが多いですね」
「魔物達に門の内側に入るように伝えろ。結界を張る」
クロードの言葉を聞いてカラスはすぐさまばたばたと飛び去っていった。それを見ながら、ベルゼビュートが進み出る。
「王。追い返すのであれば、俺が向かう」
「だめですよ。不戦条約があります。あなた方が魔王様のためとはいえ暴力を振るえば、それだけまたうるさく言われますよ、色々ね」
キースの嘲笑まじりのたしなめに、ベルゼビュートは舌打ちした。
「本当に人間はおろかだ。王が命じない限り我らは人間を襲わない」
「そういえばクロード様、アイリーン様はどうして城に入れてあげたんです?」
「自分の足で僕に会いにきたからだ」
だから、話くらい聞いてやろうと思った。それだけ。
(用件はくだらなかったが。ああ、でも……)
──あなたの強さを、尊敬します。
(だめだ、気を許すな。……魔物にまだ、なりたくないなら)
再度目を閉じる。この城とその周囲にある森を囲う柵にまで、意識の範囲を広げた。
誰もこの城にはたどり着けない。たどり着かせない。
ここは、魔王の城なのだから。
ルドルフ・ローレン・ドートリシュといえば、エルメイア皇国一の切れ者宰相として有名な人物だ。だが、一見して彼がそうだとわかる者はいないだろう。
初対面の人は、全員が全員、あんな穏やかで頼りなさそうな人が──と言うに違いない。
「ああ、アイリーン。よくきたね。朝早くからごめんね、今しか時間がなくて」
書斎に入るなり、にこにこ父親が手招きする。黒檀の執務机の前にある応接ソファに、アイリーンは腰を下ろして、父親が向かいに座るのを待った。
「セドリック様の件は残念だったね」
「申し訳ございません、お父様」
セドリックとの婚約は政略結婚──政治的駆け引きに関わることだった。ドートリシュ公爵家をより盤石にするための大事な一手だったはずだ。しかも婚約破棄に関する醜聞は、宰相である父親の周囲にも影響が出ているだろう。
──この父親に影響があるかどうかはさておき。
「仕方がないよね。お前は明らかにセドリック様の好みからはずれていっていたから」
悲しそうに告げられて、アイリーンは真顔になる。そしてもう一度謝った。
「……本当に申し訳ございませんでした」
「それでも、ドートリシュの名前があればもつかと思っていたんだけれどもね。いやはや若者の愛は強い。お前も『セドリック様がわかってくれるからいいの』が口癖で」
「本当に本当に申し訳ございませんでした」
「さすがに落ちこんでいるのかと思っていたんだけどね。引きこもっていると聞いたし」
ふう、と父親はそこで溜め息をついた。
「なのに思ったよりお前が元気で、お父様はがっかりだ……」
心底残念そうに言われて、アイリーンは頰を引きつらせた。
(相変わらずのドS! 娘が婚約破棄されたっていうのに!)
優しい父親は他人の不幸を見るのが大好きという、非常に厄介な性格の持ち主である。それは家族でも例外ではない。むしろ家族の方が、愛をもって隠さない分、ひどい。
わからない問題があると言えば喜んで横で観察され、何かに負けて悔しがっていれば楽しげに敗因を分析される。おかげでアイリーンは並大抵の中傷と挫折に膝をつかないたくましさを手に入れたが、泣くよりも解決策を提示し、落ちこむよりも戦うことを選ぶかわいげのない性格に育ってしまった。
そう考えると、セドリックにふられた原因はこの父親にあるような気がしないでもない。
「お父様はもう、いつお前がフラれるかと毎日毎日楽しみにしていたのに」
「……わたくしがフラれると毎日毎日確信を得てらしたんですね」
「これ以上はあまりないなっていうくらい、みじめなフラれ方をしたのに……ああ、なんて可哀想なんだ、アイリーン……泣き濡れるお前はきっと世界一可愛かっただろうに……!」
「そういう妄想をして楽しんでらしたんですね?」
「なのにお前ときたら、すっかり元気そうで。使用人達が止めるから諦めたんだけど……やっぱり部屋に突撃すればよかった」
優秀な使用人達に感謝しながら、アイリーンはできるだけ平常心をもって答える。
「わたくし、すっぱりセドリック様のことは忘れることに致しましたから」
「そうかい。まあ、それがいいね。まさかあそこまで愚かだとは思わなかった」
薄い笑みを浮かべて、ルドルフがあっさり切り捨てた。その躊躇のなさに、娘ながらぞっとする。
「でもアイリーン。かといってお前の立場が正当化されるわけでも、家の名誉が回復するわけでもないんだよ」
「……わかっております。ドートリシュ公爵家に恥をかかせたことは、反省しています」
「じゃあ、本題に入ろう」
にこやかに父親が指を組んだ。楽しそうだ。
つまり、アイリーンにとって面白くない話が今から始まる。背筋を正した。
「お前、事業を起ち上げようとしていたね。薬の開発と販売、あと販路のための運送業、道路の整備のための土木業」
「? はい。ドートリシュ公爵領を産地とすることで原材料をおさえ、流通を工夫し利益を上げる形にすればいいと、お兄様に教えていただいて……」
ドートリシュ公爵領は広く豊かだ。だがその豊かさは平均値であり、土地が広い分、地方と格差が生じている。そのため、豊かではない地域──要は土地があるだけのだだっ広い田舎だ──を豊かにすべく、兄達はその土地に生息する植物の活用方法を考えたり、特産物を作ることで領民の生活水準を上げるべく奮闘している。そこへアイリーンも一枚嚙ませてもらった。
公爵令嬢、しかも皇太子の婚約者が商売だ。当然、批判は出た。だが薬の開発は公共性が高いという理屈で周囲を黙らせた。扱いの難しい薬品より先に、石鹼や軟膏、消毒液といった気軽に使える安いものを市民に普及させることで利益も見こめた。
実はエルメイア皇室の財政は見た目ほど豊かではない。だからせめて自分が嫁ぐ際に莫大な持参金を持てるよう、セドリックのために──とそこまで思い出して頭を切り替えた。
「お父様にも了解いただけたはずですが、それがどうかなさいましたか」
「それらはすべてセドリック様に引き継がれることになった。公共事業になったと言い換えてもいい」
「は……?」
ぽかんとしたアイリーンに、皮肉な笑みを浮かべて、ルドルフが告げた。
「お前、事業のために設立した商会をセドリック様との共同名義にしていたね。薬というのは毒物でもある。国の管轄におくのが妥当だと言われたら反論できないだろう?」
流通の確保、販売路から薬の処方箋まで準備し、試薬の評判は上々だった。つまり。
「売り上げだけ横取りですか!?」
愕然としたアイリーンの声に、ルドルフは楽しそうに笑った。
「リリア様がお前に任せっぱなしではいけないと進言なさったらしくてね。セドリック様がやる気になられたそうだ。セドリック様も商売をすることで庶民目線や金銭感覚を学べるかもしれないし、ま、よいことだよね」
「いえいえいえいえ、横取りですよね!? いいところだけとっていったってお話では!?」
「これはお前の落ち度だよ、アイリーン」
柔らかく言われて、はっとアイリーンは口をつぐんだ。父親の目が笑っていない。
「本来なら一方的な婚約破棄というのは、皇族相手でも批判されるべきことだよ? なのに婚約破棄されて当然という空気のせいで、うちは慰謝料もなし、事業の資金もとられただけ」
「い、いたらなくてすみません……!」
「本当にお前は母様そっくりで男を見る目がないうえに、可愛いのに媚も売れないなんて」
非難の響きがまったくない、ただの事実の指摘にぐうの音も出ない。
苦悶しているアイリーンに、ルドルフは嬉しそうに目を細めている。それが愛だとわかっているがもう少し自粛してほしい。
「しかもね」
「まだあるんですか」
「あるんだよそれが」
半ば睨み返すように父親を見ていると、ルドルフは文鎮の下に重ねてあった封書の束から一つだけ、すでに開封されているものを差し出した。
「招待状を昨日、いただいたんだよ。二ヶ月後の夜会だ」
「夜会? 今のわたくしにですか」
夜会は集団見合い、結婚相手を探す場所だ。婚約破棄されたアイリーンは当分自粛するのが普通で、招待する側も外聞の悪い娘を呼びたくないと声をかけなくなるものだ。
「一体どこの空気が読めない馬鹿からのお誘いですか」
「セドリック様とリリア様からだ」
めまいがした。
「あ、手紙も入ってるよ。リリア様から直筆の。内緒ですけど婚約発表もかねるので、ぜひお出でくださいっていう。私も呼ばれてる。大物だね、リリア様は」
「……そう、ですわね……わたくしも、見習いたいですわ……」
「この夜会ではお前から譲り受けた事業を元に、セドリック様が新しい政策をお披露目するらしい。同時にお前は婚約破棄の書面に皆の前でサインしろ、とのご命令だ」
──つまりもう一度、公の場でセドリックにふられろ、ということだ。婚約破棄の書面へのサインなど、内々にすませられる。それをわざわざ公の行事にするなんて。
(……どうしても、わたくしをやりこめたいのね。それとも、自分達が被害者だから本気でそれが正しいと思っている?)
あり得そうで笑えない。
「さらに、事業譲渡の承諾のサインもして欲しいそうだ。公に頭を垂れることによってお前の悪評を少しでもおさめてやろうという、慈悲だそうだよ」
全ての感情を押し殺して、アイリーンは肩から息を吐き出した。
「……つまり、欠席したらセドリック様の慈悲をはねつけたことになり、出席したら会社を乗っ取られ公衆の面前で再度の婚約破棄をされる。どちらにしてもいい笑いものですわね」
「それで、お前はどうする?」
普通に考えれば選択は断るの一択だ。サインだけ送りつければ形式上は問題ないし、時間も無駄にしない。欠席して嘆いてみせれば周囲の同情もひけるかもしれない。──だが、しかし。
「出席致します。喧嘩を売られたら買って叩き返す主義なので」
あれだけ啖呵を切っておいて、今更しおらしくしてもしょうがない。同情もまとめて蹴飛ばしてやると、アイリーンは微笑む。ルドルフが満足そうに頷いた。
「いいねえ。それでこそドートリシュ公爵家の娘だ。ここまで馬鹿にされて尻尾巻いて逃げるような娘なら、公爵家から除籍して下町にでも放り出してやろうかと思ったよ」
この父親なら泣き真似をしながらやりかねない。頰を引きつらせつつ、相槌を返す。
「常識知らずとお父様も悪く言われるかもしれませんが」
「大丈夫だよ。ちゃんとアイリーンのかげ口をたくさん聞いてうんうん頷いて謝罪して、あとからリストに名前を書くよ」
「なんのリストか聞きませんが、お父様がよろしいのならそれで」
「じゃあ夜会までに、ドートリシュ家が受けた損失を取り返すだけの利益もあげてね」
なんでもないことのように言われて、眉をひそめた。
「さらっととんでもない要求をつきつけないでください。利益って、また新しい会社でも起ち上げろと? わたくしはお兄様達ほど優秀ではありませんのよ。しかも二ヶ月でなんて」
「それは自分で考えなさい。皇妃にもなれず、疵物のままですごす娘などお父様は持った覚えはないよ」
にこりと笑う父親の目が本気だ。
ふと背筋が寒くなった。夜会で欠席を選び、家と自分の名誉を回復しようとしなければ、本気でこの父親は、公爵令嬢としてのアイリーンを切り捨てるのかもしれない。
セドリックは皇太子だ。アイリーンはいずれ皇帝になる人間から疎まれた。どこかで巻き返せなければ、疵物の令嬢としていずれドートリシュ公爵家のお荷物になる。
(確か、ゲームでも平民に落ちる展開があったような……うっすらとしか覚えてないけど)
微妙に今、何かの不幸フラグを回避したのかもしれないと思うとほっとする。それに、父親の要求をこなすアテがないわけではない。ドートリシュ公爵家の力も今なら使える。
そもそも、魔王を飼うのにお金は必要だろう。
(あとはクロード様ね……それも感触が悪かったわけではないし。なせばなる、よ)
腹は括った。その分、今夜はよく眠れそうだった。
──が、その夜。夜中に飛び起きたアイリーンは叫ぶ。
「夜会に出席の方が下町に放り出されるフラグじゃないの! なんなの、この記憶の取り戻し方の出遅れ感は!! 神様の嫌がらせ!?」
真っ暗な天井に向かって吠えたアイリーンに答えてくれる親切な神様は、当然、いない。