夜空に向けて真っ黒な鴉がばさっと音を立てて飛び立つ。
首を竦めたアイリーンの行く先を、黒猫がよぎっていった。
不吉な予感だけが行進する道のりだ。だがアイリーンは細身の剣を片手に持ち、顎を引いて、深夜の森の中をカンテラの灯りだけを頼りにまっすぐ歩く。
がさっと巨大ネズミが茂みから飛び出して、足を止めた。一つしかない大きな目玉がぎょろりとアイリーンを見る。耳は異常に大きく、牙も鋭く口からはみ出ていた。
(……魔物。第一層では滅多にお目にかからないけれど)
カンテラの灯りを向けると、魔物ネズミは向かいの茂みに飛びこみ、姿を消した。ほっと息を吐き出し、剣を握り直して足を進めようとして気づく。
「鴉……? どうしてみんな頭蓋骨の上にのってるのかしら。まさかあれも魔物?」
しかも枯れた木の上にずらりと並んでアイリーンを見下ろしている。一斉に襲いかかられたらたぶん、いや確実にただではすまない。
があがあと鳴く声がどう自分を仕留めるかを話し合っているみたいだった。
(さすがにあの数はつらいわね……いえ、弱気は駄目ね。ここで引いたら死ぬのよ)
進んでも死ぬかもしれないが。
「一応、わたくしだって聖剣の乙女の血を継いでいるのだし、その手の加護があったりしないかしら? まあどうせ、その時がくるまで死なないと思うけれど……」
自分が死ぬ先の運命が、今死なないことを保証してくれるなんて皮肉だ。自嘲して、カンテラを持ち上げた。照らす道の先には、古く朽ち果てた建物がある。
ずいぶん昔に使われなくなった皇城──廃城だ。
噂が正しければ、そして本当にここがあのゲームの世界ならば、鬱蒼とした森を挟んだ先にあるそこに、目当ての人が住んでいる。
『カエレ』
大きな鴉から発せられた言葉に身を竦めた。喋れるらしい。やはり魔物のようだ。
それを機に、アイリーンを取り囲むように鴉の声が反響する。
『カエレ、ニンゲン』
『ココカラ先ハ、魔王様ノ城』
『魔王様、読書中』
妙になごむ状況報告が混ざっていたが、鴉が喋るこの状況でさすがに笑えない。
『何シニキタ、娘。殺サレタイ?』
『昨日、婚約破棄サレタ娘ダ。復讐カ? クダラナイ』
ぴくり、と目尻を吊り上げた。かあかあと鴉が嘲笑のように続ける。
『アレダケ嫌ワレテ、ヨク平気ナ顔シテラレル』
『エラソウニ色々言ッテタクセニ、ミジメ、ミジメ!』
『オ前、評判サイアク。ワガママ、傲慢、モウ疵物──』
「……やってきた人をいきなり侮辱するのが、ここのやり方なのかしら?」
ぴたりと視線を鴉に据えて睨む。背筋を伸ばして、優雅に微笑んだ。
「魔王の命令で集めた噂? 魔王がそんな低俗な趣味をお持ちだったなんて意外ね」
ぎろりと一斉に鴉の目がこちらに集中した。魔物は魔王を敬愛する。魔王を侮辱するのは、魔物に喧嘩を売ることに他ならない。挑発は自殺行為だ。
だが、魔王に挑む勇者のつもりで、アイリーンはまっすぐ宣言する。
「先触れもなくこんな時間に訪問する無礼はお詫びするわ。でもわたくしはクロード・ジャンヌ・エルメイア様が噂でものごとを判断するようなつまらない方なら、早々に帰ります。安心なさって?」
最後ににっこり笑い、アイリーンは優雅に歩く。すると何故かわめくのをやめた鴉が、陰鬱な森の小道を進むアイリーンを追うように空からついてきた。ふと見ると、茂みの中もアイリーンを追うようにがさがさとうごめいている。
自分から負けるなど許されない。そう教育を受けたアイリーンは、無視して前へ進む。
やがて視界が開けた。
星のない夜空の下に、廃城が現れる。あちこちが崩れかかっており、タペストリーはすすけて破れたまま、蔦に絡まれた支柱は折れていた。城門付近の木は枯れ果てており、小さな池はドス黒く濁り、底なし沼と化している。アイリーンを追い越した鴉たちが降り立ち、いかにもな雰囲気を醸し出していた。
魔王の城だ。
カンテラで浮かび上がる光景に、ごくりと喉が鳴ってしまう。
(……大丈夫よ。本当は優しい性格なはず……でもヒロイン限定とか──あり得るわね)
希望的観測は敵だ。覚悟して行くしかない。深呼吸して、顔を上げた。
人骨らしきものが散らばる切り株の横を通り抜け、進む。錆びた鉄の扉を力いっぱい押すが、なかなか動かない。息を切らして何度か挑んだが、びくともしない。
だからといって諦めるわけにもいかず、再度手を伸ばした時、うしろから声が聞こえた。
「手伝おう」
「あら。ご親切にどうも──」
轟音と一緒に鉄の扉が吹き飛んでいった。反射で浮かべた愛想笑いを引きつらせたまま、アイリーンは鉄の扉を指先一つで吹っ飛ばした相手を見る。
カンテラの灯りに、濃い人影が映し出される。
闇より深い艶やかな黒の髪がさらりと湿った夜風になびき、顔立ちが露わになった。その顔は記憶にあったはずなのに、実際に目にする魔性の美貌に息を吞む。
整った鼻梁や薄い唇、顔立ちの造作も体軀も、何もかもが一級の美術品のように完璧だ。だがそれ以上に印象的なのは、血濡れた紅の双眸だった。
(ス、スチルよりも生の迫力がすごいわ……!)
でもこの顔を自分は知っている。──そのことが逆に、アイリーンに腹を括らせた。
アイリーンには時間がない。婚約破棄は、セドリック攻略ルートのイベントフラグだ。このまま何もしなければ自分は死ぬ。
また前世と同じように、恋も夢も、老後すら謳歌できないまま。
「人間が僕に何の用だ」
魔王であり、エルメイア皇国の第一皇子でもあるクロード・ジャンヌ・エルメイアが赤い瞳に一切感情を宿らせないまま、唇だけを動かす。
怖じ気づいてはいけない。アイリーンは顎を引き、髪をかき上げていつも通り微笑む。
「悪いお話ではありませんわ。わたくし、あなたに求婚しにきました」
反応がないと思った直後、空から雷が落ち、枯れた大木が真っ二つに割れて燃え盛った。まるで神の逆《りん》に触れたかのようだ。
「……」
「誰が、誰に、結婚を、申しこむ?」
微笑が強ばったアイリーンに、淡々と目の前の人物が丁寧に問い返す。その背後ではめらめらと踊るように炎が燃え上がり、周囲を照らしていた。ちょっとした地獄絵図だ。
だが及び腰になっても、負けまいと人差し指を突きつけてみせた。
「で、ですから、わたくし、あなたに求婚しに──!」
自分の周囲に三回立て続けに雷が落ちると、意地も本能に負ける。
返事を聞く前に、アイリーンはそのまま後ろ向きに卒倒した。
婚約者にふられた衝撃で前世の記憶を思い出しました。
こんなことを口にすれば、過保護な兄たちに医者を呼ばれるか、母から修業が足りないと訓練に駆り出されるのがオチだろう。
だから昨夜、婚約を破棄され一人でみじめに帰ってきてからは、ひたすら一人で状況の整理をした。気分が悪いので食事はいらないと言えば、さすがに婚約破棄のショックでふさぎこんでいると思われたのか、家族も今後の話は落ち着いたらと控えてくれて幸いだった。
おかげで、人目に触れずに外出するのも簡単だった。深夜とはいえ、屋敷から抜け出すのにいつも手強いのは、ドートリシュ公爵家の優秀な使用人達である。そっとしておきましょうという言葉が今回ほど役に立ったことはない。
そもそも、今の自分が魔王の城に向かったなんて知られればますます悪評が立つ。
(お兄様達もわたくしには甘いけれど、容赦はしないものね。お父様はあれだし)
わたくし──アイリーン・ローレン・ドートリシュ。
それが今の自分の名前だ。エルメイア皇国の最大貴族、皇族と血のつながりがあるドートリシュ公爵家の一人娘。父は宰相、母は皇太后の姪であり社交界と軍部で一目置かれる公爵夫人だ。加えて兄が三人いるという家族構成である。
末っ子で一人娘のアイリーンは大事にされて育った。特に兄達の溺愛ぶりは有名だ。だがアイリーンは知っていた。それは自分が女で兄ほど優秀でもなく、決して敵にならないからだと。
のけ者の気分だった。だがどんなに勉強しても三人の兄はそれぞれ優秀で、どの分野でもとても追いつけない。ふてくされるアイリーンに、母は何度も諭した。女性には女性の闘い方があると。
アイリーンがそれを理解したのは、八歳の時。セドリック・ジャンヌ・エルメイアというまごうことなき皇子様に跪かれ、婚約を申し入れられた時だった。
有り体に言って舞い上がった。セドリックはとても素敵で、彼に必要とされると思うだけで自分に特別な価値が付加される気がした。
彼に嫁ぐならアイリーンは皇妃になる。皇妃という名前の特別な臣下になるよう、父親に言われた。
それはアイリーンが初めて自分に与えられた期待であり、アイリーンの夢になった。
礼儀作法にダンス、教養は経済から帝王学まで彼の助けになるべく、自分に叩きこんだ。自分が賊に襲われたなどの事態も想定し、足手まといにならないよう剣の腕まで磨いた。
色々できるようになると、セドリックが頼ってくれる。皆もほめてくれる。それが嬉しくて楽しくて、また頑張る。
それを繰り返していたら、いつの間にか「皇太子の婚約者という立場をかさに偉そうに指図する傲慢令嬢」になっていた。
もともと兄と張り合おうとするほど、負けん気が強くて強情だった。正しいと思ったことは譲れないし、言いたいことは言う性格がよく誤解を招いた。君のことならちゃんとわかっているなんてセドリックの上っ面の言葉を信じて、周囲をおろそかにしたのもよくなかった。
気づいたら学園一の嫌われ者になっていて、理解者だと思っていたセドリックからまさかの婚約破棄だ。
もう少し可愛い態度を取ってか弱い女の子を演じていれば、また違ったのだろう。今のアイリーンはほんの少しだけ、客観的にそう思うことができる。
というのも彼女がどんなふうに思われていたかを、ゲームを通じて知ったからだ。
(我ながら、自分が他人からどう見えるかを気にしてなさすぎたわ……かと言って、今更直せもしないけれど。いくら前世の記憶が蘇っても、私はわたくしだもの)
そもそも自分の前世についても、夢の断片のようにしか思い出せていない。
場所は日本というここよりはるかに科学も文明も発達した国だった。だが病弱で一年の大半をベッドですごし、青春も謳歌することなく早世したため、そもそも思い出があまりない。ただ、一番強く覚えている感情が「青春エンジョイしたかった、できれば乙女ゲームみたいな恋希望」なので、重度の乙女ゲーマーだったことは確かだ。
その中でも『聖と魔と乙女のレガリア』はやりこんだゲームだった。聖剣の乙女の伝説が残る、エルメイア皇国という西洋風の国が舞台のゲーム──今のアイリーンが生きているこの世界そのものだ。
ゲームの中でアイリーンという人物は、攻略に高いパラメーターを要求される正統派ヒーロー・セドリックの婚約者だ。そして公爵令嬢という身分の高さを振りかざし取り巻きを引き連れヒロイン・リリアの恋路を邪魔する、典型的な悪役令嬢だった。庶民上がりで貴族の子息達が通う学園に入ったリリアにからみ、正面から嫌がらせをしかける。そしてセドリックの攻略が進むと、セドリックに愛想を尽かされ、婚約破棄を言い渡される。
ゲームの中の話なら笑えるが、現実でアイリーン本人だと笑えない。
さらに最悪なことにこの先、アイリーンはどう転んでも死ぬ。
セドリックのルートはいわゆる正規ルートで、聖剣の乙女という国の伝説に迫っていく。その中でリリアは聖剣の乙女の生まれ変わりであることがわかり、やがて救国の聖女になるのだが、その前に聖剣の乙女が倒すべき敵、ラスボスとして魔王が目覚めるのだ。
その魔王が、アイリーンがたった今、結婚を申し込んだ人物だ。
クロード・ジャンヌ・エルメイア。ゲームの知識が正しければアイリーンより八つ上の二十五歳。セドリックの異母兄であり、かつてエルメイア皇国の皇太子は彼だった。
だが彼は、聖剣の乙女が残した言い伝え通り、魔王の生まれ変わりの証である赤い目と人間では扱えない魔力を持って生まれた。伝え聞いた話では、彼に危険が迫るとどこからともなく魔物の大群がやってくるらしい。何より魔物に好かれ、魔物は彼の命令ならば平気で命も投げ出す。これが魔王でなくてなんなのか。
幼いクロードは何度も殺されかけたが、その度に魔物達が彼を守った。手も足も出ない人間達はクロードの皇位継承権を剝奪し、廃城に幽閉し、存在を無視することで妥協したのだ。
そんな彼は大体のルートで魔王として覚醒し、ヒロインとその攻略キャラの前に立ちはだかる。あるエンディングでは国を滅ぼし、あるエンディングではリリアの中から取り出された聖剣によって斃される。そしてアイリーンはそのどさくさの中で死ぬのだ。
魔王となったクロードが放つ光線にじゅっとやられることもあるし、魔王復活の儀式の生贄になったりもする。モブみたいにナレーションで死亡することも多い。そこに至るまでの扱いも雑だ。アイリーンの出番は婚約破棄までが最大イベントで、その後の処理がめんどくさくなったというスタッフの意気込みが透けて見える扱いだった。
(そりゃ殺しとけばユーザーから文句は出ないでしょうけれど!)
殺される方はたまったものではない。アイリーンだって可哀想だ──確かに彼女の振る舞いにも問題はあっただろう。
でも死んでいいほどではなかったし、本当にただ一人が全ての諸悪の根源だったなんて、それこそゲームでしかあり得ない。
そう思ったあたりで、意識がゆらゆら揺れた。声が聞こえるせいだ。
「……それで何故、人間の娘を王が介抱している?」
「他意はない」
「私は安心しましたよ、皇太子たる者、女性には優しくしておきませんとねぇ」
声は三人分、全員男性だ。
(確か、魔族側の従者と人間側の従者がいたから……スチルだと二人とも美形……)
半覚醒のままで、アイリーンは知識と現実をすりあわせる。
「魔王が人間ごときを助ける必要はない。何が皇太子だ、人間の地位など不要だ」
「この方はエルメイア皇国第一皇子です。私は諦めてませんよぉ。いずれきちんとしたご令嬢を娶って、温かい家庭を築いていただくんですから!」
「──キース。僕にそんな気はないと何度言わせるんだ」
そうだ、人間側の従者はキース。魔王の幼馴染みでもあり、栗色のくるくるした癖毛に眼鏡をかけた、穏やかな面差しの青年だ。小さい頃、魔王に命を助けられたエピソードがあり、人間から迫害されてもクロードに付き従っている。
「ですがこの方、クロード様に求婚したんでしょう。噂はよろしくないご令嬢ですが、クロード様を選んだ点においてだけは評価できますよ」
「それだけだろう。人間の女を飼うのが王の望みだというのなら、用意するが」
「そんな用意はしなくていい、ベルゼビュート」
ベルゼビュートは魔物側の従者だ。まっすぐな長髪と陶器のように冷めた美貌は、醜悪な魔物より悪魔と言われた方が納得する。彼は魔王であるクロードに忠実で、まさしくクロードの命令なら何でもきく。
「大丈夫ですよ、クロード様。なあに、少々評判がアレでもこの城に入ったが最後、私めがきちんとクロード様に相応しい嫁に教育し直しますので」
「だからしなくていいと言っている、キース」
「では人間の女を飼う準備を、我らが王」
「どうしてお前らは僕にそう女性をあてがいたがるんだ……?」
「だが王は怒っていない。あの雷は動揺で落とされたものだ」
ベルゼビュートの言葉に、咽せる音が聞こえた。キースが頷く。
「そうですねえ。クロード様が怒ると、地震だの噴火だの被害が半端ないですから。本気でキレたら竜になっちゃいますし……私めを置いて魔物になっちゃわないでくださいよ」
そうか、あれは怒りの稲妻ではなく動揺の雷だったのか。てっきり自分に狙いを定めて殺しにきたのかと思った。
少しだけ安心して、アイリーンはそっと目を開いてみた。思った通りというか、スチル通りの光景がそこにはあった。
豪奢な椅子に腰掛けお茶を飲むクロードと、それを間にはさんで言い合う従者達。
(……ほんとにここ、あのゲームの世界なのね……)
驚きを通り越して感嘆するようになってきた。とはいえ、自分の生死がかかっているのにのんびり感動していられない。
「とにかく、僕にそんなつもりはないし相手にもそんな気はない。見ろ、剣を持っている。誰かに命令されたか、何かの罠か。いずれにせよ自害でもされたら厄介だ」
「それは誤解ですわ。わたくしは自分の意志で参りました」
声を上げると、スチルが動いた。現実が動き出したかのように。
三者三様の視線が、ソファに横たわっていたアイリーンに突き刺さる。キースは労りを、ベルゼビュートはわかりやすい警戒と敵意を。
そしてクロードは完璧に感情を押し殺した眼差しを向けた。
「剣を持ってきたのは、自分の身を守るためです。敵意ではありません」
「こんなおもちゃで魔物に勝てると? 娘」
ベルゼビュートが鼻で笑った。ソファに行儀良く座り直したアイリーンは、にこりと微笑んで応じる。その視界の片隅で、持ってきた剣がソファの隅に抜き身のまま立てかけられていることも確認した。
「わたくし、抵抗もせずに死ぬのはごめんですの」
「抵抗か。抵抗はいい。とても楽しい」
魔物らしい感想に背筋が粟立つ。だがおくびにも出さず、背筋を伸ばし続けた。するとキースの方がたしなめにかかる。
「やめてくださいよ、人間のお嬢さんを蹂躙するなんて。後始末がめんどくさいでしょう。それでですね、ドートリシュ公爵令嬢」
「アイリーンとお呼びください、キース様」
「へえ、私めのことをご存じですか」
「クロード様のことは、できる限り調べましたわ」
思い出したという方が正解だが、そこまで言うつもりはない。クロードも興味がないのか、眦一つ動かさなかった。
(魔物としての姿が竜で森羅万象を司るのだけれど、人間の器では膨大な魔力を制御しきれなくて、感情が異常現象を引き起こす。設定を知ってはいたけれど、さすがに驚いたわ)
怒りは噴火を。悲しみはやまない雨を。魔王の心の乱れは自然の法則を乱すのだ。
そして彼の感情は魔物にも影響する。今、魔物達が人間を襲わないのは、彼に人間を襲う意志がないからだ。彼が人間への憎しみや怒りにかられて魔王として覚醒すれば、魔物の大軍が一斉に人間達に襲いかかるだろう。
魔王として覚醒した時、彼は竜の姿に変わり、ひとではなくなる。
そしてゲームのラスボスとなり、アイリーンをついでで殺す。
つまり、アイリーンは死にたくなければクロードのラスボス化を防ぐしかない。
そこまでの結論は容易に導き出せたが、そこで問題が発生した。
(どうしてだか魔王覚醒イベントの中身を覚えてないっていう……! 他にも歯抜けみたいに記憶が抜けてるところがあるし! 魔王覚醒はエンディング直前だったとしかわからないってどういうことなの、命かかってるのに!)
おかげで肝心要のクロードが魔王として覚醒するイベントを回避するには、何を回避すればいいのかがわからない。今日にでも思い出せればいいが、命をかけてそんな不確定要素にすがりついている場合ではない──だとすれば、次策を講じるしかなかった。
「それでですね、アイリーン様。あなたはどうしてここへ? セドリック皇子から婚約破棄を言い渡されたそうですが、その復讐に魔物の力を貸して欲しいとかでしたら無駄ですよ。クロード様の方針は基本『毎日を無難にすごす』でしてね」
「まあ、気が合いそう。わたくしも無難、大好きです」
「いや、無難を好む人は普通、魔王に会いにきて、しかも求婚しませんよ?」
「クロード様がわたくしを愛してくだされば、わたくしも無難な人生が歩めますから」
呆気にとられた眼差しが複数返ってきたが、かまってなどいられない。
クロードが唯一魔王にならず人間に踏み止まる理由──それは、リリアへの愛だ。
だがリリアは、クロードを攻略できない。クロードは必ず一度エンディングを見たあとでルートが開放されるいわゆる『二周目じゃないと攻略できないキャラ』だ。ゲームと違い、一周目しかない現実では攻略不可能なキャラであり、必ずラスボスになってしまう。
だったらアイリーンがリリアの代わりにクロードを引き止める存在──すなわち、彼に愛される人物になるしかない。
それが現状で選べる、アイリーンの無難で最善の策だ。
にっこりとアイリーンはクロードに微笑みかけた。
「というわけで、わたくしと結婚致しましょう。幸せにしますわ」
「この人間の女、おかしいのでは?」
「私もちょっぴりそう思いましたね、今……」
「ベルゼビュート、つまみ出せ」
クロードの短い命令に、ベルゼビュートがなんの迷いもなく動く。それを見た瞬間、アイリーンはソファの端に立てかけてあった剣を手に取り、自分の首に突きつけた。
「ベル、待て!」
アイリーンに手が届く前に、ベルゼビュートが止まった。
思った通りの流れに、ほくそ笑む。──ここでヒロインであれば、大人しくベルゼビュートにつかまり、空を飛ぶという貴重な体験をして家まで強制送還されるのだが、別に選択肢があるわけでも好感度にかかわる展開でもないので、大丈夫だろう。
(むしろ脚色していかないと。わたくしを愛してもらわなければ意味がないんだし)
ベルゼビュートを止めたクロードが、眉を少しひそめる。
「なんの真似だ」
「家に帰るならば、自分で帰ります。婚約者でもない殿方に抱かれて空を飛ぶなんてはしたない真似は、断固おことわりします」
「殿方?」
ベルゼビュートが自分の顔を指して怪訝そうな顔をしている。浮かせた腰を椅子に戻し、クロードが言った。
「普通に帰そうとしただけだ」
「いやクロード様。ベルゼビュートさんに抱かれて空から帰るのは普通ではないですよ。おうちの方が卒倒しますって」
「……。わかった、考慮するからその剣を戻せ。心臓に悪い」
「お優しいんですね」
無表情のクロードに、微笑んでアイリーンは剣を元に戻す。キースが顎に手を当てた。
「評判はあれですが、度胸のあるお嬢さんですねえ。……ドートリシュ公爵家といったら大貴族だし、これを逃す手はないかも……」
「キース、無駄話はやめろ。……とにかく君の話は却下だ。帰ってくれ」
ぽんと両手を叩いてアイリーンはにっこり笑った。
「求婚に『はい』と言っていただければわたくし、帰りますわ。簡単でしょう」
「だからそうなる意味がわからない。君と僕は初対面だろう。なのに、どうして僕と結婚したがるんだ。──その」
表情は変わらないまま、クロードが言い淀んだ。
ふわっと部屋の中にそよ風が吹いた気がして、アイリーンはまばたく。
「──君は、僕が、好きなのか?」
「いいえ?」
きょとんと返すと、返事の代わりに部屋の中で強風が巻き起こる。慌ててキースがクロードをなだめにかかった。
「ク、クロード様落ち着いて! 竜巻は勘弁してください!」
「じゃあ一体なんなんだ……!?」
「王よ、心情をお察しする」
「だって初対面でしょう」
「初対面で求婚してきたのは君だろう! 大体、セドリックに婚約破棄されたばかりでよくもそんな破廉恥な真似が──」
ぴたっと風がやんだ。アイリーンがクロードの鼻先に剣を突きつけたせいだろう。冷静になったのだ。