◆◆◆登場人物紹介◆◆◆
●アイリーン・ローレン・ドートリシュ
婚約破棄されたショックで、前世を思い出した転生悪役令嬢
●クロード・ジャンヌ・エルメイア
エルメイア皇国第一王子で魔王。アイリーンの死亡フラグの起点
●ベルゼビュート
クロードに心酔し、服従を誓う魔物
●キース
クロードの幼馴染みで、人間側の従者
●セドリック・ジャンヌ・エルメイア
乙女ゲームのヒーロー。アイリーンとの婚約を破棄する
●リリア・レインワーズ
乙女ゲームのヒロイン。セドリックの恋人
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
思えば、幼い頃からよく変な夢を見た。名前もわからない自分になり、消毒液のにおいがする白い部屋で、仕組みが不可解な機械を持ち、一人きりで遊んでいる夢だ。
夢なので詳細は思い出せない。自分の名前ですら曖昧だ。なのに。
『またアンタはゲームばっかりやって──』
瞳の奥で白昼夢がものすごい勢いで再生された。ぐらりと体が傾き、両手と両膝を冷たく固い床につく。
忘れ物のありかを突然、全部思い出したみたいだ。津波のような情報量に襲われて、頭ががんがんする。
やがて焦点があった視界が、大理石の床を映し出した。磨き上げられたそこには、自分の姿が映っている──はず、だ。
だが、黄金をとかしこんだような髪に神秘的なサファイアの瞳をした、この華やかな美人は誰なのだろう。ほっそりとした首筋と卵型の顔の輪郭を、白い指でなでてみる。
(……この顔……ゲームで見たような……え、ゲーム?)
まばたくと長い睫毛が上下した。その正面に、誰かが立ちはだかる。
金髪の青年だ。唇を歪めて、膝をついている自分を上から見下ろしている。
「そうして跪いて悲しんでみせ、同情をひこうとしても無駄だ。君以外、ここにいる全員がわかっている。俺の婚約者であるのをいいことに散々横暴に振る舞った君に、同情の余地などない、とね」
「──セドリック、様? あなた、本当にセドリック様?」
か細くなった震え声に、金髪を持つ王子様みたいな青年は皮肉っぽく応じた。
「らしくないと言いたいんだろう? でも俺の素はこっちだ。君は何年も婚約者をしていて、そんなこと一つ見抜けなかった」
ずきりとした胸の痛みが、現実感を取り戻させる。
そうだ、ここは現実だ。そして、目の前の人物は、エルメイア皇国の皇太子セドリック・ジャンヌ・エルメイア。幼い頃からの知り合いで、自分の婚約者──そして、大好きだったゲームの攻略キャラだ。
(……ゲーム? 攻略キャラ?)
自分の記憶にうろたえて、周囲を見渡す。だが冷たい視線が突き刺さるだけだった。
今夜は、自分が通う学園の冬学期修了を祝う自由参加の夜会だ。既に教師達は出払っており、いるのは学友達ばかり。なのに誰も彼もが冷たく自分を遠巻きに見ていた。
唯一、労るような目を向けているのは、セドリックにそっと寄り添う女性──名前はリリア・レインワーズという。庶民から男爵令嬢へと転身した学園の人気者だ。
柔らかそうなキャラメル色の髪、ふっくらとした頰に甘そうな唇。大きな瞳は今、自分を案じている。
さすがヒロインだと見上げる格好で観察して、はたと気づいた。
なら、自分は。
「アイリーン・ローレン・ドートリシュ。俺は君との婚約を破棄させてもらう」
「──お待ち下さい、それって!」
自分の名前だ。そして、ゲームでの悪役令嬢の名前だ。
(まってまってまって! そう、セドリック様はわたくしの婚約者で……なら私は)
どこか他人事のように見えていた今の状況に対して一気に思考が巡り出す。焦るアイリーンを、セドリックは嘲笑った。
「俺はもう、自分に正直にリリアと生きていくことにした」
「……アイリーン様、ごめんなさい」
ごめんなさいってなんだ。
その喉の奥からせり上がった激情は、正しくアイリーンのものだった。
再度視界が霞んだが、唇を嚙んで気を確かにもとうとした。もう一度、自分の姿を見てみる。
幾重にもレースを重ねた豪奢なドレス姿で、へたりこんでいる。公爵令嬢にあるまじき、はしたない格好だ。だが、誰も手を差し伸べてくれはしない。
だってこれは、悪役令嬢の婚約破棄イベントだから。
「俺に愛されているという君の勘違いにはもう、うんざりだ」
ならどうして、そんな君が好きだよなんて微笑んだの。
そのみじめな言葉は飲みこむ。それは鉛を飲むような重さだったが、飲みこむと不思議と心が穏やかになった。
(……なんていうか、記憶が戻るにはタイミングがひどいと思うけれど……でも、少しだけ冷静になれたわ)
──要はいいように使われたのだ自分は、と判断できるくらいには。
「何か申し開きがあるなら聞いてやらないでもないぞ」
もしこれが何も知らないまま起こった出来事であったなら、徹底的に闘っただろう。闘う相手を間違えたまま。
そう考えると、余裕が出てきた。薄く微笑み、顔を上げる。
「いいえ、セドリック様。──最初から素直に仰ってくだされば、なにもこんなに大仰な舞台を作って大事にせずともよろしかったのに、とは思いますけれども」
冷めた目で周囲を見渡すと、意味がわかったのかさっと目をそらす者がいた。だがセドリックは鼻で笑い返す。
「俺とリリアの決意表明だ」
「ここでなく公の場なら、ドートリシュ公爵家と皇帝からお叱りを受けてしまう──という脅えからではなく?」
「そんなわけないだろう。君の罪は皆の前で裁かれるべきだと思っただけだ」
「罪? ──つっ」
ぐいと突然横から腕を引っ張るようにして体を持ち上げられた。首をめぐらせ、アイリーンは相手を見据える。
「乱暴にしないでくださる。レディに対してなってないのではなくて」
「何がレディだ。いい加減にしろ、アイリーン。君の所業はもう誤魔化しようがない」
そう言って目の前に書類の束を突き出したのは、幼馴染みのマークス・カウエルだった。未来の騎士団長と目される彼はすらりとした体軀を持つ、寡黙な人だ。正義感が強く、不正を許さない。その威圧感のある眼差しが、アイリーンを罪人のように睥睨する。
「……自分で立てますわ。離してくださる?」
冷めた目でマークスを見返したアイリーンは、自力で立ち上がり、腕を取り返した。差し出された書類を、ぱらぱらとめくる。いわゆる告発状だ。いつの間に集めたのか。
リリアは身分が低いから『先に挨拶するな』といじめられていた。学園祭の劇の演目をアイリーンのわがままで変更させられて、台詞を覚え直したリリアが可哀想だった。言うことに従わなければ、官僚の両親を降格させると脅された──云々、何枚も続く。
すべて匿名で、署名はもちろんない。呆れてばさりと後ろ向きに全部放り投げてやった。
「馬鹿馬鹿しい、これが証拠ですって?」
ひらひらと大量の紙が舞う中で、優雅に笑う。
「マークス。教えて差し上げるわ。『誰々がそう言っている』というのは証拠ではなく、ただの噂、あるいは中傷というのよ」
「ッ、これだけ大勢に告発されながらまだ言い張るのか! ドートリシュ公爵家令嬢であれば誤魔化せると思うな!」
「あら、なめられたものね。ドートリシュ公爵令嬢が本気で誤魔化そうとして、証拠が残るとお思い? しかもこんな幼稚なこと。この学園の学生はいつから幼児になったのかしら」
そう言って天鵞絨の絨毯に落ちた一枚を、靴の先で踏みにじった。そしてにこりと笑う。
「どうしても目を通して欲しいなら、もう一度署名つきで集めてくださる? そうしたらきちんと覚えるわ──一人一人、お名前をね。まさか匿名でなければわたくしみたいな小娘一人糾弾できないなんて、情けないことは仰らないでしょう?」
アイリーンの物言いに、マークスが苛立ちと一緒に吐き捨てる。
「それだけ口が回るのに、謝るという選択肢はないのか」
「謝る? ええ、なら謝りましょうか。リリア様。庶民育ちのあなたに、『身分の高い者から声をかけられなければ話しかけてはいけない』という貴族のルールを押しつけようとして申し訳なかったわ。学園祭の劇の演目も、長すぎて台詞を覚えるのが大変だろうと気を回して変えてしまって、ごめんなさい?」
「アイリーン! リリアを侮辱するのはやめないか」
侮辱されているのはこちらだ。こんな大勢の人間の前で、皇太子本人から婚約破棄を言い渡される。お前はみんなに嫌われているんだぞという、幼稚な告発状まで集めて──アイリーンを皆で笑いものにしようという意図がなければ、こんな展開にはならない。
だが、顔を真っ赤にして怒るセドリックも拳を握って震えているマークスも、瞳を潤ませているリリアしか目に入っていないのだろう。よくよく見ると、周囲の前面に陣取っている学生達は、攻略キャラやその取り巻きだ。
この夜会は自由参加だ。わざわざ申し合わせて出席したのだろう。そして教師が席をはずした瞬間を狙って、仕掛けてきた。
(なんて小ずるい。──いえ、でもしてやられたのはわたくしね)
これ以上ここにいても、むなしいだけだ。むなしさを吐き出し、新しい息を吸った。
「おしゃべりがすぎましたわ。ではそろそろ失礼致します。皆様がお望みだっただろう、泣いてみっともなくすがるわたくしをお見せできなかったことだけが、心苦しいですわ」
最後まで泣くな。いっそ笑え。してやったなどという優越感などかけらも与えるな。
だから、幕を引くのは自分でなければならない。
「では、ごきげんよう皆様。セドリック様──お慕いしておりました」
セドリックが虚をつかれたような顔をした。
だが全てを過去にしたアイリーンは完璧な作法でドレスの裾を持ち上げ、礼をする。そして優雅に踵を返し、シャンデリアの輝きを背に退場した。
泣くまいと歯を食いしばっているからか、ずきずきとこめかみが痛む。それでもひたすら考え続けた。
ゲームの展開だと、これから自分は『顔も見たくない』というセドリックの一存で、今の学園から無理矢理退学させられる。なら、その前に自主退学してしまおう。ゲームの終了は学園の卒業式。まだ三ヶ月ほどある。その時間を有効に使わねばならない。
他にもいくつかイベントがあったはずだ。まだ記憶が混乱しているのか曖昧な部分が多いが、確かアイリーンはこれから公爵家から勘当を言い渡され下町に放り出されたり、自滅の道を歩んでいく。
(そうよ。ここが本当にあのゲームの世界なら、泣いてる場合じゃない)
──そうして皆が学園を卒業するだろう三ヶ月後、いわゆるエンディングの時、悪役令嬢のアイリーンは死んでいる。
「冗談じゃないわ」
泣いてなどやらない。諦めもしない。あんな連中の幸福のために、死んでなどやらない。
考えろ。思い出せ。この状況で何かできることは──そこまで考えてはっと瞠目した。
「……敵の敵は味方、って言うものね?」
くすりと赤い口紅を引いた唇だけで笑う。
その微笑は悪役令嬢そのものだっただろうが、涙はこぼさずにすんだ。