第三章 推しの唇なんて恐れ多くて触れない1



「あ! 止まってください!」

 後ろから声が聞こえて、立ち止まる。振り返ると、ふわふわのかみらして、その少年はあわてていた。

「あ、あの、大きな声出して、ごめんなさい。でもまれるのは、怖いから」

 少年はそばに走ってくると、足元を指さす。そこには小さな花が咲いていた。

 優しいのね、と言うと、彼は困ったように笑う。

「いいえ、僕は、臆病おくびょうなだけです。怪物かいぶつと戦うのも、本当は怖い。でも……」

 海のように青いひとみがこちらを見つめてくる。その思い詰めた表情からは、彼の真剣な様子がうかがえた。

 明日は彼ら聖騎士せいきし達が、怪物の王、テュポンにいどむ決戦の日。

「あなたを守れると思うと、勇気がいてくるんです。だからどうか、あなたのいる世界を、僕に守らせてください。こんな僕だけど……信じて、待っていてくれますか?」

 もちろんとうなずき、彼の手を取った。今はまだ小さいけれど、きっとこれから大きくなっていく手。にぎる手に込められた力には、優しい力強さとあたたかさがあった。

「あなたがいるって思えば、僕は何にも怖くない。だからどうか、言わせてください」

 はにかんだみを浮かべて、少年――キャンサーははずんだ声で言った。

「僕はあなたのことが、大好きです!」


◆◆◆


「――カ……サヤカ――キャンサーが……――」

 キャンサー。その名前に、サヤカの脳裏のうりに、はにかんだ笑顔のイベントスチルが鮮明せんめいに思い起こされる。

「キャンサーちゃん、世界可愛かわいい選手権優ー勝ー!」

 自分の大声で目が覚めた。まぶたを開けた瞬間しゅんかん見えたのは、ジルの顔。何か言いたげだったが、すぐに綺麗きれいな笑みを浮かべた。

「おはようございます、サヤカ」

(今、絶対「うわあ……」って言いそうな顔してた……)

 しかし言わずに、サヤカと目が合った瞬間そのどん引き顔を消してくれたジルは優しいと思う。思うが、ずかしいものは恥ずかしい。むしろ気をつかわれたのがつらく、顔をおおう。

「死にたい……っていうか! だから! 何でいるのよ!?」

「何度起こしてもあなたが起きないからです」

 昨日、キャンサーがメイドに変装へんそうして屋敷やしき侵入しんにゅうしてきた。しかし不慮ふりょの事故が原因で、彼はサヤカに忠誠ちゅうせいちかい、星の力を渡すことになった。その日一日キャンサーが起きることはなく、サヤカも夜には眠りについたのだった。

「キャンサーが目を覚ましましたので、一応お呼びしようかと」

「え、本当!? 大丈夫なの!?」

「ええ、元気ですよ。あなたに会いたいとわめいていますから、支度したくしてください」

「キャンサーが、私に……?」

 先ほどまで夢で見ていたキャンサーの笑顔がサヤカの脳裏に浮かぶ。あの笑顔を、今、サヤカは間近で見られるのだ。

「わかった! 三十秒で支度する!」

「もう少し時間をかけなさい」

 ピシャリとジルに言われ、冷静になった。ジルが出ていってから、昨日きのうステラ――に変装していたキャンサーが用意してくれたドレスを着て、ドアに向かう。

 あの天使のような笑顔のキャンサーが待っているなんて。サヤカは期待に胸をふくらませ、顔をゆるませながらドアを開けて廊下ろうかおどり出る。

「ふふふっ。待っててキャンサーちゃ――」

「ぐえっ!」

 足元で、かえるの鳴き声のような声がした。

「ぐえ?」

 足元を見ると、キャンサーのおなかを思いきりんづけていた。サヤカは蒼くなってさけぶ。

「何でそんなとこで寝てるの!?」

「踏んでもらえるかと思って……。おはようございます、サヤカさまっ!」

 キャンサーは床に仰向あおむけになったまま、天使のような笑顔を咲かせる。サヤカが見とれそうになっていると、彼はその笑顔のまま言った。

「クソ雑魚ざこ最弱野郎やろうって呼びながら、もう一回お願いします!」

「いやあー! キャンサーちゃんはそんなこと言わないー!」

 サヤカが耳をふさいでその場にくずれると、その前にキャンサーはひざかかえて座り、にこっと可愛らしい笑みを浮かべて小首をかしげる。その仕草も笑顔も完璧かんぺきな美少年だ。

「やだな、僕はキャンサーですよサヤカさまっ。あなたの役に立たない下僕げぼくです!」

「その笑顔は天使のように可愛いけど台詞セリフがバグってんのよ! デバッガー仕事しろー!」

「言ったでしょう? 元気だと」

 サヤカが悲痛な叫びを上げるそばで、ジルの冷静な声が聞こえた。

「こんな元気は期待してなかったの! ていうかジル! キャンサーの性格、戻ってないじゃん! キャンサーはこんな子じゃなかった! もしかしてのろい、けてないんじゃない?」

「いえ、もう彼に星の力はありませんから、呪いもなくなっているはずです」

「じゃあ何でこんなに性格変わっちゃってるの!?」

 サヤカが泣きそうになっていると、キャンサーの目に戸惑とまどいの色が浮かぶ。

「何で星の力がないって、この人にわかるんですか? 呪いのことだって……」

 キャンサーがサヤカに向かってたずねるが、それはサヤカも知らないことだ。サヤカがジルを見つめると、彼はサヤカではなくキャンサーを見て言った。

「サヤカは聖騎士から星の力を奪うお方だ。俺はそれを補佐ほさする役目を担っているのだから、情報を集めておくのは当然だろう」

 キャンサーは大きな目を細め、ジルをにらむ。

「一体だれらしたんだか知らないけど、呪いはなかったんだよ」

「では、サヤカと共に見た、カルキノスの様子は何だったと思うんだ?」

 サヤカから聞いたとすぐに察したのだろう。キャンサーはサヤカを見てから、わずかに戸惑い、視線を足元に向けた。

「あれは……確かに、あの気配は怪物に似ていたけど……」

 ぎゅっと彼の手がにぎり締められる。彼から感じられるのは、恐怖きょうふではなく、くやしさのように見えた。

「……ねえ。キャンサーも、自分で感じてたんじゃない? 自分が何かおかしいって」

 サヤカがそう言うと、キャンサーは一度目をみはった。愕然がくぜんとした表情を浮かべ、キャンサーはぽつりぽつりと言葉をこぼすように口にする。

「僕は、臆病な自分がきらいで、ずっと恐怖きょうふ克服こくふくしたかった。テュポンとの大戦の後から、何も怖くなくなったって気付いて、だから本来の身のたけに合わないこともたくさんやって……」

 キャンサーは自分の身体を見つめる。真新しい包帯ほうたいかれたうでや足が痛々しい。胴体どうたいにも当然、傷と治療ちりょうあとがあるのだろう。

「テュポンを倒せたから、何も怖くないんだと思ってたけど、違った。無茶してた、だけだったんだ。……何で僕、こんなに傷だらけなんだろう。バカみたいだ」

 独りごちたキャンサーの声を聞いた直後、サヤカは彼の肩に手を回し、ぎゅっとき締めていた。

「サヤカ、さま……?」

「こんなの、ひどい……っ」

 くやしい。どうして、キャンサーがこんなに傷つかなければいけなかったんだろう。

 にじんだ涙をぬぐってから、サヤカはキャンサーの青い目を見つめる。

「キャンサーは怖がりなんじゃない。優しいの。誰よりも傷つく怖さを知ってるでしょ? だからみんなを守れたの。私は知ってる」

「どうして、サヤカさまがそのこと……」

「私はあなた達のことを、直接じゃないけど、よく知ってるの。だから優しいあなたをおかしくさせたこの呪いが、許せない」

「呪い……。そっか。昨日までの状態が、呪いだったんだ」

 両手を見つめていたキャンサーは、心なしか蒼くなった顔を両手で覆った。

「怖い……。この感覚、久しぶりだ。……サヤカさまは、これが、大事だと?」

 キャンサーの心許こころもとない言葉に、サヤカは強くうなずき、彼の傷だらけの手を優しくにぎった。

「うん。だからもう、昨日きのうみたいにみずから傷つくような真似まねはしないで。あんなことしなくても、キャンサーは強いんだから」

「……そう、なのかな。もう僕には星の力もなくて、すごく、怖いけど……」

 そう言ったキャンサーの手は、確かに冷たくなり、ふるえていた。サヤカが心配して見上げると、キャンサーはサヤカの目を見て微笑んだ。同時に、その手に力が込められる。

 キャンサーのひとみの奥に、星よりも目映まばゆい意志が確かに見えた。

「こんな風に、怖い思いを誰にもしてほしくない。だから僕は、星の力がなくても、人々を守りたいって思えるんだ」

「キャンサー……!」

 微笑んだキャンサーを、サヤカは滲む視界でしっかりと見て、ぐっとこぶしを握る。

「これよ、これが本来のキャンサーちゃんなのよ! やだ、うれしくて泣きそう……!」

「手遅れでは?」

 冷静なジルの言葉通り、サヤカの目からは大粒の涙が流れていた。

 はにかむように微笑んでいたキャンサーだったが、ふと何かを思い出して瞳をかがやかせた。

「あっ、でもサヤカさまには踏まれたいです!」

 きした目で言われ、その言葉を理解するのに三秒ほどかかった。理解したあと、サヤカは涙を引っ込めてジルを振り返る。

「ジルー! やっぱりこの子呪われたままじゃん! しっかりしてー!」

 キャンサーの肩を持ってがくがく揺らすが、彼はちょっと嬉しそうに笑うだけだった。

「残念ですが、サヤカ。それは呪いとは関係ないと思いますよ。被虐ひぎゃく的なことを言い出したのは、サヤカにつぶされてからでしょう?」

 ジルの言葉を聞いたキャンサーが声を上げる。

「そう! そうなんです! 僕、今までは踏まれてののしられたら、怖かったりムカつくだけだったけど……あの時のサヤカさまの冷たい目を思い出すと、すごくドキドキして……っ」

「何でそんなことになっちゃったの!?」

「……サヤカさまは、ゆがんでた僕のことを、本気でしかってくれたから……かも」

 はずんでいた声の調子を突然落とし、キャンサーは笑みを消して考えこんでから、口を開いた。

「僕は自分が間違ってるって、わかってたんだと思います。間違った振る舞いをしてた僕を、誰かに止めてほしかった……自分ではもう止められなかったから。そんな僕を、サヤカさまは本気で怒ってくれました。本来の僕を、理解してくれた上で。……嬉しかった」

 その言葉通りに微笑み、キャンサーはサヤカを見て、頬を紅潮こうちょうさせる。

「だからそんなサヤカさまから与えられる痛みなら、嬉しい痛みなんですっ!」

「待て待て待てー! じゃ、じゃあ、これ……私のせいだっていうの?」

 自分の顔色が蒼くなっていることは、鏡を見なくてもわかった。サヤカはジルにすがるように視線を向けたが、彼はフォローすることもなくあっさり頷いた。

「でしょうね。いいじゃないですか。これでこいつはあなたに忠誠を誓ったわけですし」

 冷静というより、どこか諦めた目でジルはそう言った。

「ってことなんで、責任取って下僕げぼくにしてくださいね、サヤカさまっ」

 頬をめた愛嬌あいきょうたっぷりの笑顔と言葉に、ハートが飛び散っているようにサヤカには見えた。しかし可愛いからと言って、許せることではない。その笑顔でうっかり許しそうになるけれど。

「いやああああ! 戻って! 元の優しくて可愛い正気のキャンサーに戻ってぇ!」

「そんなこと言われても正気だし……あ! 踏んでくれたら元に戻るかも!」

「それただ踏んでほしいだけでしょ!? なに名案みたいな顔してるの! 踏まないから!」

 サヤカがキャンサーに怒鳴どなっていると、ジルが手を鳴らし、不毛な会話を切り上げる。

「はいはい。そういうことは俺がいないところでお願いします。それよりも、今後の方針を決めておきましょう」

「今後の方針って……聖騎士達のこと?」

 サヤカにうなずき、ジルはキャンサーを見遣みやる。

「テュポンの呪いはこういうことだ。お前も協力するかいなか、決めてもらおう」

 キャンサーはムッとした表情をしつつも、真剣な目でジルを見つめ返す。

「何かこの人はえらそうでムカつくけど……。僕だって、仲間だった聖騎士達が呪われてるって聞いて、放っておけないよ。ようやくわかったけど、今の聖騎士達は、明らかにおかしいし」

「今まではわかってなかったのか?」

 ジルの厳しい視線に、キャンサーは気まずそうに視線をらす。

「……おかしいとは、思ってなかった。みんな僕より強いし年上だから、みんなのやることが間違ってるとは思えなかった。これは僕の思考停止がまねいたことでもあるかも。だから、聖騎士のみんなを元に戻せる方法があるなら、僕はやるよ」

「では、お前は聖騎士の星の力を奪うサヤカに協力するということでいいんだな?」

 キャンサーはジルにうなずいてから、サヤカの前にひざまずいた。

「僕の忠誠は、サヤカさまに。最弱ではありますが、僕はあなたをお守りすると誓います」

「こういう時だけ騎士らしくするのずるくない!? ずるい! 最高!」

「今なら椅子いすにもなれますよ!」

「しないから期待しないで!」

 可愛い笑顔とさりげない要求のギャップがひどくて、サヤカは顔を覆う。そんなサヤカは放置し、ジルがキャンサーを見下ろした。

「星の力がないと、怪物に対抗たいこうできないだろう。怪物は放っておくつもりか?」

「そんなことしない。だけど、このまま聖騎士を放っておくのは、絶対によくない。僕は寸前で助かったけど、あのままならきっと近いうちに死んでた。僕はサヤカさまに協力するし、お守りもするけど、同時に怪物のことも調べる。僕は元々、地味な諜報ちょうほう活動のほうが得意だし」

「サヤカと俺の邪魔じゃまをしないならそれでいい。――話し込んでしまいましたね。続きは食堂でしましょう」

 そう言ってジルは一足早く食堂の方へ歩いて行く。

 その横顔に笑みが浮かんでいるのが見えた気がして、サヤカはもう一度彼を見つめた。しかし先を行く彼の表情はそれ以上見えず、綺麗な銀髪が揺れているだけだった。


※次回:2019年2月27日(水)・17時更新予定

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