第三章 推しの唇なんて恐れ多くて触れない1
「あ! 止まってください!」
後ろから声が聞こえて、立ち止まる。振り返ると、ふわふわの
「あ、あの、大きな声出して、ごめんなさい。でも
少年はそばに走ってくると、足元を指さす。そこには小さな花が咲いていた。
優しいのね、と言うと、彼は困ったように笑う。
「いいえ、僕は、
海のように青い
明日は彼ら
「あなたを守れると思うと、勇気が
もちろんとうなずき、彼の手を取った。今はまだ小さいけれど、きっとこれから大きくなっていく手。
「あなたがいるって思えば、僕は何にも怖くない。だからどうか、言わせてください」
はにかんだ
「僕はあなたのことが、大好きです!」
◆◆◆
「――カ……サヤカ――キャンサーが……――」
キャンサー。その名前に、サヤカの
「キャンサーちゃん、世界
自分の大声で目が覚めた。
「おはようございます、サヤカ」
(今、絶対「うわあ……」って言いそうな顔してた……)
しかし言わずに、サヤカと目が合った瞬間そのどん引き顔を消してくれたジルは優しいと思う。思うが、
「死にたい……っていうか! だから! 何でいるのよ!?」
「何度起こしてもあなたが起きないからです」
昨日、キャンサーがメイドに
「キャンサーが目を覚ましましたので、一応お呼びしようかと」
「え、本当!? 大丈夫なの!?」
「ええ、元気ですよ。あなたに会いたいと
「キャンサーが、私に……?」
先ほどまで夢で見ていたキャンサーの笑顔がサヤカの脳裏に浮かぶ。あの笑顔を、今、サヤカは間近で見られるのだ。
「わかった! 三十秒で支度する!」
「もう少し時間をかけなさい」
ピシャリとジルに言われ、冷静になった。ジルが出ていってから、
あの天使のような笑顔のキャンサーが待っているなんて。サヤカは期待に胸を
「ふふふっ。待っててキャンサーちゃ――」
「ぐえっ!」
足元で、
「ぐえ?」
足元を見ると、キャンサーのお
「何でそんなとこで寝てるの!?」
「踏んでもらえるかと思って……。おはようございます、サヤカさまっ!」
キャンサーは床に
「クソ
「いやあー! キャンサーちゃんはそんなこと言わないー!」
サヤカが耳を
「やだな、僕はキャンサーですよサヤカさまっ。あなたの役に立たない
「その笑顔は天使のように可愛いけど
「言ったでしょう? 元気だと」
サヤカが悲痛な叫びを上げる
「こんな元気は期待してなかったの! ていうかジル! キャンサーの性格、戻ってないじゃん! キャンサーはこんな子じゃなかった! もしかして
「いえ、もう彼に星の力はありませんから、呪いもなくなっているはずです」
「じゃあ何でこんなに性格変わっちゃってるの!?」
サヤカが泣きそうになっていると、キャンサーの目に
「何で星の力がないって、この人にわかるんですか? 呪いのことだって……」
キャンサーがサヤカに向かって
「サヤカは聖騎士から星の力を奪うお方だ。俺はそれを
キャンサーは大きな目を細め、ジルを
「一体
「では、サヤカと共に見た、カルキノスの様子は何だったと思うんだ?」
サヤカから聞いたとすぐに察したのだろう。キャンサーはサヤカを見てから、わずかに戸惑い、視線を足元に向けた。
「あれは……確かに、あの気配は怪物に似ていたけど……」
ぎゅっと彼の手が
「……ねえ。キャンサーも、自分で感じてたんじゃない? 自分が何かおかしいって」
サヤカがそう言うと、キャンサーは一度目を
「僕は、臆病な自分が
キャンサーは自分の身体を見つめる。真新しい
「テュポンを倒せたから、何も怖くないんだと思ってたけど、違った。無茶してた、だけだったんだ。……何で僕、こんなに傷だらけなんだろう。バカみたいだ」
独りごちたキャンサーの声を聞いた直後、サヤカは彼の肩に手を回し、ぎゅっと
「サヤカ、さま……?」
「こんなの、ひどい……っ」
「キャンサーは怖がりなんじゃない。優しいの。誰よりも傷つく怖さを知ってるでしょ? だからみんなを守れたの。私は知ってる」
「どうして、サヤカさまがそのこと……」
「私はあなた達のことを、直接じゃないけど、よく知ってるの。だから優しいあなたをおかしくさせたこの呪いが、許せない」
「呪い……。そっか。昨日までの状態が、呪いだったんだ」
両手を見つめていたキャンサーは、心なしか蒼くなった顔を両手で覆った。
「怖い……。この感覚、久しぶりだ。……サヤカさまは、これが、大事だと?」
キャンサーの
「うん。だからもう、
「……そう、なのかな。もう僕には星の力もなくて、すごく、怖いけど……」
そう言ったキャンサーの手は、確かに冷たくなり、
キャンサーの
「こんな風に、怖い思いを誰にもしてほしくない。だから僕は、星の力がなくても、人々を守りたいって思えるんだ」
「キャンサー……!」
微笑んだキャンサーを、サヤカは滲む視界でしっかりと見て、ぐっと
「これよ、これが本来のキャンサーちゃんなのよ! やだ、
「手遅れでは?」
冷静なジルの言葉通り、サヤカの目からは大粒の涙が流れていた。
はにかむように微笑んでいたキャンサーだったが、ふと何かを思い出して瞳を
「あっ、でもサヤカさまには踏まれたいです!」
「ジルー! やっぱりこの子呪われたままじゃん! しっかりしてー!」
キャンサーの肩を持ってがくがく揺らすが、彼はちょっと嬉しそうに笑うだけだった。
「残念ですが、サヤカ。それは呪いとは関係ないと思いますよ。
ジルの言葉を聞いたキャンサーが声を上げる。
「そう! そうなんです! 僕、今までは踏まれて
「何でそんなことになっちゃったの!?」
「……サヤカさまは、
「僕は自分が間違ってるって、わかってたんだと思います。間違った振る舞いをしてた僕を、誰かに止めてほしかった……自分ではもう止められなかったから。そんな僕を、サヤカさまは本気で怒ってくれました。本来の僕を、理解してくれた上で。……嬉しかった」
その言葉通りに微笑み、キャンサーはサヤカを見て、頬を
「だからそんなサヤカさまから与えられる痛みなら、嬉しい痛みなんですっ!」
「待て待て待てー! じゃ、じゃあ、これ……私のせいだっていうの?」
自分の顔色が蒼くなっていることは、鏡を見なくてもわかった。サヤカはジルに
「でしょうね。いいじゃないですか。これでこいつはあなたに忠誠を誓ったわけですし」
冷静というより、どこか諦めた目でジルはそう言った。
「ってことなんで、責任取って
頬を
「いやああああ! 戻って! 元の優しくて可愛い正気のキャンサーに戻ってぇ!」
「そんなこと言われても正気だし……あ! 踏んでくれたら元に戻るかも!」
「それただ踏んでほしいだけでしょ!? なに名案みたいな顔してるの! 踏まないから!」
サヤカがキャンサーに
「はいはい。そういうことは俺がいないところでお願いします。それよりも、今後の方針を決めておきましょう」
「今後の方針って……聖騎士達のこと?」
サヤカにうなずき、ジルはキャンサーを
「テュポンの呪いはこういうことだ。お前も協力するか
キャンサーはムッとした表情をしつつも、真剣な目でジルを見つめ返す。
「何かこの人は
「今まではわかってなかったのか?」
ジルの厳しい視線に、キャンサーは気まずそうに視線を
「……おかしいとは、思ってなかった。みんな僕より強いし年上だから、みんなのやることが間違ってるとは思えなかった。これは僕の思考停止が
「では、お前は聖騎士の星の力を奪うサヤカに協力するということでいいんだな?」
キャンサーはジルにうなずいてから、サヤカの前に
「僕の忠誠は、サヤカさまに。最弱ではありますが、僕はあなたをお守りすると誓います」
「こういう時だけ騎士らしくするのずるくない!? ずるい! 最高!」
「今なら
「しないから期待しないで!」
可愛い笑顔とさりげない要求のギャップがひどくて、サヤカは顔を覆う。そんなサヤカは放置し、ジルがキャンサーを見下ろした。
「星の力がないと、怪物に
「そんなことしない。だけど、このまま聖騎士を放っておくのは、絶対によくない。僕は寸前で助かったけど、あのままならきっと近いうちに死んでた。僕はサヤカさまに協力するし、お守りもするけど、同時に怪物のことも調べる。僕は元々、地味な
「サヤカと俺の
そう言ってジルは一足早く食堂の方へ歩いて行く。
その横顔に笑みが浮かんでいるのが見えた気がして、サヤカはもう一度彼を見つめた。しかし先を行く彼の表情はそれ以上見えず、綺麗な銀髪が揺れているだけだった。
※次回:2019年2月27日(水)・17時更新予定