〇確かめる
本格的な授業の開始は明日からのため、11時半を回る頃には新学年の初日が終わりを迎える。
いいえ、気が付けば終わっていたと言った方がいいかも知れない。
綾小路くんが移籍したという突拍子もない話。
俄かには信じられず、今もけして信じてはいない。
そんなはずがないもの。
そんなはずはない……。
ずっと、同じことを心の中で呪文のように繰り返し続けている。
けれど……。
けれど……これは、勘違いでもなければ夢でもない。
本当に現実としてリアルタイムに起こっていること……。
会いたい。
会いたくない。
正直、会うことに対して怖い部分が無いわけじゃない。
嘘。すごく怖い。
怖くて怖くて、仕方がない。
心の中で葛藤を続けながら、私は自分の両手、その手のひらを見る。
震えている。
想像しただけで身体が震えている。
考えることを放棄し、拒絶しようとしている。
でも……でも、それでも───綾小路くんの真意を確かめなければならない。
諦めるなんてことは出来ない。
まだ、彼の目的が、彼の口から直接語られたわけじゃないのだから。
全てを判断するのは、その確認が取れてからでも遅くないはず。
何か私たちには言えないものを背負っているのかも知れない。
───確かめよう。
その思いだけを頼りに、席を立つ。
「───堀北さん」
私が動くのを待っていたのか、いつの間にか近づいてきていた平田くん。
須藤くんや他の生徒もこちらを見ている。
「悪いけれど後にしてもらえるかしら。今から彼に会ってくる」
余計な雑談に気を回せるほど今の自分には余裕がないから。
私は鞄も持たず、携帯だけを片手に廊下へ出る。
終業のチャイムが鳴ってからそれなりに時間が経過している。
廊下に出ると既に多くの生徒たちが帰り始めている。
そして私はすぐに周囲にいる他クラスの生徒たちの雰囲気から異変を感じ取った。
各クラスの先生から発表があったのか無かったのかは分からないけれど、少なくとも、もう同学年の全てのクラスの生徒たちが綾小路くんのクラス移籍を知っている。
私に向けられる好奇にも似た視線がそれを物語っていた。
もちろん、その視線には様々な意味合いや推測があるのだろう。
スパイとして相手クラスに送り込んだ説。
クラスから追放した説。
裏切られた説。
根も葉もない、憶測だけが無数に飛び交っているかも知れない。
でも今は関係ない。
他人の思考以前に、私たちのクラス、そして綾小路くんの思考が分からないのだから。
礼儀も何もなく、私は元坂柳さんクラスの教室、その扉を勢いよく開いた。
まだ残っていれば───。
そう思ったけれど……。
彼の姿を探しつつ、無意識に机の数も数える。
坂柳さんが自主退学して抜けたはずなのに、席は減っていない。
ただ、そんなことよりも教室の中には数人の男女が残っているだけで綾小路くんの姿は無かった。
「司城くん」
一番傍にいた司城くんに、私は声をかける。
「俺に何か用、か?」
「こちらの用件は分かっているでしょう? 綾小路くんは?」
「数分前に教室を出た。多分だけど、ケヤキモールに行くんじゃないか」
「そう、ありがとう」
ならこの場所にはもう用はない。
廊下に戻ると、一部の生徒からのニヤニヤとした表情がすぐに目に飛び込んでくる。
私たちがトラブルの渦中にいるのは確かだけれど、不愉快だ。
廊下を早歩きしながら、私は携帯で綾小路くんに連絡を取ろうと試みる。
電話のコールは鳴るものの、どれだけ待っても出る気配がない。
気付いていないのか、気付いていて出ないのか。
「堀北さん」
昇降口に向かおうとする私に声をかけてきたのは、松下さんだった。
「悪いけど今は急いでるの」
「分かってる。綾小路くんに会いに行くんでしょ? 私も一緒に行かせて」
足を止めない私のペースに合わせるように松下さんが横に並ぶ。
「どうしてあなたが?」
「……綾小路くんの移籍、その理由を知りたいから。念のためにもう一度確認させてもらいたいんだけど、堀北さんの作戦ってことはないんだよね?」
「生憎とそんな計画は立てていないわ。龍園くんのクラスに移籍させるなら戦略として成り立つものだとしても、Cクラスに落とす意味はほとんどないもの。坂柳さんが抜けた今、あのクラスに入る意味なんてない」
「……だよね。つまり、綾小路くんが誰にも言わず移籍を決断したってことだよね」
「分からない。誰かに頼まれたのか、あるいは脅されたのか───」
大金を積まれて心が揺れ動いたということも……。
そんな妄想を幾つか浮かべ、ほぼあり得ないことだとすぐに脳が理解する。
少なくとも彼はお金で転ぶ人間ではないはずだし、彼ほどの実力者が脅されたくらいで移籍を決断する訳もない。
考えたくはない事実。
つまり、やはり、この移籍は綾小路くんが個人で考え決断したということ。
そうなのではないかという、最悪の想定が浮かぶ。
「今は……憶測で話したくないの。彼から直接聞き出すまでは。だから、あなたは待っていてくれた方が───」
「そうしたいところだけど、私も直接この耳で綾小路くんから説明を受けたい。何か、私たちを納得させるような狙いがあるんだって……語ってもらいたい」
そう、その通りだ。
私も納得のいく答えを知りたい。
彼は私に、いいえ、周囲に多くを語らない。
だから無能だと誤解を受けることもあるし、反感だって買うこともある。
だけど本当は違う。
面倒だと感じながらもクラスのことを想い、手を貸してくれる。
だからきっと、伝えていない狙いがある。
沈んでいくだけに思える元坂柳さんのクラスに、きっと異変や危険を感じ取った。
あるいは……何らかの強力な脅しを受けたことだって考えられる。
だから味方に何も告げず、1人で乗り込んでいる。
そんな───映画のヒーローのような行動。
そう願う私の願望も、もちろん含まれているけれど……。
大切なのは、そこだけじゃない。
相談して欲しかった。
移籍を決断する理由がどんなものであれ。
何も言わずにクラスを去るなんて、そんなこと……そんなこと……。
「綾小路くん……どうして……」
───そんなに、私は頼りない?
「……バカなこと……」
……そう、そうね。
自分で心の中で問いかけても、思わず苦笑いしてしまうような話だわ。
彼から見れば私は、まだまだ子供のようなもの。
隣に並べるだけの資格は有していない。
頼りにされるはずがない。
「───堀北さん、大丈夫?」
「私は……大丈夫よ」
声に出さない声が松下さんに届いたのか、心配そうにこちらを見ている。
「それよりも綾小路くんだわ」
もう、クラスの移動は正式に決まってしまった。
けれどこれが彼の意思でない可能性は、まだ十分残されている。
そうであるなら、絶対に救済しなければならない。
私だけじゃない。クラス総出で、彼のためにプライベートポイントを捻出しなければならない。
1
私は司城くんからの話を元にケヤキモールにやってきた。
適当な生徒を捕まえて聞いた話に沿って、私はカフェにまで辿り着く。
情報通りなら、ここに綾小路くんが来ているはず……。
今どんな顔をしているのか。
今どんな表情をしているのか。
そして、何を考えているのか。
私たちは焦り逸る気持ちを抑えながら、その場所へと辿り着く。
カフェの奥、その一角に綾小路くんと……それからCクラスの生徒である橋本くんと森下さん、Dクラスの一之瀬さんの姿を見つける。
「いた……ね」
「ええ……」
彼はいつもと同じように、淡々と周囲と会話をしているようにしか見えない。
「移籍したこと、何とも思ってない感じだね……」
ほんの1時間ほど前の出来事。
それを、まるで過ぎ去ったものにでもしてしまったかのような……。
「とにかく話を……まずは話をしましょう。全てはそれからよ」
この段階では何も結論付けない。
結論付けてはいけない。
私は重くなりそうな足取りに対して、グッと気持ちを殺して歩みを進めた。
綾小路くんに声をかけよう、そう判断する距離まで詰めた時、こちらに気付いていた橋本くんが急ぎ立ち上がった。
「よう堀北。今ウチはちょっと作戦会議中なんだが、何か用か?」
邪魔者がやってきた。そんな態度と対応を取られることは百も承知。
けれど今、話をしたいのは綾小路くんだけ。
「綾小路くんと話をさせて欲しいの」
「ウチのリーダー候補と話がしたいなら、まずは俺を通してもらおうか」
「……リーダー候補……。それはまた随分と急な話ね」
「急でもないさ。ずっとこの時を待っていたんだからな。そうだよな綾小路」
橋本くんが笑って、綾小路くんへと同意を求める。
そんな下らない同意、一刀両断にして欲しい。
でも私の視線はこちらを向く綾小路くんの目を直視できなかった。
次に発せられる彼の言葉を、受け止める自信がなかったから……。
「否定はしない。坂柳がいる状態じゃ、その可能性は皆無だったわけだしな」
聞きたくないそんな発言。
それを、あえて無視して私は続ける。
「どういうつもりなの。クラスを移籍するなんて」
「勝手に話を始めてもらっちゃ困るぜ」
「悪いけれど、今あなたには黙っていてもらいたいの。私はクラスのリーダーとして現状を把握しなければならない」
「なるほど、クラスのリーダーとして、ね。まあ確かに突然クラスメイトが抜けたんだ。当然っちゃ当然だが、だったら猶更確認させるわけにはいかないな。おたくらが困るってことはこっちにとっちゃ好都合だ」
ニヤッと笑った橋本くんの考えは正論。
確かに押しかけた私を追い返す方が、Cクラスにとっては良いことに違いない。
「そう睨むなよ。ところでこの重要な場面に松下が同席ってのは?」
橋本くんが奇妙な組み合わせを気にして問う。
彼は普段から油断ならない性格をしているけれど、やはり面倒なところを突いてくる。
同席者が誰でも気にしなければいいのに、気にしたフリをして掻き乱してくる。
どう答えれば納得するのか。
そう思い考えを巡らせようとしたとき、松下さんが横に並んできた。
「私はただの付き添いだね。リーダーじゃないその他のクラスメイトとして見聞きしたことを伝えるためにいるだけだよ。堀北さんは綾小路くんに入れ込んでいるみたいだけど、正直私たちにとっては大きな問題じゃないというか」
あえて憎まれ役を買うかのように、松下さんがそう答える。
ここはお言葉に甘え、私は小さく頷いた。
「なるほどね。確かに一部の生徒以外には奇妙な移籍に見えるもんなぁ。綾小路が下のクラスに落ちる意味なんてないし、何より何で綾小路みたいな生徒を、って話だからな」
そう、私や須藤くんのように綾小路清隆という生徒の実力を一部でも知っている人はまだそれほど多くないはずだもの。
ここにいる松下さんだって例外じゃないはず───。
私たちを一度見た綾小路くんは、着座し直そうとした橋本くんに視線を戻した。
「今松下が言った、付き添いという話は方便だろうな」
「……方便? にしちゃ堀北も納得してる様子だったが?」
「認識の違いだ。堀北にしてみれば松下は普通のクラスメイトの1人だろう。だが実際はかなりの食わせ者なんだ。堀北と同等かそれ以上に、松下はオレの実力を買っているらしい」
そんな綾小路くんの言葉に、私は松下さんを一度見る。
彼女は平静を装ってはいたものの、僅かに動揺が見て取れた。
想像よりも深く、そして早くから綾小路くんの実力を知っていた……?
綾小路くんの口ぶりだと、そう受け取れる……。
「堀北だけにこの件を任せておけないと思ったんだろう。だから自分の目でオレのことを見て、移籍の理由、真意を確かめにきた。OAAや日常の生活を見るだけだと松下は普通の優等生の1人に見えるが、実際は堀北クラスの中でもかなり頭がキレる方だ。普段から、全力を出さず裏方に徹するタイプ。実際、この場では、堀北よりも松下の方が冷静に状況を分析できてると見た方がいい」
「やだな綾小路くん、随分私のことを買い被ってくれてるんだね」
否定しようとした松下さんに、綾小路くんは止まることなく言葉を浴びせる。
「そんなことはない。これまでも度々、オレが助けて欲しいと言った時には裏方から上手く根回しをしてくれた実績がある。前園が退学した件にしても、手を貸してもらったからな。むしろ正当な評価をしているつもりだ」
そう答える綾小路くん。再度松下さんの方を見ると、もはや動揺を隠し切れていなかった。私の知らないところで行われていたであろう綾小路くんと松下さんの協力関係。
それが他クラスの生徒の面前であっさりと暴露された。
自分が既に味方ではない、ということを印象付けるために……。
いえ、彼にとってはこんなこと暴露にすら入っていないのかも知れない。
この話を興味深そうに聞いていた一之瀬さんが、自らの手の上に顎を乗せて微笑む。
「そこまで頼れる人だなんて知らなかったな。私もまだまだ生徒たちのことをちゃんと理解できてないね。これからは松下さんにも細心の注意を払わないと」
足元がぐらぐらと揺れ動いているかのようで、平衡感覚を失いそうになる。
以前なら絶対に抱くことのなかった思考。
この場が、完全なるアウェーとなって私と松下さんに襲い掛かっている。
「移籍の理由を探る意味なんてない。オレが、堀北にも松下にも───いやクラスの誰にも今回のことを伝えなかったことが全てだ。見て分かると思うが、橋本も森下も、一之瀬もオレの移籍には驚いていない。この違いで言いたいことは分かるな?」
「それは……カフェで合流してから伝えただけなのかも……」
「ならCクラスに戻るか、そのクラスメイトを捕まえて聞いてみればいい。いつから移籍のことを知っていたのか答えてくれるはずだ」
私は発するべき声を失う。
喉を通るための言葉が、すぐに浮かんでこない。
「クラスから生徒が抜けるってのは怖いよなぁ堀北。ウチも葛城が抜けて龍園に情報が流れた部分はあったが、それでもあいつはクラスじゃ浮いてた……いや、坂柳に浮かされていたからこの手の裏話はほとんど持ってなかった。けど、綾小路はそうじゃないだろ? おまえらのクラスの中枢だったんだから、松下のことだけじゃなく、その手の話は掘ればザクザク出てきそうだ」
面白そうに話す橋本くんが、テーブルを軽くノックする。
「んじゃ堀北、そろそろ用件を聞かせてもらおうか。俺たちは話し合いに忙しいんでね」
「用件も何も……私は、だから……綾小路くんと話がしたいの。出来れば3人で」
「見ての通り、今は橋本たちと話し合いをしてる。今ここで話してくれ」
「……ここでは話し辛いことよ。もし立て込んでいるというなら、そう、夜でもいいし、明日でも明後日でも───」
「悪いが、この後はしばらく予定が詰まってる」
どんなに突っぱねられても、気丈に振舞い続けるしかない。
カフェには多数の生徒たちがおり、その中に私のクラスメイトたちもいる。
私がここで不用意に取り乱せば、Aクラスの今後の指針にも影響を与える。
「なら、ここで話させてもらうわ。……あなたの真意を聞きたくて来たの、分かるでしょ?」
「クラスを移籍した件について、理由をどうしても聞きたいと?」
「ええ。どういうつもりでそんなことを……?」
私が原因なの?
それとも、何かあなたの心を変える出来事があったの?
声にならない声。
心の叫びを、私は現実のものにならないよう必死に蓋をする。
「悪いが答える気にはなれないな。ただ1つ確かなのは、オレがAクラスからCクラスに移動したという事実が、夢や幻じゃなく本当であるということだけだ」
そう言い私を見ていた視線は外されてしまう。
話を聞くと言ったのに、実質門前払いに近い雑な対応。
「生憎とこれ以上話すことはないな」
「何も答えないでいいの? 綾小路くん、裏切り者って扱いになるよ?」
松下さんが食い下がろうと、そう言葉をかける。
「もう既に、半分以上はそうなってるんじゃないのか?」
目の前の彼は他人から自分がどんな風に見られるかなんて気にしない。
覚悟とか覚悟じゃないとか、そういう次元で物事を考えていない。
「……そう」
ここで、これ以上粘っても成果は得られそうにない。
ただただ惨めな自分を曝け出すことにしかならないことは明らか。
いいえ……最初から、そんな風になることは分かっていた。
だから、人目を気にするなら寮で会うなり時間を遅くするだけで対策は出来たはず。
そうと分かっていて、自分を抑えることが出来なかっただけ。
「行きましょう松下さん。彼は───私の敵になったことがよく分かった。この先手心を加える必要がないほど明白にね」
彼に背を向け、私は再び歩き出す。
でも、ハッキリとした感情はここに残っていなかったと思う。
頭痛のような眩暈のような、言いようのない気持ち悪さだけが付き纏い続けた。