〇混乱

 始業式を体育館で終え、教室に戻って来た新3年生たち。

 それから数分、間もなく2時限目の始まりを告げるチャイムが鳴る頃。

「……おかしいわね」

 堀北は何度か廊下の方を見ながら、首を傾げていた。

「何だよ、気になることでもあるのかよ?」

 斜め後ろの席についた須藤が、少し心配そうに声をかける。

「始業式が終わってから綾小路くんの姿が見えないのよ。もう時間だっていうのに」

 教室には、当たり前のように綾小路以外の全員が揃っている。

 今日はこの後に授業がないといっても、今はいなければならない時間。理由のない遅刻であれば学校側にチェックされてしまう。一度の不在で何ポイントもクラスポイントがマイナスにされることはないのはこれまでの経験から堀北も理解はしていたが、気を引き締めて臨む3年Aクラスの初日であり、かつて遅刻癖のあった須藤や池たちとは違い、目立つ行動を好まない綾小路であるが故にその不在が引っかかっていた。

「そういやそうだな。でも体育館を出る時にゃ普通に見た気がするぜ?」

 30分と経っていない記憶を掘り起こして、須藤が斜め上を見ながら呟く。

「そうよね?」

 堀北も朝登校してきた綾小路とは、席が隣同士になったことについて少しの時間だが会話を交わしている。その時に異変らしい異変はなくいつも通りだった。

「腹が痛くなってトイレにでも籠ってんじゃねえのか?」

「まあ、考えられないわけじゃないけれど」

 デリカシーのない発言に抵抗はあったものの、可能性としては十分考えられる。

 それでも、どこか腑に落ちないと思っていると須藤は何かを思い出したようで、腕を組み一度深く頷いた。

「もしかしたら、仮病かもな」

 そう言った後で苦笑いを浮かべた須藤は、何かを想像しながら思わぬ発言をする。

「仮病? どうしてそう思うの?」

 思いもよらない理由に問い返すと、須藤は2段階ほど声量を落として囁き声に変えた。

「最近、軽井沢と別れただろ? 顔を合わせるのはかなり気まずいだろうしよ」

「そんなことで仮病なんて───それに朝は普通だったわよ」

「いざ登校してみたら、意外とボディーブローみたいに効いてきたんじゃね? 俺も、なんつーか、やっぱ失恋すると精神的に来るものはあったしな」

 堀北の目を見て、そしてどこか気恥ずかしそうに視線を逸らした。

 去年の修学旅行で堀北に対して告白をした須藤だけに、実体験を根拠としていると告げた。堀北もその時の須藤の心情に思いを馳せる。確かにどこか気まずさを覚えた。

「……そういうもの、なのね?」

 恋愛において自分の立場が上などとは全く考えていないが、それでも振られた側と振った側に分かれてしまう現実はどうしようもない。

 まだまだ恋について知識と経験が不足している堀北にとっては、理解を示すにはやや難解なものだった。

 その点も含め複雑そうな表情を見せた堀北に、須藤が慌てて頭を掻く。

「や、まあもう俺は平気だけどよ。ただ、意外と綾小路も繊細な一面を持ってるかも知れないって話だよ。同じクラスの人間同士で付き合うと別れた後が結構面倒っつーか、さ。ほら、朝から軽井沢だって露骨に綾小路を避けてるようだったし」

 春休みが始まる前、3学期の終わりまで、親しい恋人同士だけに許された、ある種第三者は近寄りがたい距離感に2人があったことは堀北も覚えている。

 ところが今朝の教室で、両者は一歩も距離を詰めることはなかった。

 それは物理的な部分だけではなく、精神的な部分でも。

 恋愛が絡むことで人間模様が少々複雑になることは確かかも知れないと考えを改める。

「言いたいことは分かったけれど、それくらいは2人とも覚悟の上で付き合っていたんでしょう?」

 男女の仲に首を突っ込むつもりは毛頭ないが、事実として誰もが円満に別れられるわけじゃない。リスクくらい意識しているはずではと呟く。

「んなことねえって。誰も最初から別れる前提で付き合ったりしないだろ。後輩連中からも付き合ったはいいけど別れて、距離感掴めなくなって困ってるって話聞くぜ?」

 窓際後方の席に座る軽井沢を、堀北は悟られないよう盗み見る。

 どこか元気がなさそうな様子で、窓の外を眺めていた。

「それくらいのリスク管理は最低限して欲しいところだけれど……」

 もし事実がそうだったとして、それはそれ、これはこれ。

 気まずいからと不在、遅刻することを容認できるものでもない。

「でも……やっぱり、どっちにしても可能性は高くないんじゃないかしら」

 腹痛にしても振られたショックがあるにしても、綾小路の様子はやはり普段通りだったと改めて結論付ける。単にポーカーフェイスで、上手く隠していただけであることも十分考えられるものの、そういう性格とは到底思えない。

「ま、あくまでもそういう可能性があるってだけだけどよ。ちょっと遅れてきても大目に見てやれよ」

「一度くらいならね。もし複数回繰り返すようなら、クラスとして放っておくわけにもいかなくなるけれど。いいわ。何にしても時間が来れば分かることだもの」

 真実がなんであれ無断で学校からいなくなることは、流石にないと堀北は判断した。


 1


 やがて訪れるチャイムの音。

 堀北が最初に見たのは、担任である茶柱の慌てた異様な様子だった。

 教室全体を見回した後、瞬く間に茶柱の顔色は青ざめていった。

 茶柱の態度の異変さに周囲からも心配が寄せられる。明らかに目の焦点が合っていない。

 数秒間、言葉を発さず、ただ教壇の前に立ち教室全体を見ている。

 いや、見ているようでどこも見ていない。

 その目に力はなく、どこか虚ろ。

 異常に鈍感な人物がクラスの中にいたとしても、等しく同じ感想を抱いたであろう。

 開口一番、戻らない綾小路のことを質問するつもりだった堀北だが、とても切り出せる雰囲気ではなく、どう考えても茶柱の体調確認を最優先にすべきだと判断する。

「先生、大丈夫ですか?」

 しかし堀北が動き出すよりも早く、平田が茶柱に対し応答の確認を取った。

 だが茶柱はその声にも反応しない。

 平田の声は届いていないようだった。

 比較的静かに見守っていた生徒たちも、その異常さに少しずつ焦り始める。

「あの……先生?」

 一番前の席で、茶柱に近い位置に座る菊地が、どこか恐る恐る呼びかける。

 至近距離からの呼びかけ。

 それにも応じず、微動だにしない茶柱。

 菊地は気付いてもらおうと、立ち上がり目の前で手を振る。

 それでやっと菊地の行動に気付いたのか、茶柱がふと菊地を見た。

 だが、すぐにその視線は外れ今度は堀北の方へと向けられた。

 と、少なからず堀北は感じたものの、実際には両者の目は合っていない。

 あくまでも堀北側をぼんやりと見ただけ。

 やはり平田を始めとした、生徒たちの声が届いていないのだろうと判断する。

 だとすれば、体調が優れないのか。

 始業式に向かうまでは見た限りどこにも異常は感じられなかっただけに、これ以上放置するわけにはいかない。急を要する病気の可能性もある。

 椅子を引いて立ち上がり、堀北が教壇に向かおうとしたところで───。

「私は……大丈夫だ」

 生徒たちの声は届いていたのか、あるいは今届いたのか。

 覇気はないものの、茶柱はそう呟いた。

「そう仰いますが、明らかにどこか体調が優れないように見えます」

 まずは反応が返ってきたことに安堵しつつも、平田がそう確認を取る。

「……それは……いや、本当に体調は大丈夫なんだ。ただ……」

 続けようとして、茶柱は教壇に手をつく。

 そして再度堀北を見るが、あくまでも茶柱の視点は堀北ではなくその隣、唯一空席になっている綾小路の席に向けられていた。

「綾小路くんに何かあったんですか?」

 体育館から戻る途中で、綾小路が大きな怪我をしたり何らかの病気を発症したりした、というような事態なら茶柱の変化にも納得がいく。

 何かあったのか。そんな推測が少しは当たっていたことを意味している。

 問いかけた堀北の言葉は確かに茶柱に届いたはず。

 それでも、返答がなく沈黙が返ってきたことは、事の深刻さを窺わせるものだった。

「怪我ですか? それとも病気ですか?」

 焦れたように堀北がそう聞くと、茶柱は首を小さく左右に振った。

 こちらの考えが間違っていることを、伝えてくる。

 怪我や病気でないなら、ひとまず緊急事態ではないということ。

 しかしそれなら、どうして茶柱の顔はこうも暗いのか。

「いやいや、何なんです? 綾小路がどうかしたんですよね? 教えてくださいよ」

 空気を読みつつも、ハッキリしない茶柱の態度に痺れを切らした池が早く話して欲しいと突っ込む。

 そんな池を茶柱は一度見て、そして今度はクラス全体を見る。

 やはりその表情は重たく、けして安堵させてくれない気配があった。

「……正直……」

 小さく口を開く茶柱。

 やっと話を始めるのかと思えば、今度は目を閉じ再び口も閉ざしてしまう。

 だがいつまでも沈黙しているわけにはいかないと、顔を上げる。

「おまえたちに伝えなければならないことがある。今朝───いや、つい先ほどある生徒がプライベートポイントを使い権利を行使した……と思われる」

 歯切れが悪くも、茶柱はそう生徒たちに事実を話す。

「はい? 意味がよく分かんないんですけど。プライベートポイントで何をしたっていうんですか?」

 ある生徒。

 プライベートポイントを使い権利を行使。

 説明をするにしても、明確にされている部分が少なくてよく分からないと困惑する。

 詳細を教えることの出来ない、他クラスが起こした厄介事なのか。

 生徒たちの頭の中で憶測だけが広がっていく。

「今、教室に不在の綾小路だ……。彼が、権利を行使した」

 茶柱は深刻そうに語るものの、要領を得ないため生徒たちは首を傾げる。

 綾小路が一体どんな権利を行使したというのか。

「……クラスの……移籍だ」

 改めて質問をしようとしたところで核心と思しき言葉が茶柱から発せられた。

 綾小路がクラスを移籍した。

 確かに茶柱は、クラスの移籍と言ったものの、そんなことはあり得ない。

 Aクラスから移籍となれば必然的に下位のクラスになる。

 そもそも、それ以前の問題だ。

「あの、茶柱先生。冗談にしては面白くありませんし、真面目に聞いている私たちの身にもなってもらえないでしょうか」

 クラスを移籍しようと思って、移籍できるなら誰も苦労しない。

 生徒が他クラスへと移籍するためには、プライベートポイントを2000万用意しなければならない。周知の事実で、非現実的な話。

 だからこそ冗談として口にしたのだと解釈する生徒も出てくる。

「僕も堀北さんの意見に賛成です。というより、本当に大丈夫なんですか?」

 言動に真実味がないどころか、矛盾に近い発言を続けている茶柱。

 やっぱり体調が悪いか、あるいは……。

「何らかの特別試験が始まってる、ってこともあるのか?」

 堀北とほぼ時を同じくして、須藤が腕を組み冷静な考えを述べる。

 そう、この茶柱の挙動や発言から何かを読み解く試験が始まっている、そんな奇妙な線の方がリアルに思えてくるくらいだった。

「私の言っていることが理解できないのはよく分かる。しかし……本当のことだ」

「本当のことと言われましても───」

「携帯を取り出してクラスのOAAを表示するといい」

 あくまでも嘘だと認めない茶柱は、そう言い目を伏せながら指示をする。

「悪ふざけにも程があると思いますが……」

 しかし一抹の不安が過る。

 ここにきて、堀北には微かに嫌な予感が漂い始めている。

 多くのクラスメイトは発言を疑いながらも、指示通り携帯を開いた。

 そして3年Aクラスの一覧を表示させる。

 もちろん、そこにはクラス37人全員のOAAが載っているはずなのだ。

 否、載っていなければ嘘である。

 しかし……。

 見落としたのかと思い、堀北は何度か画面を上下にスライドさせた。

 が、そのどこにも綾小路の名前がない。

 最初からクラスに存在しなかったかのようにリストから消失していた。

 そんなOAAの更新。この光景には何度か見覚えがある。

 葛城康平の移籍、あるいは退学者が出た時と同じ。

「つい今しがた、更新されて綾小路のデータは───移動したと思われる」

「な、何を……何を言っているんですか先生。そんなことあるわけ……ないじゃないですか」

 堀北の声は無意識のうちに震えていた。

「綾小路は本日付けで……このクラスからCクラスへと移籍することが決まった」

 茶柱から、曖昧だった話の内容が明確に明かされる。

 綾小路が始業式の後からいなかったのは、このクラスから離れたからだと。

「───え?」

 言葉の意味、茶柱の説明を頭は確かに理解したのに、その直後堀北の身体は理解不能のサインを出した。

「何を言っているんですか……? 綾小路くんがCクラスに移籍なんて……」

「なんですかそれ、面白くない冗談っすね先生。今日エイプリルフールじゃないですよ」

 まだ多くの生徒は半信半疑ですらない。嘘を前提に疑ってかかっている。

「私も……そういう冗談は好きじゃありません」


 トッ、トッ、トッ───。


「今日の茶柱先生は、やはりどこかおかしいと思います」


 トッ、トッ、トッ、トッ、トッ───。


 やめてください───。


 堀北は心の中で呟いていた。


 どうして、こんなにも心臓の音が速く、大きく跳ね上がっているのか。


 自分自身も理解しているが理解したくない。


 悪い茶柱の冗談に、心を乱される。


「信じられない気持ちは私も同じだ。だが……これは紛れもなく本当のことだ」


 トッ、トッ、トッ、トッ、トッ、トッ、トッ───。


「そんなはずありません。何かの間違いです」


 堀北はそう答えながらも3年CクラスのOAAリストを読み込む。

 もし移籍が事実なら、こちら側に綾小路の名前が表示されなければおかしい。

 そんなこと絶対にあるわけがない。

 そう思いつつも、表示されたOAAの一覧。

 そこに付け加えられていた、綾小路清隆の名前。

 それを目にした途端、訳が分からなくなり、完全に堀北の思考が停止する。

「う、嘘ですよね先生。綾小路くんが、Cクラスに移籍したなんて……」

 明らかに慌て声を荒らげる、らしくない松下の言動に一部の生徒は驚きを隠せなかった。

「事実……だ。間違いじゃない───間違いじゃないんだ」

 茶柱は、繰り返し視線をタブレットに向けていた。

 だとすればそこには、学校からの通達が来ていたとしてもおかしくはない。

 時の流れに逆らい止めたくなる。

 理解が追い付いていない堀北。

 綾小路がクラスを移籍した。

 そんな話は何度考えても理解不能である。

 あるはずがない。

 堀北たちはやっとの思いで、Dクラスから時間をかけて這い上がってきた。

 そして、やっとAクラスに辿り着いた。

 これから1年間、全員が一丸となってその立場を守っていく。

 それなのにCクラスに移籍など、するメリットがない。

「し、しかしプライベートポイントは? 2000万なんて大金幾ら彼でも───」

「今はまだ詳細は分からない。だが、学校が正式に認めた以上、その金額を用意したことだけは確かだろう」

「はい? それが本当なんだとしたら綾小路って……え、なんで?」

「いや、意味分かんないでしょ。俺たちやっとの思いでAクラスに辿り着いたんすよ? で、わざわざ初めてのAクラスの日に落ち目のCクラスに移動って。坂柳が抜けたクラスにですよ?」

「どういうつもりなんだ綾小路の奴……さっぱり意味が分からない。何か事前に聞いてないのか明人」

「いや、全く……。最近はちょっと距離もあったしな。堀北たちが知らないなら誰も知らないんじゃないか?」

 幸村と三宅という綾小路と仲の良かったグループのメンバーも、今回の移籍に関してはやはり何も聞かされていないことが判明する。

「あれか? 軽井沢に振られたから恥ずかしくてクラスにいられなかったとか?」

「いやそれはないでしょ。恥ずかしかったとしても移籍するお金なんてないじゃん」

「頼み込んで貸してもらったとか……? いや、流石にないか」

「私たちを裏切ったってこと?」

「いやけどさあ、上のクラスに行ったんじゃなくて下のクラスに行ったんだろ? それってなんていうか普通じゃあり得ないっていうか。坂柳がいなくなったし勝ち馬に乗るって感じでもないっていうか。葛城みたいに居場所がなくなって追い出されるようなケースとも違うわけじゃん?」

 篠原のそんな疑問を含んだ呟きに、本堂が同じように疑問で返す。

 彼ら彼女らには想像もつかないことがある。

 というより少なくとも一部の生徒以外は想像すらしていないだろう。

 綾小路は自分の力だけでもクラスの勝敗を左右させられるだけの実力者であるということを。

 綾小路が楽をしたいから、という発想を持つ可能性はある。

 しかし、坂柳が抜けCクラスに沈んだクラスに移籍するくらいなら、このクラスに留まって何もしない方がよっぽど勝算があると言えるのが現状だ。

「分からないよ。確かに下のクラスに自分の意思で降りるって変な話だけど、プライベートポイントが絡んでる可能性はあると思う。移籍のお金はもちろん、今後1年間の生活費を見返りに貰えるなら───」

「それこそ変だろ。それってつまり坂柳の代わりっていうか、言い換えたらあのクラスがこれからAクラスで勝つために大金を払ってでも引き抜く人材ってことだよな? 何でそれが綾小路なんだよ。そりゃ最近はちょっと目立つ活躍みたいなのもしてたけど……」

 そんなやり取りに、堀北は息を呑む。

 綾小路の思惑は分からずとも、元坂柳のクラスが、綾小路獲得のために動いたという線は捨てきれないと思ったからだ。むしろ、ここから逆転するためにはそれが最も正解の選択肢とも言える。

 だからといって、綾小路がそんな提案に乗るのかという疑問も生まれる。

「それ考えられるね」

 誰もが動揺、混乱している中、櫛田が冷静な声で呟く。

「いやけどさ───」

「まあでもさ、この話が本当だとして……そんなに大げさに騒ぐことって感じじゃね? 堀北や平田が抜けたのとは違うんだしさ」

「寛治……綾小路がいなくなったって話、そんな単純な問題じゃねえんだよ」

「単純じゃないって言ってもねえ? 綾小路くんが抜けても大したこと───」

 この移籍の事実を然程問題視しない一部の生徒たち。

 彼らに対し、櫛田は呆れた視線を向けた。

「悪いけど、池くんや篠原さんが思ってるよりずっと綾小路くんは重要な存在だよ」

「重要って言われたって……」

「何も明るみに出てないだけで、これまでだって見えないところでクラスに多々貢献してきてるはず。そうだよね? 堀北さん」

 この事態にも冷静な櫛田からのパスを受け、堀北が頷く。

「……ええ。綾小路くんの意思はおいておくとしても、Cクラスが逆転するために引き抜く人材としては、文句の付けようがない。もし本当に抜けても困らない生徒だったなら、茶柱先生がこんな風になるかしら」

 茶柱は今も生徒たちの言葉を聞いているというより、呆然自失な状態が続いている。

 篠原や本堂が、そんな茶柱を見た。

「マジで、そうなんですか?」

「堀北の言うように、綾小路の存在は大きい。もしウチのクラスにいなければ、今のAクラスという立場は十中八九なかっただろう。無論、それだけがAクラスになれた理由ではないが……それでも……抜けた穴は想像以上に───でも、何故……」

 先生も、生徒も、誰も答えが分からない。

 もしもこの状況で、全てを理解できている生徒がいるとすれば───。

 自然と、堀北だけでなく多くの生徒の視線が一言も発していない軽井沢に向く。

 誰よりも彼の傍で恋人として過ごしていた軽井沢なら、あるいは……。

 そんな考えを全員が抱いただろう。

「軽井沢さん、彼から何か聞かされていないの?」

「……さあ。あたしは何も知らない。隠してるとかじゃなくて、本当に知らない」

 こっちを見ることもなく、軽井沢は淡々とそう答えた。

 その表情が曇っているのは綾小路が移籍してしまったからだけでなく、自身が恋人として別れを切り出したことが原因と考えているからだろうか。

 いや、今はそんなことは関係ないと堀北は頭から追い払う。

 綾小路が本当にクラスを移籍してしまったのなら、それどころじゃない。

「この移籍が何らかのミスなら取り消すことは可能ですよね?」

「不正な移籍、ということであれば取り消される可能性はあるが……ただ、その場合は不正を行った者が相当な処罰を受けることになる。綾小路にもその矢が向くだろう」

 綾小路主導による違法な移籍。

 考えたくもない可能性。

「だが不正の可能性は低い。こうして学校が正式に受理している以上は……」

「それでも、それでも分かりませんよね。何らかの脅迫を受けたなど、予期せぬ理由が後から出てくるかも知れません」

 そうでなければ堀北には説明がつかない。

 前触れなく、他クラスへの移籍なんて───あるはずがない。

「いや、それは……」

「堀北さん」

 取り乱す堀北に、落ち着きのある平田の声が届いた。

「僕はまず現実を受け止めるところから始めるべきだと思う」

「現実……とは、どういう意味かしら」

「そのままの意味だよ。彼は、綾小路くんはクラスを移籍した。これは、揺るぎない事実として存在していること。既に学校は受理していて、ここに姿がないのが証拠だ」

「でもそれは……それは、証拠とは言えないわ。本当は体調を崩しただけかも知れないし、何かの間違いだってことも……」

「先生が説明してくれたようにOAAでも綾小路くんの移動が確認できた。どんなに信じたくないことだとしても、まずは一度受け止めるところから始めないといけない」

 返す言葉を失う堀北に対し、淡々と話を続ける平田。

 それを見た櫛田は、やや興味を持った様子を見せる。

「随分冷静なんだね平田くん。移籍にしても退学にしても、クラスから生徒が1人消えたかも知れないのに、何も動揺しないなんて」

 これまでの平田は、退学者が出そうになるたびに心を痛めてきた。

 そして去った後も誰より、その去った生徒の身を案じていた。

「移籍と退学は似て非なるものだよ。本人の意思なら猶更ね。それに慌てても仕方のないことだから。僕らが騒いでも綾小路くんが戻ってくるわけじゃない」

「それは違うんじゃない? 堀北さんはまだ、ミスの可能性を捨て切ってない。だったらそれに寄り添ってあげるのが、いつもの平田くんなんじゃないのかな」

 クラスの中でも何人かは落ち着いた様子を見せているが、その筆頭が平田だ。

 しばらく静観してクラスの様子を見ていたのも、らしからぬ行動だった。

「つまり、何が言いたいんだよ櫛田」

 須藤が椅子を引いて立ち上がる。

 櫛田がまた、クラスを混乱に陥れるために動いているのではと邪推したためだ。

「何も分からないまま、このホームルームの時間で話し合っても方向性なんてまとまらないよってこと。そうですよね? 茶柱先生」

 櫛田は分かりやすく首を動かし、廊下側へと視線を向けた。

 他クラスは既にホームルームを終えたのか、廊下が騒がしくなり始めている。

「……そう、そうだな」

 教室内は高い防音性を持つため、普通の声量ならば外の廊下まで聞こえることはない。

 しかし壁に近づきドアに寄れば一部の声を拾うことは可能だ。

 良からぬ企みをする生徒が、外で聞き耳を立てているかも知れない。

 須藤は感心したように一度頷いて、席に座り直した。

「これでホームルームを終わりにする。するが、綾小路に対して責め立てるような行動は取らないでもらいたい。今現在、何らルールに反した行動を起こしたわけではないんだからな」

 生徒と同じように数々の疑問を抱えてはいるものの、学校の教師として問題行動は控えるよう伝える必要がある。大人として、警告すべきところを忘れてはならない。

「私も……茶柱先生に同意見です。ルールの観点だけでなく、事情が分からない中で、彼のもとに多人数で押しかけてもトラブルが生まれやすくなるだけ。まずは私が確認を取ってみるから、それまで冷静な行動をお願いしたいの」

「その通りだ。綾小路への不要な接触だけでなく、くれぐれも他クラスと揉めたりすることのないようにしてくれ。何かあれば必ず私や学校を通すんだ、いいな?」

 教師として、これ以上生徒と共に黙り込んでいても仕方が無いと、茶柱は自身を奮い立たせるよう教壇に強く手をついた。

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