三章 催眠アプリは最高だぜぇ!
「なんだお前は」
「誰なの?」
二人の男女は寄り添いながら俺を怪訝そうに見つめている。
男が相坂の元カレで女が浮気相手……こいつらの名前とか全然分からねえけど、手っ取り早くこいつらって呼ばせてもらうか。
「……………」
実を言うと、こいつらと相対した今になってなんで俺はこんなところに居るんだろうって改めて思う。
俺はただ相坂にエッチなことをしたくて催眠アプリを使ったのに、それがきっかけで彼女の秘められていた秘密を知り、赤の他人であるはずなのに俺はここに立っている。
(これはただの自己満足……俺自身がスッキリしたいだけだ)
それか若しくは、この力で気持ち良くなりたいだけなんだろう。
「……はぁ」
「おい、勝手に呼び止めて何ため息吐いてんだよ」
「なんかきも~い」
そりゃため息の一つも吐きたくなるさ。
こいつらがクズなのは分かってるけど、俺と違って男はやっぱりイケメンだし、女の方はまあまあ美人だし……思わずクソッタレリア充共めと恨みがましい視線を向けてしまう。
(でも……俺の好みは断然相坂だな)
なんて思ったけれどこの場において俺の好みは関係ないか。
ニヤニヤと気持ち悪い笑みを浮かべる女から一旦視線を外し、見るからに俺のせいで不機嫌になっている男へ対し単刀直入に問いかけた。
「なあお前、相坂茉莉って知ってるか?」
「あん? 茉莉がどうしたよ」
よし、他人の空似とかではなくこいつが目的の相手で間違いはなさそうだな。
相坂が今どうしているのか……それを口にしようとした矢先、奴はニヤッと笑った。
「なんだお前、まさかあいつに惚れてるとか? もしかして何か話でも聞いたのかよ。例えば浮気をされたとかさ」
「……あっさり白状すんのか」
どうやら、俺が何も言わなくてもベラベラと話してくれるらしい。
「お前みたいなのが茉莉のことで出張って来るとは意外だぜ。あいつからどんな風に話を聞いたか知らんが今更だし、あいつの両親には良い顔してたから俺の方を信じている……ははっ、茉莉の泣き顔はいつ思い出しても面白いわ」
「は~趣味わるぅ。あの子がかわいそ~」
かわいそうと、そう言う割に女は笑っている。
あまりの開き直りっぷりに俺が言葉を失ったと思ったのか、奴は止まることなく更に言葉を重ねた。
「つうかたかが恋愛に夢を見すぎなんだよあいつは。幼馴染とかもうどうでも良いし、あいつがどれだけ苦しんでもどうでも良い。というかこれを機にあいつが消えちまってもそれで良い――どうせそんな度胸ねえだろうけど」
「……………」
言葉が……何も見つからねえな。
こういう風に言える奴は大抵相手が本当に自ら命を絶つ可能性を考えてはいない……だからこいつはこんな風に無責任な言葉を口に出来るし、人を傷付けることを平然とやれるんだろう。
「……お前、クズ野郎だなただの」
「なんだと?」
ま、俺もクズ野郎だけどな。
出会ったばかりの相手にクズと言われたことが心底響いたらしく、奴は隣の女から離れて俺の方へ近付く。
傍にやってきた奴を見ても俺は不思議と冷静だった。
「もう一回言ってみろや」
「ぐっ……」
胸元を掴まれ、喉元が圧迫されてしまい息が吸いづらい。
「良いじゃん良いじゃん! やっちゃえやっちゃえ♪」
女が声援を送るように囃し立て、更に掴む力が強くなった。
(こんな……こんな奴と会話をすることも想像はしてなかったな……)
俺はこのように邪悪な面を持った相手に実は今まで会ったことがない。
中学時代にイジメに似た出来事はあったものの、双方が和解することで珍しい形ではあるのかもしれないが平和に解決したほどだ。
「あいつ……自分の腕を切ったんだぞ?」
「だから?」
「死ぬつもりはなくても、そうするくらいに追い込まれてんだぞ?」
「だからどうしたってんだよ。説教でもするつもりかカスが!」
ガツンと頬を一発ぶん殴られた。
痛い……舌を切ったのか鉄の味が口に広がる……あぁクソ、なんでこんな風に体張ってんだろ俺って。
今まで喧嘩なんてことしたことはなかったし、殴られたこともなかったので痛みにそもそも体が慣れていない……だからなのか、自然と涙が零れてくる。
「うわぁだっさい! 泣いてるじゃん!」
「ゴミが楯突くからこうなるんだよ。身の程を知れよ雑魚」
もう相手にする気がなくなったのか、二人は素通りしていく。
「……待てよ」
もちろんそれを許すわけにはいかない……そもそも俺の目的は達成出来ていないし、そもそも殴られてちょいカチンと来ちまったしな。
「ぶっ殺すぞてめえ」
「いい加減うざ~い」
振り向いた二人はゴミを見るような目で見つめてくるが、俺はそれに対して一切怯んだりすることはなかった。
再び近付いてきた男が手を伸ばした瞬間、俺は催眠アプリを起動する。
「止まれ」
「っ……」
「……え?」
二人を対象として発動した催眠アプリは見事に起動し、先ほどの相坂を彷彿とさせるかのように二人はボーッとした姿へと様変わりだ。
「……俺としたことがつい話に夢中になってアプリの存在忘れてたわ」
殴られて思い出すってマヌケすぎんだろ俺……まあでも、これでこいつらは俺の操り人形だ――さて、それじゃあ当初の目的を果たすとしよう。
俺は二人にこう命令した。
まず相坂の両親に自分が何をしたのか、彼女に対してどんなことを考えていたのかを説明しろと……そして極めつけにこう言ってやった。
「俺を殴りやがったお返しとして、てめえは全裸で……いや、フルチンだけは情けで勘弁してやる。パンツ一丁で大声を上げながら近所を全力疾走しやがれ」
しばらくその場から動かなかったが、「早く行け」と急かすと二人は歩き出し、俺の前から姿を消した。
「……ふぅ。俺って罰当たりだな」
奴らに求めるのは相坂への謝罪と両親に対する説明だけで良かったはずだ……でも後半のアレは殴られ馬鹿にされたことへの私怨に近い。
もう命令はしてしまったので止めることは出来ず、あの男が俺の命令を忠実に達成すればそれこそあいつは平気な顔をして外を出歩くことは出来ないだろうし、惨めな日々を過ごすことになるはずだ。
「いやぁ……実際に命令したら怖くなってきたわ。とっとと帰ろ」
少し……ほんの少しだけヤバい命令をしたことに罪悪感はあるが、それ以上にざまあみろって気持ちの方が強い。
奴らがどんな形にせよ痛い目を見ること、そしてそれを実行した俺は催眠アプリの力でバレないという優越感もある……ほら、俺も救いようのない奴だってことだ。
「よ~し、明日から気持ちを切り替えるぞ!」
今日のことは忘れ、しばらくの間はゆっくりとしよう。
そうして全部忘れた後に改めて今日の出来事を糧にして、女の子を好き勝手してやろうじゃないか……よし! それで良いんだよ俺は。
くっくっくと笑いを堪えながら俺は家へと帰るのだった。
「ちょっと、それどうしたの?」
「え?」
ただ……当たり前のように赤く腫れた頬に関しては姉ちゃんや両親にとても心配された。
今までこんなことがなかっただけに心配は大きいらしく、すぐに姉ちゃんに手を引かれて軽く治療を受けることに。
「こんなに切れちゃって……殴られたの? 甲斐を殴ったクソ野郎はどこの誰? 名前が分からないなら顔は覚えてる? お姉ちゃんに全部教えなさい――血祭りにあげてやるわ」
腫れた頬を優しく撫でられるだけでなく、舌の切れた部分に綿棒で塗り薬まで塗ってくれて……今日の姉ちゃんは本当に優しかったけれど、同時に俺を殴った相手に対して怒りも凄かった。
「……はぁ、俺らしくもなかったな」
自室で一人になり、改めてそう思う。
いくら相坂のために少しばかり何かをしたくなったとはいえ、あんな風に体を張るなんて俺らしくもなかった。
まあ催眠アプリの存在をちょい忘れていたのはともかくとして、この力があったからこそあいつらに対して優位に立てたし、それなりの罰を与えてやることが出来たんだから。
「……へへっ、本当に凄い力だこれは」
まだ少しだけヒリヒリする頬の痛みもまた、この力が絶対であることを俺に知らしめる良い機会になった。
また日和る……こともあるとは思うけれど、俺はこの力を必ずや俺自身の欲望のために使う――もう大丈夫、もう俺は躊躇しない。
「さ~て、明日からどうすっかねぇ」
果たして催眠アプリを手にした俺に明日という日は何を齎してくれるのだろうか、それが本当に楽しみで仕方ない。
今日は良い気持ちで眠れそうだ……そんな気持ちでベッドに入ったもののしばらくは眠れなかった。
何故かって?
「……相坂の裸が頭から離れん」
そう……下着姿の彼女が脳裏から消えてくれないんだ。
思い出せば思い出すほど綺麗だったなって、エロかったなって思うと同時に好き勝手したかったって後悔が再び蘇ってくる。
「……むぅ」
あの街中で出会ったお姉さんよりも圧倒的なエロを感じたのは……相坂が同級生だったからか?
「それに……」
もちろんあの後、催眠に掛かった元カレたちの結末も気になっている。
スマホの充電は死にかけだったけれど、あいつら走って行ったし距離的には全然やることやる時間はあったはず……取り敢えず、明日隙を見つけたら相坂に催眠を掛けて確かめるとしよう。
「……ふわぁ」
さっきまで眠れそうになかったのに大きな欠伸が出た。
気を抜けば眠りそうになる中、脳裏に残り続ける相坂の記憶がまるで睡眠導入剤かのようで、俺はそんな最低な癒しを感じながら眠りに就いた。
▼▽
翌日、俺の気になっていたことはすぐに分かった。
俺があの二人……特に男の方へ命令したことは完璧に実行されたらしく、近所で大声を出しながら全力疾走するパンツ一丁の男が目撃され警察のお世話になったとのことだ。
「やべえのが居るんだなぁ……」
「俺たちの中にそんな変態は居ねえよな⁉」
「居ねえだろ」
友人二人の会話に耳を傾けながら、無関心を装いつつも内心では無事に力が発揮されたことに安心と満足感を俺は抱いている。
(あいつらのことは正直もうどうでも良い……くくっ、まさかこんなにも上手く行くなんてなぁ)
しめしめと心の中で笑っていると彼女が、相坂が登校してきた。
「みんなおはよ~」
「おはよ茉莉!」
「おっは~!」
いつもと同じ笑顔の相坂……こうして見ていると、彼女に催眠を掛けてからの出来事は全部夢だったようにも思える。
「お前、顔赤くね?」
「どうしたんだ?」
「……えっ⁉」
二人に指摘され、俺は顔が僅かに熱くなっていることに気付いた。
マズイ……たぶんだけど相坂を見たことで彼女の肌だったりを思い出してしまったせいだ……!
「な、何でもねえよ」
「ほんとかよ」
「相坂を見て……はは~ん?」
変な誤解をすんじゃねえ!
相坂を見て顔を赤くしたのは間違ってないけど、たぶん好きだからとかそういう誤解をされているに違いない……まあそっちの意味で照れた方が健全ではあるけどさ!
「そういうんじゃねえよ。俺も身の程は知ってるから誤解すんな」
「分かってる、分かってるって」
「そうそう。分かってるって」
こいつら……。
一発お見舞いしたくなる気持ちを何とか堪え、俺は改めて相坂へと視線を向けた。
俺は人の表情を見ただけで全部を察せられるほど鋭くはない……だからこそ昨日の出来事を経て相坂が何を思ったのか、何を考えどのようになったのかは凄く気になってきた。
朝礼、授業、休憩時間……生憎と相坂に催眠を掛ける瞬間は中々訪れることはなかったものの、昼休憩の時に偶然一人で廊下を歩く相坂を見かけたので、周りに怪しまれないよう咄嗟に近付いて催眠を掛けることに成功した。
「空き教室に行くぞ」
「うん」
相坂だけじゃなく一定範囲の全ての人間に催眠が掛けられたら、こうやってコソコソする必要はないんだがそこまでの贅沢は言えない。
俺と相坂が入ったのは全く使われることがなく、資料などの置き場にされている散らかった空き教室。
「電気は点けなくて良しと……あ」
カーテンで閉め切られているからこそ明かりが無ければ暗い。
そんな中で瞳がトロンとした様子の相坂と二人っきりというのは、最高にエッチな空間に思えてドキドキしちまう。
「っ……」
綺麗に整った顔、サラサラとした髪の毛、豊満な胸元、スカートから覗く太もも……相坂の持つ全てのパーツから目が離せなくなるほど、彼女の魅力が目の前に迫っている。
「ま、まあ見惚れるだけならタダだしな!」
ということでじっくり見させてもらおうじゃないか!
それから五分ほど、俺は決して相坂に触れることはせず彼女のことを観察させてもらい、非常に満足したところでようやく切り出した。
「昨日のことを詳しく聞きたい。君の元カレはどうしたんだ?」
俺の問いかけに相坂は頷き教えてくれたのだが、ほぼほぼ俺が命令した通りのことをしっかりと奴らは遂行したらしい。
「いきなり家に来たことはビックリしたけど、あいつ……全部正直に喋ったの。様子はおかしかったけど嘘は吐いてない様子で……あいつの傍に居た女も一緒に謝って、それで両親もようやく私が悪いんじゃないってことを分かってくれた」
「そうか……ははっ、そうか」
まずは一旦、拗れていた家族仲は修復されそうかな……?
そう思って俺は笑ったけれど、どうも相坂の様子を見るにそう単純なものではなさそうだった……どうしてだ?
「……信じてもらえなかった、それが大きかったみたいで私……謝られても全然嬉しくなくて、ただ私が裏切られた事実だけを忘れないでいてくれればそれで良いって……それから昨日はもう話してない」
「っ……そうか」
両親に信じてもらえなかったこと、それが尾を引いているらしい。
大好きだっただけに相坂の心に付けられた傷は深いということか……こうなると俺に出来ることは何もないんだろうか。
「……ま、やれることはやったしな……ちなみに相坂」
「なに?」
「全然スッキリもしていないか?」
「ううん、それはないかな。もう私からすればあいつを幼馴染とも思いたくないし、
なんでそんなことをしたのか分からないけど……どんな形でも痛い目を見たのはスカッとしたから」
そうか……なら良かったと俺も思うよ。
やり方が最善ではなかったとしても俺の方もしめしめと思っているくらいだし、相坂が少しでもスカッとしたのならそれで良かった。
「……相坂、腕を見せてもらっても良いか?」
「うん」
相坂は制服の袖を捲り、傷の付いた腕を見せてくれた。
相変わらずの痛々しい腕に眉を顰める俺だが、昨日見た時に比べて新しい傷がないことに安心する……これで新しい切り傷があったら、それは昨日の夜に付けられたってことだからな。
「……この状態で俺がお願いをして効果があるのかは分からないけど、もうこんなことをするのは止めろよな。相坂があんな奴との出来事で自分を傷付ける必要なんてないんだから」
「うん……うん」
「おい、それはちょっと怪しい返事だな?」
そう苦笑しながら言っても、やっぱり相坂の表情は変わらない。
いっそのこと催眠を解いて直接伝えれば分かってくれるとは思ったけれど、それは俺の首を絞めるだけ……むしろ怪しまれて俺のやったことがバレて詰む可能性がある。
「……それならこの状態で相坂に接するしかねえもんなぁ……ったく、困ったもんだぜ」
そもそも俺の方がこうして彼女を催眠状態にしないと踏み込んだ話が出来ない卑怯者だしなぁ……ま、俺も深く考えるのは止めて軽い気持ちで言葉を伝えよう。
「せっかくそんなにエロい体を持ってて俺好みなんだし、頼むから自分を傷付けるのは止めてくれな? 俺、相坂が自分を追い込み過ぎて居なくなるのは嫌だぞ?」
後半はともかく前半はあまりにも最低だったわ。
きっと彼女が正気だったなら間違いなくビンタ……ビンタで済むか分からないけど一発ぶん殴られてもおかしくはない言葉に、催眠状態の相坂はこう言葉を返した。
「私が居なくなると……嫌?」
そう返ってきたのである。
俺の言葉に相坂が言葉を返してくれることはおかしくはないが、疑問形の返事は何気に初めてじゃないか?
珍しいなと思いながら俺は頷いた。
「そりゃそうだろ。大して絡みがなくともクラスメイトがいきなり居なくなるのは寝覚めが悪いから」
「……そうなんだ」
「おうよ。それに……まあなんだ――俺は別に相坂に惚れてるとかそういうんじゃないけど、朝に相坂の笑顔を見れたら目の保養だし?」
言ってすぐに後悔するほど顔が熱くなり、俺は頬を掻いた。
というか意識の無い相手になんでこんな照れにゃならんのだ……俺は自分が抱いた恥ずかしさを誤魔化したくて、ほぼ勢いに任せこんなことを言ってしまった。
「なあ相坂、おっぱい触っても良い?」
もちろん言った後にもっと顔が熱くなった。
俺ってば真の外道になるんだと心意気を新たにしたはずなのに、結局やろうとすれば寸前でこうなっちまう……何も変わってないことに絶望だ。
「……はぁ」
つい辛気臭いため息が零れたのだが、まさかの返事が相坂からきた……否、きてしまった。
「良いよ」
「……えっ⁉」
相坂は俺の方へと胸を突き出した。
ぷるんと大きな胸が震えたことにまずごくりと唾を呑み、これを触っても良いという許可が出てしまったことにまた唾を呑んだ。
俺の動揺は凄まじいものだが、それ以上に目の前に突き出された相坂の巨乳から目が離せない。
(こ、これが女の子の……すげえ)
既に一度、この内側を見たことがあるとはいえこの距離で見つめ返す相坂の胸は凄い……大きくて柔らかそうで、すぐにでも手が伸びてしまいそうになる魅力を放っている。
「……ふへっ」
すっごい気持ち悪い笑みが零れ、俺は手を伸ばす……しかし、やっぱり触れることは出来なかった。
「ごめん……まだ俺には無理な領域だったわ」
もうほんとに! 本当に俺って意気地なし!
何をしたところで絶対にバレないし大丈夫なのに……なんで触ることすら俺には出来ないんだ……残り続けているというのか良心の呵責というものがまだ俺に!
「俺さぁ……相坂の元カレに殴られても怖いとかなかったのに、むしろやってくれたなこの野郎って感じでやり返す度胸はあるはずなのに、その果実に触る度胸がないなんて笑ってくれよ相坂ぁ」
「……………」
相坂からの返事はなし……分かってたけどな!
「……あ~」
「……………」
何も話すことがなくなり、気まずい空間が俺たちの間に展開される。
俺が何かを問いかけなければあちらから何も言ってこないので、この気まずい空気の原因は俺だ。
「あ、というかごめん相坂。もうそんな風に胸を突き出さなくて良いよ」
そう言うと相坂は頷き姿勢を元に戻した。
それでも相変わらず視線は俺に向いたままなので、何とも言えない緊張とドキドキはそのままである。
俺はそんな空気を誤魔化すように、コホンと咳払いをしてスマホに目を向けた。
「俺がこの催眠アプリに出会わなかったら、こうして相坂とサシで話をするような瞬間も訪れなかったわけか」
こちらからの一方的なモノとはいえ、間違いなくアプリのおかげによってこの時間は成り立っている。
「……この機能、使ってみるか?」
実はまだ、この催眠アプリの中で使っていない機能がある。
それは予約催眠と呼ばれるもので、その時間になると自動的にアプリが起動し対象の人間が催眠に掛かるというもの。
ただ予約する場合は予めその人に掛ける必要があるのだが、例えば今の相坂に上書きする形でも良いらしい。
「つまり……こうか。相坂、明日もまた昼食を済ませたらここに一人で来てくれ」
「分かったよ」
これで大丈夫……なのか?
ある程度催眠アプリについて理解したとはいえ、今まではただ催眠を掛けられることに満足して予約催眠なんて見向きもしなかった。
取り敢えずこれが上手く発動するかどうかは明日、相坂がここに催眠状態で来るかどうかで確かめるとしよう。
「よし、もう戻って良いぞ相坂」
「うん」
「……自分のこと、傷付けるなよ? 君に何かあったら悲しむ人たちが居るってことを忘れんな」
「うん……ありが……」
「え?」
俺の命令通り、相坂は何かを言いかけたものの教室を出て行った。
その後、これくらいかと思ったところで催眠アプリを解除し、一度トイレに行ってスッキリしてから教室へと戻るのだった。
▼▽
結論を言うなら相坂に掛けた予約催眠は翌日、しっかりと機能した。
昼休みになってすぐ俺は空き教室に向かい、それからしばらくして前日とほぼ同じ時間に相坂が訪れたからである。
一応説明で分かってはいたもののいきなりアプリが起動したのにはビックリしたけれど、相坂は間違いなく催眠状態だったので俺はまた一つ技を習得出来たというわけだ。
そうなってくると相坂が一人になる瞬間を粘り強く待つ必要もなくなったということで、ここ数日はずっと昼休みに彼女を呼び出している。
「よしよし、今日も腕に傷は作ってないな」
「うん……約束、したもん」
「……催眠アプリを使ってやってることがカウンセラーみたいだぜ」
やれやれと首を振りつつも、実はちょっとこのやり取りが楽しい。
そして……そしてそして! 数日間のやり取りを経て、俺は一つレベルアップを果たしているんだ!
「あ、相坂」
「うん」
「また……ギュッとしてもらっても良いか?」
「良いよ」
俺の要望に応えるように、相坂は俺の頭を抱きかかえ……その豊満な胸元へと誘った。
顔面を包み込む柔らかな感触、相坂自身の香りが凄く良くて……こうされてしまうと日々の疲れが取れるだけでなく、生きる活力さえも無限に溢れてくるようだ。
(勇気って出してみるもんだよな)
こんな風に相坂がしてくれたのは俺が勇気を持って踏み出した結果だ。
まだまだ自分から触る勇気が持てないということで、逆に相坂の方からこうしてもらうように命令し、その結果がこの幸せな空間を俺に与えてくれたのだ。
「相坂も災難だねぇ。俺に目を付けられたばっかりに、こんなことをさせられるんだからさ」
今の俺、最高に悪い奴の顔をしているに違いない。
「俺の天下……始まったな!」
至高の柔らかさに包まれながら俺は宣言した。
そう、ついに催眠アプリによる俺の天下は始まったと言っても過言じゃない……もしかしたらこの先、本当の意味で俺が子供から大人になる瞬間っていうのも近いかもしれないな!
「女性の胸には夢が詰まってるって言うけど、正にその通りだよなこれは止めらんねえわ」
ぷにぷにとした柔らかい感触を存分に味わった後、体勢を変えて膝枕をしてもらった。
胸に顔を埋める方が遥かに過激ではあるが、膝枕も俺からすれば絶対にお目に掛かれないほどの経験……う~ん、催眠アプリ最高!
「……あん?」
膝枕を堪能する俺の頭を何かが触れている……それは相坂の手だ。
あれ……? ついでに頭も撫でてほしいなんて言ったっけ?
「……ま、いっか」
細かいことを気にするのは止め、俺は絶景に目を向ける。
光の無い瞳で見下ろす相坂はともかく、目の前にぶら下がる大きく膨らんだ胸が大変目の保養で……許されるならずっとこのまま眺めていたい。
「……絶対にそのうち触ってやるからな」
そう決意を呟き、改めて俺は相坂へと声を掛けた。
「家族の方はどうだ?」
「かなり気を遣われてる。もちろん前よりは全然良いよ?」
「そうか。なら良かったじゃん」
「うん」
こんな風に相坂の方から近況を聞くのももはや日常みたいなものだ。
相坂の意思を無視してこんなことをしてもらっている俺が、相坂の心配をする資格がないのは分かっているものの、関わってしまった以上は気になるからさ。
「元カレは?」
「なんか、凄いことになったみたい。あいつの家族はもちろん、周りにも凄く引かれちゃったみたい」
「だろうなぁ」
突然パンツ一丁になって大声を上げて走り回ればそうもなる。
「でも……ざまあみろって気持ちはなくならないよ? 頭がおかしくなっちゃってあんなことをしたのか知らないけど、私を追い詰めた報いを受けてるみたいで気分が良いもん」
「正直だねぇ」
いくら傷付けられた相手とはいえ、あの幼馴染に対して相坂が複雑な感情を少しでも抱いているなら申し訳なさはほんの少しあったけれど、彼女に全くその様子は見られないので俺もやって良かったと開き直っている。
「さっきも言ったけど、あれから腕に傷を作ってなくて安心したよ。あんなクソ野郎共のせいで相坂が傷付く必要なんて絶対にないんだから」
「うん」
「ま、こうして君に催眠を掛けて好き勝手している俺の方が何倍もクソ野郎だけどなぁ! あっはっはっは!」
俺さぁ、もう自分をクソ野郎って言うのも慣れちゃったよ。
あの元カレがやったように浮気をしたことも、酷い言葉を口にしたのも充分最低なことなのは確か……でもそれ以上に普通じゃあり得ない力を使っている俺の方がクソ野郎のレベルは高いだろうし。
「真崎君は私を助けて……くれたんだよね」
「あんなもん助けたとは言わねえよ。好き勝手やっただけだ」
そこまで言って俺は立ち上がった。
「そろそろ昼休みも終わるな。ありがとう相坂、いつものように教室に戻ってくれ」
「うん……」
「相坂?」
教室を出ていく寸前、一度相坂がこちらを振り返った……がしかし、すぐに彼女は教室を出て行った。
「……なんだ?」
俺が何かを言わなければあの状態の相坂は絶対に反応しない。
まああれが俺に対する反応かどうかはともかく、何も声を掛けていないのにいきなり振り返ってきたのは正直ビビった。
「……もしかして解けてた?」
ハッとするようにスマホに目を向けたが、まだまだ充電はバッチリだし催眠アプリそのものが強制的に落ちたわけでもなさそう……う~ん?
「振り返った時に何好き勝手してんだよってキレられたら催眠アプリの不備って分かるんだけど……」
いやそれだといっかんの終わりじゃねえかよ!
若干の不安を抱きながらも催眠アプリは絶対、この力は絶対に無敵なんだと自分に言い聞かせるようにしながら、俺も少し間を空けて教室へと戻った。
俺はこうして、本来ではあり得ないような天国を催眠アプリのおかげで味わえているせいか、授業中に相坂の体の感触を思い出してしまいニヤニヤしてしまって大変だ。
(っとと、いけないいけない。気を引き締めないと!)
そう心の中で考えるものの、すぐに脳内を相坂が埋め尽くしていく。
今まで姉ちゃんを除き歳の近い女子との絡みが無かった弊害か……いやいや、そうじゃないだろこれは。
(催眠アプリのおかげでやれないことがやれる……性癖とか諸々歪んじまってもおかしくないぞこれ)
俺は外道になる……がしかし、理性の無いケダモノにだけはならないよう心がけよう――俺は今、そう決心した。
とはいえ、経験してしまった甘い果実を忘れられないのも事実。
周りの生徒に不審がられないよう気を付けていたのだが、そのちっぽけな欲望の防波堤も休憩時間には綺麗に決壊し、いつものように傍にやってきた友人二人にどうしたんだと心配されたほど。
「いきなり笑い出して大丈夫か……?」
「何か悪い物でも食ったのか?」
「気にすんな」
キリッとした様子で俺はそう返事をしたが、すぐに頬が緩む。
ふへへっと自分でもヤバいと思う笑いが出てしまい、流石に気持ち悪かったのか二人とも引いていた。
「まさか……」
「どうした省吾」
俺に視線を向けたまま、省吾がビシッと指を差して口を開く。
「甲斐……お前……特殊な力に目覚めたんじゃ!」
でででんと、まるで効果音が聞こえるかのようだった。
「何言ってんだおめえは」
大袈裟に指を差す省吾に俺はそうクールに言い返したが、耳を澄ませば聞こえるくらいに心臓の動きはバクバクだ。
「特殊な力ってなんだよ」
「そりゃあれだよ。女の子を好き勝手出来るエロい力だよ」
だからなんでそう妙にピンポイントなんだよ!
省吾が俺のことを把握しているわけでもないし、ましてや催眠アプリについて勘付いているわけでもないのになんだこの鋭さは。
「茉莉~!」
「なあに~?」
友人二人の話に耳を傾ける中、相坂の声にスッと視線が向く。
俺たちと同じように友達と楽しそうに会話をする相坂の姿、そんな彼女を見ているとやっぱり昼休みのことを思い出してしまう。
(……柔らかかったし気持ち良かったなぁ)
あれは良いものだ……本当に良いものだ。
バレないように細心の注意を払うのはもちろんだが、俺には催眠アプリがあるんだ……これから先も、俺の好きな時に好きなことが出来るんだ。
たとえ日和って前に進めないとしても、時間はたっぷりある……だから何も慌てる必要はない。
「今日の放課後はどうする?」
「あ~どうしよっかなぁ……何かあるの?」
目立つ相坂だからこそ、友達も含めて声が良く通る。
催眠状態の彼女は少し声が低いので、こんな風に明るさ満点の声で喋ってほしいと願うのは流石に贅沢か……そうだよな、いずれ相坂のおっぱいなんかも好きに触らせてもらう予定だしそれは我慢しよう。
(ていうか触る触らない以前に、俺はあの相坂の胸に顔を埋めただけじゃなく抱き寄せてもらったんだぞ⁉ 催眠アプリの力とはいえゴールまで全然後少しじゃないか!)
そう思えば俺の中に眠るエロが熱く燃え上がる。
メラメラと燃え滾るそれの行き着く先はまだ分からないが、まず捨て去るべき負の遺産がある――童貞というステータスだ。
「絶対に捨ててやるぜ……」
「何を?」
「ゴミか?」
……ふぅ、まずは考え事をした際に周りが見えなくなる癖を直す方が俺には必要だな。
とにもかくにも、俺はもっと自信を持つべきなんだ。
晃と省吾の話に耳を傾けながら、俺はポケットの上から仕舞っているスマホを撫でる。
(こいつはもう俺にとって必要なモノ……言うなれば相棒ってやつだ)
今この時が、俺の中で催眠アプリに対する呼び名が相棒へと変わった瞬間だった。
なあ相棒、これからも俺は好き勝手やっていくからよ。
だからどうか力を貸してくれ――漫画やアニメのキャラのように、エッチな日常をどうか俺に歩ませてくれ!
そんなエロに対する俺の決意はしっかりと表情に現れたらしく、何故かそこで先生に指名された。
「真崎、随分と気合の入った顔をするじゃないか。そんな風に授業を受けてくれるなんて先生は感動しているぞ――この問題、是非解いてみろ」
「あ、はい」
取り敢えず……授業はやっぱり真面目に聞こう。
それもまた当たり前のことだけれど、改めてそう思ったのだった。