裏 岸川先生は甘やかしたい 6
着替えを終えてプールの外に出る。今日は短い時間の練習だったので、まだ辺りは十分に明るいが、もうすぐ夕暮れ時という頃合いだった。
私も空野も自転車で学校に来ているので、途中までは一緒に帰ることにしたのだが――自転車を取ってきて校門に向かうところで、海原と
「……私達は、空気を読んでしばらく様子を見るべきだろうか」
「……多分、聞いても大丈夫だと思う。目立つところで話してるから」
私も空野の意見を信じることにする。二人は秘密の話をしているわけではないので、私達が通りがかっても迷惑にはならないだろう。
距離が近づくと、二人が話している内容が聞こえてくる。それは、私も事前にある程度想像していたようなことだった。
「海原くん、空野さんと仲良くしてるでしょう。それでね、ぜひお願いしたいことがあるの」
杜山先生が名前を出したので、空野はかすかに反応したように見えた――しかし横顔を見ても、ほとんど表情が動かないので、何を考えているかは汲み取れない。
私も普段は厳格な教師として見られていて、クールだと言われることもあるのだが、空野は私から見ても超然としたものがあって、その落ち着きは見習いたいものがある。
そんな彼女だが、競泳においてのウィークポイントはメンタルの不安定さにある。性格と勝負度胸はまた別のものというのは、指導においても悩ましいところだ。
「そ、空野先輩とはその……昔から近くに住んでて、小学校の頃にお世話になってただけですよ」
「そうなの……? 一緒のコンビニでアルバイトもしてるのに?」
空野がアルバイトをしているというのは聞いていたが、部活を早く上がるときは自主的に朝練の時間を早めるほど練習熱心なので、干渉することは全くなかった。
しかし海原と一緒というのは聞いていなかったので、空野を見やると、少し気まずそうにしている。少し申し訳なさそうにうつむいているが、私が知ったら怒ると思ったのだろうか。
そんなことはないので、誤解を解いておきたい。ただお姉ちゃんとしては、弟のバイト先が我が部のエースと同じということなら、もっと早く知っておきたかった。
「仲は悪くはない……と俺は思いたいですけど、仲良くしてるって言われたら、空野先輩は嫌がるんじゃないかと思います」
海原が、らしからぬことを言う。いや、彼には本来はそうしたくはないのに、周囲からのイメージによって、望まぬ振る舞いをしてしまうところがある。
「……そんなこと……」
空野の反応を見れば、海原の言葉が事実とは反していることは分かった。
海原は、自分のことを良く思っていないと空野は言った。海原が言っていることは、空野と全く同じだ。相手の気持ちを、決めつけている。
やはり二人には、過去に何かがあったのだろう。しかし今は、海原と杜山先生の話のなりゆきを見ていることしかできない。
「空野さんは、海原くんのことを心配してたと思う。怪我をしてたとき、私に後のことをお願いするなんて、心配してなかったら言わないもの。それは、海原くんのことを大事に思ってるっていうことと同じよ」
「っ……」
杜山先生がぐっと海原に詰め寄る――大事に思ってるという言葉を聞いて恥ずかしかったのか、空野は驚くほどに顔が赤くなっていた。
「そ、それは……エスカレートしすぎというか……」
「ふつうは保健室で手当てをしたあと、先生に後のことまで任せたりしないもの。先生、何か変なこと言ってる?」
「……確か、杜山先生の方から『任せておいて』と言って、空野先輩が『よろしくお願いします』を言ってくれたように思うんですが……」
「……そ、そうだった?」
海原が言う通りなら、その記憶力に感心すると同時に、杜山先生の記憶力に対して、失礼ながらわずかな疑問が芽生えてしまう。
「……杜山先生……やっぱり、ちょっとだけ天然っていうか……」
「ど、どうなのだろうな……確かにそう思える部分もあるが、基本的にはしっかりした先生だと聞いているが」
空野の言うとおり「天然」という評判も聞こえてきていたが、それがどういうことなのか分かったとは、まだ軽率に言ってはいけない。
杜山先生も、私と同じように先生として、海原のことを考えているのかもしれない。もしそうなら、杜山先生はライバルではなく、同じ思いを共有する相手ということになる。
「そ、その……勘違いしちゃってて、ごめんなさい。海原くんと空野さんのことを見たとき、仲が良いんじゃないかなと思って……空野さんは素っ気ないふうにも見えたけど、海原くんを心配してくれてた。先生にはわかるの」
「……確かに、空野先輩は俺のことを運んでくれましたから、心配はしてくれてたかもしれません。でも、勝手に俺が仲が良いなんて言うのはフェアじゃないと思います」
「海原くんったら、頑固なんだから……でも、やっぱり海原くんは空野さんのこと、大切に思ってるのね。自分のことより、空野さんの気持ちを大切にしてるもの」
私もそう思った――海原は「空野のいないところで、仲が良いと言われること」を、空野に申し訳ないと思っているように見える。
「俺は空野先輩と話せるようになっただけで、十分すぎるほどだと思ってます。今は、それだけしか言えません」
「……分かった。じゃあね、考えてたこととはちょっと違うけど、やっぱり私は海原くんを吹奏楽部に誘いたい」
「どうしてそうなるんですか……全然、理屈が通ってないですよ」
「ううん、ちゃんと通ってる。
――杜山先生が、そんなことを考えてくれていた。
ブラスバンドが応援に来てくれるというのは、どちらかといえば水球の試合などではないかと思うが、各校の応援団は来ていて、思い思いの応援をする――泳いでいるときは聞こえなくとも、スタート前に声援が届けば、それは力になるものだ。
「それでね、空野さんも三年生で、最後の試合だから。海原くんがユーフォニアムを吹いてくれたら、きっと喜んでくれると思うの。もちろん、私たちも」