バイト少年と女神の誘惑 5
「……それでエッチな本、持ってきちゃったんですか」
「ごめんね、ごめんね……棚に戻そうと思ったんだけど、気が動転しちゃって……は、はい、お金……あと、お店さんに謝罪の電話もしなきゃ……」
「い、いや、俺が何とか説明しておきますよ。POSコードだけ確認させてもらっていいですか、これを入れて一冊売れたことにすれば、在庫が狂うことはないので。お金は俺が入れておきます」
「あ、ありがとう……海原くん、コンビニのことは何でも知ってるのね」
何でもは知らないし、非常時の措置なので、決して褒められたやり方ではない。慌てて先生を連れ出してしまった俺の落ち度だ。
先生は車で来ていたので、彼女に乗せてもらって近くの公園までやってきた。
駐車場に車を停め、先生がなぜコンビニにいたのかを聞くことになったが、せっかく来たからということで車を降り、夜の公園に入った――誰もいないが街灯がついており、昼は動いている噴水が今は止まっていて、辺りは静かだった。公園の中央にあるベンチに誘われ、先生に続いて隣に座る。
「はぁ~……あっ、忘れてた……怪しかったわよね、こんなマスクしたりして」
「初めは目を疑いました。まさか
先生は恥ずかしそうにマスクを外す。帽子は車の中で脱いできていたので、あとは白衣を着れば元通り、学校で見る杜山先生だ。
「あ、あのね……海原くんの足は治ったって聞いたんだけど、大丈夫かなって心配になって……この時間までバイトっていうことは、ずっと立ち仕事でしょう? せめて終わったあと、私が家に運んであげようかなって……迷惑だった?」
「い、いや、迷惑じゃないですが……俺、自転車で来てたので。普通に自転車を漕げるくらいですから、もう本当に心配ないですよ」
「ああ~……生徒のためになんて言っておいて、迷惑ばっかりかけちゃって……これだから、『先生が先生だってことを時々忘れます』って、部員の子に言われるのよね……」
「それは、親しみを持って言ってくれてるんだと思いますが……そ、そんなに落ち込まないでください」
「そ、そうよね……私が先生らしくないってことじゃないわよね、きっと」
それは実際に言った生徒に聞かないと分からない、なんて意地悪を言うつもりもない。
何となく、先生が俺の様子を見に来ている理由は察している。先生が俺を吹奏楽部に入れたがっている件が関係しているんだろう。
「……部活に入って欲しいからって、仕事先まで来るなんて……それについては、言い訳もできないくらい、先生としてはしちゃいけないことで……海原くんもそう思ったでしょう……?」
「それは少し……い、いや、本当に少しだけですが。でも先生は、俺のことを強引に勧誘したりはしないでくれてるじゃないですか」
「え、えっと……本当のことを言うと、毎日勧誘したいくらいなんだけど……」
「や、やっぱりですか……」
俺としても何と答えていいのか、上手く言葉が出てこない。
先生が何を考えているのか分かっていながら、その期待に応えてあげられないというのは、申し訳なくてもどかしくもある。
「海原くん、気づかなかったでしょ。最後のほう、仕事をしてるところを、先生はじーっと見てました。てきぱきしてて偉いなって心の中で褒めてました」
「最初は隠れてたんですか……そのまま隠れてたら、気づかなかったかもしれないですね。先生が出てきてくれて良かったです」
「……エ、エッチな本を読もうとしてたわけじゃないのよ。これは、海原くんが急に声をかけてきたから仕方なかったの」
「せ、先生、ここで出すのはまずいです、夜の公園でエッチな本はまずいですよ」
「ま、まあそうなんだけど……本当は、えっちな本は悪いことじゃないと思ってるの。だって、男女のことについて知るのは、いずれ必要なことだもの。もちろん、今は買っちゃだめなんだけど。海原くんがえっちな本を買ってたら、先生は
「それだと、先生が……ああいえ、何でもないです」
「……? と、とにかく。先生は、えっちな本は勉強になると思うから、読んでても別に悪いことじゃないのよ。先生は、大人として必要な知識として読んでたんだもの」
先生の中では、その理由付けが先生らしいと自信が持てたようだ――間違えて読んでしまっただけなのに、エッチな本を全面的に肯定する流れになってしまった。
おっとりとして、話しているだけで癒やされる杜山先生が、不可抗力とはいえエッチな本を所持している――そこはかとなく背徳的だ。
「海原くん、遅い時間だけど夕食は大丈夫?」
「あ、はい。自転車を取りに戻ったら、帰りに買って帰ります」
「それって、コンビニごはんだったりする? ちょっと栄養のバランスが心配ね……私のうちでごはん食べてく?」
「っ……い、いえ、この時間に、先生の家にまたお邪魔するのは……」
正直を言って、先生の作る夕食は魅力的にもほどがある。
認めよう、俺は家庭の味というものに飢えている。優しい味付けの、家庭的な料理を出されるだけで、かなり心が揺らいでしまうのだ。
それでも、甘えてばかりはいられない。前に先生の家でご馳走になったことも、そうそう無いくらいの僥倖な出来事で、頻繁にあったら俺は駄目になってしまう。
「私は全然いいんだけど、海原くんが気になるなら、五日おきに一度ずつくらいにしておいた方がいいのかしら……」
「せ、先生、習慣化したら俺は本当に堕落します。人にご飯を作ってもらうことに慣れたら、元の生活に戻れなくなります」
「……一人暮らしでどんなご飯を作ってるのか見せてくれたら、先生は栄養的な面でアドバイスができるんだけどなー。海原くんのおうちの台所、見たいな―。男の子だから、きっと洗いっぱなしのお皿とかあったりして、綺麗にしがいがあるんだろうなー」
子供っぽく言っているようで、何という誘惑を仕掛けてくるのか。
正直に言おう――甘えたい。先生の厚意にすぐにでも甘えてしまいたい。
しかし俺は、岸川先生に対しても適度な距離を保とうと固くルールを設定しているのに、それを簡単に打ち破られるのは人としてどうなのだろう。
「……なんて、急にお邪魔しようとしたり、うちに来いって言ったり、あんまり強引だと海原くんも困っちゃうわよね」
押しまくってからさざ波のように引かれると、思わずこちらから追いすがりたくなる。
しかし先生は、やはり何だかんだで大人だった。一度話題を変えると、元に戻してくれることはない。
「私、やっぱり海原くんには吹奏楽部に入って欲しい」
「……杜山先生」
「去年の文化祭で、ユーフォの子が体調を崩しちゃったとき、海原くんは飛び入りで参加してくれた。あのとき、秋の文化祭まで一度も吹いてなかったのに、海原くんはしっかりみんなに合わせてくれた。もしユーフォニアムのことを一切考えずに過ごしてたなら、半年ブランクがあってあんなふうにはできなかったと思うの」
今でも、中学時代に部活をしていた頃の夢を見る。