朝帰りの登校風景 3
一文字にしか相当しない短い返事だが、それだけで優しい響きだと思ってしまう俺は、間違いなくチョロい部類に入るだろう。
先輩が今の今まで座っていた自転車のサドルに跨る――と、あまり気にしていると変態っぽいので、なるべく考えないようにする。
「…………」
先輩はどうやって押したものかと考えているようだったが、俺の隣を歩いて、背中を押してくれるという形になった。
電動自転車で、さらに後ろから押してもらうというのは甘やかされすぎのような気がする。しかし、今さら降りようとしたら逆に先輩を煩わせてしまう。
せめて、先輩に後で何かお礼をしなくてはいけない。そんなことを考えつつ、普通に歩いて登校している生徒とすれ違う。やはり視線は感じるが、腹をくくってしまえばあまり気にならなかった。
「…………」
先輩が、一言も発しなくなる。
元から口数が少ないが、完全に沈黙されると落ち着かない。しっかり前を見ていないといけないが、後ろで押してくれている先輩に意識を持っていかれる。
そして、しばらくして先輩の手が微妙に動いている気がして、くすぐったくなってくる。何というか、何かを確かめている感じの手付きだ。マッサージや指圧とまではいかないが、無視できない心地よさがある。
「せ、先輩……微妙にくすぐったいんだけど……」
「海原、結構背中がひきしまってるなと思って」
「ま、まあ……人並みだと思うけど。先輩、もしかして筋肉好きとか……」
「揺らしてあげようか?」
「何でもないです、ごめんなさいもうしません」
「ん」
俺は先輩に対して、身構えすぎだという気がしてくる。だが、先生たちと同じくらいに、先輩に対しても何か弱いというか、年上の女性にはおしなべて弱い気がする。
一個上なだけの先輩なので、そこまで意識しなくてもいいはずだ。大人びていると言っても、実際に大人の先生たちと比べたらまだ学生の俺たちは子供なわけだから。
「……今の、ちょっと可愛かった。海原、いつも落ち着いてて、そうやって慌てたりするの珍しいから」
「俺を可愛いって言うなら、サーベルタイガーあたりでも可愛いと思ってしまうんじゃないですか」
「すごい……自分のことを、サーベルタイガーと同じくらい強いと思ってる?」
「い、いや、思ってないですけど……世間的に可愛いと言われないものの例として上げただけですよ」
「サーベルタイガーだって、ごろごろしてたら可愛いはず。ごろにゃーんって」
「ネコ科の生物がみんなネコみたいとは限らないですよ……それに、絶滅してますし」
「…………それは残念」
「本気で落ち込まないでください、俺がひどいやつみたいじゃないですか……先輩?」
先輩がまた何も言ってくれなくなる。俺の話で機嫌を損ねてしまっただろうか。
「……海原は絶滅しないといいね」
先輩がそう言いながら、俺の背中に寄り添ってくる。
うちの学校だと、まだ冷えることのある今くらいの季節は、カーディガンの上にブレザーを着て登校する女子が多い。先輩もその一人なのだが、それだけ重ね着をしているのに、背中に当たる胸がそのボリュームをはっきりと主張している。
「お、俺は人類の一員として、まだ地球で繁栄しているうちは大丈夫かと……せ、先輩、それより、ちょっと離れてもらって……っ」
「……ちょっと風が冷たいから、海原を風よけにしてるの」
「そ、そう言われても……まあそれくらいなら、全然してもらっていいんですが……いや、いいけど」
「……敬語、完全に直ってなくても、別に怒ったりしないから。たまに敬語になると、ちょっと可愛いし」
「だ、だから可愛いっていうのは……先輩は、ちょっと性格が悪いかな」
「何か言った? ……なんて。自分でも良くないと思ってる」
話していて、ふと気がつく――昔のような空気が、少しだけ戻ったように感じる。
校門まではあと十分ほどかかる。このまま先輩と話していれば、あっという間だろう。
学校に続く、坂の始まりに差しかかる。ここを登るのが遅刻間際の生徒には本当に大変で、心臓破りの坂と呼ばれている――歩いて登る分にはさほどきつくないが、自転車で来た人間はそれなりの比率で坂登りに挑んで、汗だくになってゴールしては教室で後悔するという慣習(?)がある。
俺も許可を取っているので自転車通学ができる。バスで来ることもできるので、今日の帰りはなんとか置きっぱなしにしている自転車に乗って帰りたいところだ。
「……あ。おはようございます、先生」
坂を登り始めたところで、同じように自転車を降りて押してきた人が、俺たちの横に並ぶ――長い髪をなびかせて走ってきたその人は、岸川先生だった。