第一章 南の島(1)
「着いたわ、ここがハルワ島よ!」
輝く海に向かって、レクシアが両手を広げる。
あの後、一行は海を渡り、南の海に浮かぶ小さな島――ハルワ島に到着していた。
「わあ、これが南の島……とってもきれいです!」
目の前に広がる光景に、ティトが目を輝かせる。
青く晴れ渡った空の下、白い砂浜が続いている。海はエメラルドグリーンに透き通り、陽光をきらきらと反射していた。
他に人の姿はなく、波の音が心地よく耳を洗う。
こじんまりとしつつも美しい砂浜を見渡して、ルナが満足げに頷いた。
「レクシアの正体がバレないようにと、大陸からかなり遠いこの島を選んだが……こんなに美しい島だとはな」
「海もきれいだし静かだし、熱々新婚夫婦のお忍び旅にぴったりって感じね! あの船主さんに感謝しなくちゃ!」
ハルワ島は太古の自然を残し、『神秘の島』とも呼ばれていた。
自然豊かで非常に魅力に溢れた島なのだが、観光目的で訪れるには遠すぎるため、船も出ていない状況であった。
しかしその噂を小耳に挟んだレクシアが、船の船主に「私たち、『神秘の島』に行きたいの!」とお願いしたところ、「しゃーねーな、とびきり可愛い嬢ちゃんたちの頼みだ。特別に乗せてってやるよ!」と快くハルワ島まで送ってくれたのだ。
「さて、まずは宿を探さなければ……」
「きゃーっ、本当に海が青いのね! 波の音が気持ちいいわ、最高―っ!」
「待てレクシア、服が濡れるぞ!」
ルナが止めるのも聞かず、レクシアは靴を脱いで海へと駆け出した。
水面をすくい、海水を空へと跳ね上げる。
「見て、水が透き通ってるわ! 砂がさらさらしてとっても気持ちいいわよ、ルナとティトもいらっしゃいよ!」
「は、はいっ!」
「まったく、先に水着を買うんじゃなかったのか? ……だがまあ、せっかくの海だしな。少しだけなら……」
ルナとティトも靴を脱ごうとする。
しかし。
手招きするレクシアの背後で、水面を滑る影があった。
「キュイイイイイイッ!」
ザバアアアアッ!
海水を跳ね上げて、海から巨大な影が現われる。
「きゃあっ!?」
それは首の長い竜のような魔物であった。
平たい身体に、四つの大きなひれ。滑らかな皮膚と同じ色をした青い瞳が、まっすぐにレクシアを見つめている。
「なっ、魔物!?」
「レクシアさん、逃げて……!」
「キュイイイイイイイ!」
魔物が甲高い鳴き声を上げながら、レクシアへと首を伸ばす。
ルナとティトはすかさず攻撃を放った。
「『螺旋』!」
「【烈爪】!」
ルナが糸の束を放ち、ティトが爪を鋭く振り抜く。
ドリル状に回旋する糸と鋭い爪から生み出された真空派が、魔物へと殺到した。
しかし、その攻撃が魔物に届く直前。
「『波よ、盾となれ』!」
ザッパアアアアアアアンッ!
少女の声が凜と響いたかと思うと、波が大きくせり上がって、二人の攻撃を呑み込んだ。
「なっ!?」
「な、波が生き物みたいに動いて、攻撃を防ぎました……!?」
「なにこれ、どうなってるの!? それに、今の声は……!?」
声の主を探して辺りを見回したレクシアは、少し離れた岩場に立つ影を発見した。
「! あの子は……!?」
そこにいたのは、一人の少女だった。
目の前に広がる海のように鮮やかな緑の髪に、同じ色の大きな瞳。
その細い身体からは、青く輝くオーラのようなものが立ち上っている。
「『波よ、鎮まれ』!」
少女が波に向かって手をかざすと、壁のように立ちはだかっていた波が、呼応するように鎮まった。
「ねえ、あれってもしかして……!」
「波を操っている……のか……!?」
「キュイ、キュイッ!」
レクシアたちが唖然と見守る中、魔物が嬉しそうに鳴きながら少女の元へと泳いでいく。
甘えるように長い首を擦りつける魔物を、少女は優しく撫でた。
「浜に来てはだめだと言ったでしょう? あとで遊んであげるから、沖合で待っていてね」
「キュイィ~!」
魔物はまるで返事のように声を上げると、少女に言われた通り、つやつやしたひれを振って沖合へと泳ぎ出した。
「す、すごい、まるで魔物と会話しているみたいです……!」
「彼女は一体……――」
少女は岩場から身軽に降りると、唖然としているレクシアたちの元に駆け寄った。
「驚かせてごめんなさい。あの子は少しいたずら好きだけれど、悪い子ではないの」
小麦色に焼けた肌に、艶やかな長い髪。少し大人びた顔には、おっとりと優しい微笑みが浮かんでいる。
少女は遠ざかっていく魔物の背びれへ緑の瞳を向けた。
「あの子は【海竜】という魔物なの。人間のことが大好きで、この島の守り神だと言われているわ。あなたたちのことを新しい遊び相手だと思って、少しじゃれてしまったみたい」
「そうだったのね! 遊びたいだけだったなんて、びっくりして悪いことしちゃったわ」
「魔物と意思疎通ができるんですね、すごいです!」
少女はレクシアたちの反応を見て、嬉しそうに目を細めた。
「あなたたちは怖がらないのね。初めての人には、どんなに説明しても、どうしても警戒されてしまうのだけど……」
「あら、人間に友好的な魔物ならたくさん見てきたわ。サハル・キャメルとか、花鼬鼠とかね!」
「えっ、そうなの? すごいわ……!」
「レクシアさん、すごく懐かれてましたもんね」
「ところで、先程波を操っていたように見えたが……」
ルナの問いに、少女が頷く。
「ええ。私は『精霊術(せいれいじゆつ)』という力を持っていて、植物や自然を操ることができるの。こうして――『水よ、彫刻となれ』」
少女が海に向かって呪文を詠唱すると、その身体から青くきらめくオーラが放たれた。
たちまち波が盛り上がり、馬の彫刻を形作る。
「ええっ!?」
「波が粘土みたいに……!」
「ふふ。『水よ、弾けて輝石となれ』」
少女が手を叩くと、水の彫刻がぱしゃりと弾けた。
その破片がきらきらと宝石のように輝く。
「わあ、すごい……! とってもきれいです!」
「自然を操れる力なんて、初めて聞いたわ! この島の人たちはみんなその精霊術? を使えるの?」
「いいえ。これは数百年に一度、島で一人だけが宿す力なの。今の代では、この力を使えるのは私だけよ」
「数百年に一度!? すごいわ、とっても特別な力なのね!」
「世界には、まだまだ私たちの知らない力があるんだな」
ジゼルは嬉しそうに笑って、長い髪を耳に掛けた。
「自己紹介が遅くなってごめんなさい。私はジゼルというの」
「ジゼル、素敵な名前ね! 私はレクシアよ!」
「私はルナだ」
「私はティトっていいます!」
「レクシアさんに、ルナさんに、ティトさん。よろしくね」
「こちらこそ! ねえ、その精霊術ってすごく綺麗ね! 良かったら、もっと見せてくれない?」
目を輝かせるレクシアに、ジゼルはふわりと小首を傾げた。
「もちろん! でも、やっぱり不思議だわ。島の外の人たちは、この力を見ると不気味がるのに……」
「あら、ちょっとやそっとじゃ驚かないわ。だって私たち、三人で旅をして、色んな国で色んな人に出会ってきたもの!」
「ええっ、あなたたちだけで旅を!?」
「そうよ、砂漠の国や北方の帝国、東の大国まで行ったのよ!」
「すごいわ……! でも、女の子だけで危なくないの?」
「ええ! なんたって、私のルナとティトは最強の――」
レクシアが胸を反らせる前に、ルナがすかさず口を挟む。
「レクシア、ひとまず海から出たらどうだ?」
「あっ、そうね!」
浜辺に戻ろうとしたレクシアだったが、砂に足を取られて盛大につまずいた。
「きゃっ!?」
ばしゃああああんっ!
「れ、レクシアさーん!」
「た、大変! 大丈夫っ?」
水面にダイブしたレクシアを、ジゼルが慌てて助け起こす。
「けほっ、けほ……ええ、ありがとう! でも、服が濡れちゃったわ」
「早く着替えないと風邪を引くな」
「急いで宿を探しましょう……!」
「そんなに心配しなくても大丈夫よ、温かいし――は、はくひゅんっ!」
「濡れたままだと身体に良くないわ……そうだ、ちょっと待っていてね」
ジゼルは少し離れた草地から、乾いた枝をいくつか拾ってきた。
火打ち石で枝に火を付けると、くすぶる小さな種火に向かって手をかざす。
「『炎よ、燃え上がれ』」
青く透き通る光が種火を包んだかと思うと、鮮やかな炎となった。
「わあ、あっという間に火が大きくなりました……!」
「ジゼル、こんなこともできるの!?」
ジゼルはさらに詠唱を重ねる。
「『風よ、熱を纏いて衣となれ』」
風が炎の熱を乗せて、レクシアを優しく包み込む。
すると濡れていた服がたちまち乾いた。
「ええええっ!? 服が一瞬で乾いちゃったわ!?」
「これも精霊術ですか……!?」
「ええ、そうよ」
「本当に自然を自在に操るとは……魔法とも違う、不思議な力だな」
感心しきりのレクシアたちに、ジゼルははにかんだ。
少し逡巡して、遠慮がちに切り出す。
「あの、もしレクシアさんたちさえ良かったら、この島を案内させてほしいのだけど……」
「えっ、いいの!? ぜひお願いするわ!」
「しかし、迷惑ではないか?」
するとジゼルはぱっと顔を輝かせた。
「ううん、全然! 島の外の人に会えたのはとても久しぶりだし、この島のことを好きになってもらえたら嬉しいわ! それにもし良ければ、旅のお話を聞かせてくれないかしら? 実は私、この島から出たことがなくて……」
「あら、そうなの?」
「ええ。精霊術を持つ人間は、島の外に出てはいけないという習わしになっているの」
ジゼルの言葉に、ティトが目を丸くする。
「ええっ!? そうなんですか……!?」
「そんな習わし、気にすることないわよ! 私がどこにだって連れ出してあげるわ! 一緒に世界を巡りましょうよ!」
「レクシア、無理を言うな」
ルナが呆れたように口を挟むが、ジゼルは目を細めて笑った。
「ふふっ、いつかそうできたら、とっても素敵ね」
「そうでしょっ?」
レクシアは自信満々に胸を叩いた。
「よーし、ジゼルが島の外に出ても驚かないように、旅のお話をたくさんしてあげるわ! 私たちの旅は予想外の事件が盛りだくさんだから、楽しいこと請け合いよ!」
「まあ否定はしないが……逆に驚かせてしまうのではないだろうか……?」
「そ、それにいろいろありすぎて、語り尽くせない気がします……!」
「大丈夫よ、時間はたっぷりあるんだから!」
「それもそうだな――いや待て、どれだけ滞在するつもりなんだ!?」
「もちろん、私が飽きるまでよ!」
「一生帰れないだろう!」
軽妙なやりとりに、ジゼルが声を立てて笑った。
「どんなお話が聞けるのか、とっても楽しみだわ! でもその前に、せっかく来てくれたのだし、ハルワ島をめいっぱい楽しんでほしいわ。何かしたいことはある?」
レクシアは早速目を輝かせて身を乗り出した。
「まずは水着を買いたいわ! せっかくの南の島ですもの、思いっきり海で遊びたいの!」
「なら、街に案内するわね。こっちよ!」
こうしてレクシアたちは、不思議な力を宿す少女ジゼルと共に、南の島を遊び尽くすことになったのだった。
***
時を同じくして、ハルワ島から遠く離れた砂漠では――
「グロリアー! おなかへったー!」
「おやつにしよー!」
煉瓦造りの家に子どもたちの声が響き、本に目を落としていた女性が顔を上げる。
長い紺碧の髪に、何もかもを見透かすような濃紫の瞳。美しく鍛え上げられた肉体を軽装に包み、しなやかな黒い尾が揺れている。そして、黒く艶めく鋼の義手。
彼女こそが、ティトの師匠――『爪聖』グロリアだった。
「グロリア、何を読んでるのっ?」
グロリアの周りに小さな子どもたちが集まる。
グロリアは【赤月の沙漠】の隠れ家で身寄りのない子どもたちを保護し、面倒を見ているのだった。
「これかい? 地質と鉱物に関する本だよ」
「ちしつ?」
「なんだかむずかしそうー! それより早くおやつを食べようっ!」
「ふふ、そうだね」
果物を干した菓子を食べながら、子どもたちがはしゃいだ声を上げる。
「おいしいー! このお菓子、ティトおねえちゃんが好きだったよね!」
「うん! ティトおねえちゃん、元気かなぁ?」
「とおい国のおひめさまたちと旅をしているんだよねっ! 今ごろ、どこにいるんだろう? けがとかしてないかなぁ?」
心配そうな子どもたちに、グロリアは目を細めた。
「心配いらないよ。なんたって、私の弟子だからね。きっと元気でやってるさ」
グロリアはそう言って、遠い空の下にいるであろう弟子に想いを馳せるのであった。