◆友達
多くの人達から祝われた入学式の翌日。
非日常によって浮かれていた生徒達の気を引き締めるかのように、通常授業が開始した。
まず一発目は三限の数学。
彩人達の担任である葉山先生が受け持つ教科だ。
カリカリと出された問題をクラスメイト達が解いている中、ノロノロと亀のように手を動かしている生徒が一人いた。
(わ、分かんねぇ)
その生徒の名前は水無月彩人。
普段は明るく、何事にも興味を示し楽しそうに行うのだが、こと勉強においてだけは例外だ。
授業が始まってからずっと顔を顰めて、教科書と睨めっこ。
何とか自力で解こうとしているのだが、一度に与えられた情報があまりに多過ぎて公式が頭の中でゴチャゴチャになってしまう。
(sinとかsin二乗の公式とか色々あり過ぎなんだよ。てか、授業スピード早くね?)
頭に詰め込む情報量が多過ぎる。流石は進学校。今までの授業とは比べ物にならないほどレベルが高い。
これから先付いていけるのだろうかと彩人は不安になった。
「……彩人どんな感じ?」
そんな彩人の心が聞こえたかのように、前に座っている幼馴染の莉里が振り向いてきた。
「無理。終わってる」
「だと思った」
「次の公式が出てくるの早過ぎんだよ」
「教えてあげよっか?」
彩人が簡潔に今の状況を説明すれば、かなり不味いのだと察したのだろう。
莉里は教えようかと提案してきた。
「頼む」
このままだとそう遠くない未来で赤点を取る自分の姿が見えた。
そうなれば、せっかくの夏休みや冬休みを補習にとられてしまう。
それだけは絶対に阻止せねばならない。
二つ返事で彩人はその提案に飛びついた。
「素直でよろしい。じゃあ何処から分からないか教えてくれる?」
「多分最初から」
「分かった。じゃあ、今出てきた公式を一回端の方に全部書き出してみて」
「分かった」
新しいルーズリーフを取り出し、言われた通りに公式を書いていく。
「出来たぞ」
「おっけ。じゃあ、今度は簡単な問題から行こうか。sinθを求める式から」
「分かった」
「あっ、ちょっと待って。公式見ながら書くのは良いんだけど。何の公式を使うか書いてから解いてみて」
「それ、めんどくね?」
「文句言わない。ほら、やって」
問題を解こうとしたところで、莉里から追加の指示があった。
内容は問題を解く際、必ず使う公式を書くこと。
簡単なことではあるが、それを全ての問題にいちいちやるとなると流石に手間だ。
彩人が嫌そうな顔で抗議したが、マトモに取り合ってもらえなかった。
「はぁ、とりあえずやってみるか」
気は進まないが、せっかくアドバイスしてくれたのだ。やるだけやろう。
溜息を吐き、彩人は莉里に言われた通り公式を書いてから問題を解いていく。
(おぉ、だんだん追いついてきた)
暫くしたところで、彩人の手が急激に進み始めた。
問題を解く直前に、公式を書き起こしていたことでようやっとどの場面で使う公式なのかを理解したからだ。
それでも、一々公式を書いているので他の生徒達に比べれば遅いけれど。
代わりに、公式は確実に身体の中に染み込んでいる。
これを繰り返していれば、テスト前の勉強はあまりしなくてもいいかもしれない。
「……やっぱ、焦って近道すんのは駄目だな」
「勉強に近道はないからね。でも、今は少しだけ焦った方がいいかもよ?」
ある程度区切りがついたところで、しみじみと呟く。
それを聞いていた莉里は同意すると、困ったように教壇の方を指差した。
「次は、水無月君ここの大問二の答えをお願いします」
「へ? は、はい! ええっと――」
突然、担任から指名され慌てる彩人。
そういえば、今は出席番号の逆順に指名されているのだった。
問題を解くことに集中していて、完全に自分が答える可能性を失念していた。
(まっず)
ルーズリーフに目を走らせるが、最初にかなり出遅れた彩人はまだ指定された問題が解けていない。
ダラダラと冷や汗を流していると、トントンと前の席からシャーペンでノートを叩く音が聞こえる。
そちらに目を向けると、少し大きめの字で『十七分の四』と書かれていた。
「――十七分の四です」
「正解です。ありがとうございます、水無月君。座っていいですよ」
咄嗟にその数字を答えると、担任の先生はよく出来ましたと笑みを浮かべる。
何とか無事乗り切ることが出来た。
先生から座るよう言われた瞬間、彩人はヘナヘナと机に倒れ込んだ。
「……ナイス莉里。マジで助かった」
「どういたしまして。今日の彩人は世話が焼けるね」
「返す言葉もねぇ」
とりあえず、機転をきかせてフォローしてくれた幼馴染に心の底から礼を言う。
先程の慌てている彩人の姿が面白かったのか、彼女は肩は震わせていた。
笑うなよと思うが、助けてもらった手前そんなことを言えるはずもない。
今後同じことが起きないよう勉強をしようと固く決意するのだった。
キーンコーン、カーンコーン。
それから、少ししてようやく授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「あぁ、疲れた」
久しぶりの授業というのもあるが、色々あったせいでたった五十分でかなり疲れた。
彩人は椅子を傾け大きく伸びをする。
「お疲れ、彩人」
暫く椅子を揺らしてリラックスしていると、天然パーマの小柄な少年が話しかけてきた。
彼の名前は明石海。
昨日、掲示板の位置を教えてくれた親切なあの少年だ。
今日の朝あった自己紹介で同じクラスだと気がつき、休憩時間に話しかけて仲良くなった。
口数が少なく、独特な世界観を持っている芸術家タイプ。今まで出会ったことのないタイプなため話していて面白い。
「お疲れ~海。お前ついていけたか?」
「ぼちぼち。問題はない」
「マジ? すげぇな。俺全然出来る気しなかったわ~」
あの授業スピードで平然と追いつけているという友人に、彩人は素直に感心する。
「暇なら連れジューしない? 今日来る途中買うの忘れたから欲しい」
「いいぜ。俺もなんか買おうと思っていたし」
丁度自販機に行こうと思っていたので、明石の誘いはタイミングが良かった。
彩人は返事をすると、鞄から財布を取り出し立ち上がる。
「何処の自販機行く?」
「食堂前。あそこには熱々のお汁粉がある」
「ハハッ、お前季節感バグってんな」
海の天然発言に彩人はケラケラと笑いながら、教室を後にする。
「彩人は何を買う?」
「ミルクティー」
「イメージと違う」
「その認識は間違ってねぇよ。基本俺はコーラとかスポドリだ」
「じゃあ、なんで?」
「強いて言うなら、お礼だな」
莉里の方は大したことはしていないと思っているのだろうが、彩人としては結構な借りが出来たと思っている。
だから、その借りを返すためにミルクティーを献上しようと考えたのだ。
財布事情的には気安く人にジュースを奢れるほど余裕はないのだが。ここは必要経費だと割り切る。
「彩人は律儀」
「受けた恩は絶対返せって母さんに仕込まれて育ったからな」
「ヤ○ザみたい」
「ヤンキーではあったらしいな」
他愛ない話をしていると、目の前を歩いていた男子生徒が曲がり角から出てきた美人な先輩とぶつかった。
「キャッ!」
「うわあっ!」
バサバサッ。
ぶつかった二人は尻餅をつき、先輩が持っていた大量のノート達が一面に広がる。
「あちゃあ」
「ちゃあ~」
大惨事を目の当たりにした彩人と海は揃って、やってしまったなと顔に手を当てた。
「ごめんなさい! 僕の不注意で」
「いえ、私の確認不足です。貴方に非はありませんから」
「いや、僕が」
「いえいえ、私が」
ぶつかった二人は立ち上がるとすぐにペコペコと頭を下げ謝り合う。
互いが自分に非があると主張しあっているせいか、アレは中々終わりそうにない。下手したら休憩時間が終わる可能性がある。
「海、行くぞ」
「おけ」
そうなると、流石に二人だけでなくここを通るだろう他の通行人も困る。
仕方なしに、彩人と海は二人の間に入ることにした。
「ちょいちょい。そこのお二人さん。謝るのは良いけど、流石に地面に落ちたもん拾った方がよくないか? 通行の邪魔になってんぞ」
「なってんぞ」
「「あっ!? ごめんなさい」」
彩人が声をかけたことで、今の状況を改めて理解したらしい。
二人揃って間抜けな声を上げ謝るとノートを拾い出し、彩人と海もそれを手伝った。
「すいません。手伝ってもらって。このお礼は必ず」
四人がかりであったこともあり、大量のノートは一、二分程度で集めることが出来た。
深々と彩人達に向かって頭を下げる先輩。
ただ、頭を下げただけなのに所作の端々に気品が溢れており、育ちの良さみたいなものを感じた。
もしかしたらどこかのお嬢様かもしれない。
「お汁粉を所望する」
「俺アクエ○がいいっす」
「ちょっと、二人とも流石にそれは先輩に失礼だよ」
「間に受けんなよ。冗談だっての」
「え?」
「……海、お前ガチだったのか」
彩人としては空気を和ませるため、冗談で言っていたのだが海の方は違ったらしい。
ナチュラルな図々しさに呆れてしまった。
「ふふっ、面白いですね貴方達は。生憎今は待ち合わせがないので、放課後生徒会室に来てくれたらご用意しますよ」
だが、この図々しさがお気に召したのか先輩はジュースを奢ることを約束してくれた。
「やった」
「マジすか。あざす先輩。冗談でも言ってみるもんだな、おい」
「「イェーイ」」
「……やっぱり遠慮ってものがないじゃないか」
まさかの結果に彩人と海はハイタッチして喜び合う。
そんな二人を横目に側にいた少年は大きな溜息を吐いた。
「じゃあ、俺ら自販機行くんで。ここいらで失礼しゃっす」
「失礼~」
「本当にありがとうございました」
奢ってもらえることになったとはいえ、放課後は流石に遅い。
今すぐ飲み物がどうしても欲しい彩人と海は、先輩に頭を下げると自販機に向かう。
階段を降り、食堂前に辿り着いた。
横にずらっと並んだ自販機からお目当ての物を探し出し各々欲しいものを購入する。
カコッと、海がお汁粉のタブを開けたところで先程一緒にノートを拾った少年が遅れてやって来た。
「お前も自販機目当てか。てか、お前駅で痴漢を捕まえようとしてくれた奴じゃん。同じ高校だったんだな、会えて嬉しいぜ」
「昨日ぶり。一応なんだけど高校っていうか僕達同じクラスなんだけどね。自己紹介聞いてなかったの?」
よくよく観察してみると、彼は昨日電車で出会ったあの少年だった。
まさか、同じ高校で会えるなんてと感動していたら実はクラスも同じだったらしい。
「マジか、すまんすまん。自分の番が来るまでボッーとしててよ。他の奴らのあんまり聞いてなかったんだよ。で、悪いんだけどもう一回名前言ってくんね? 今度はちゃんと聞くからよ」
「別に良いけど。僕の名前は――」
「
「――……デス」
若干気まずい思いをしながら、彩人はもう一度名前を教えてくれと少年に頼む。
渋々ながら少年が自分の口にしようとしたところで、海がそれを遮り彼の名前を言った。
満足に自己紹介をすることが出来ずに終わった春樹は、ズーンっと自販機に手を付き落ち込んだ。
「海。人の自己紹介は流石に取っちゃ駄目だろ」
「メンゴ」
流石にそれは駄目だろと非難すると、海は悪びれた様子もなくテヘッと舌を出すのだった。
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◆身長差
時に、人は成長する生き物である。
特に子供から大人になるまでの間はその成長は目まぐるしい。
少し合わないうちに数センチ伸びていて驚くこともしばしば。
だが、不思議と本人もしくは常に側にいる人間は成長していることに気付けない。
それは、ひとえに自分の中でイメージが勝手に出来上がっているからだ。
自分は、この子は、こういう見た目だというイメージが先行して、何かきっかけがないとイメージとのズレを自覚することが出来ないのである。
だから、まぁ要するにアレは仕方が無かったという話だ。
◇
桜の花がピークを迎えた四月の半ば。
保健室を出た彩人は担任から渡された記録紙を眺めていた。
『身長百七十三センチ。体重六十六キロ。座高九十センチ』
「結構伸びたなぁ」
去年の結果に比べれば、四センチも伸びていた。
少しだけ目線が上がったような気がしないでもない。
そろそろ成長期も打ち止めかと思っていたのだが、まだまだ継続中のようだ。
想像以上の結果に、自分のことながら彩人は感嘆の声を上げた。
「彩人見せて」
「おう、いいぞ」
友人の結果がどんなだったのか気になったのだろう。
教室の外で待っていた海が記録用紙を見せてくれとせがんできた。
彩人は女子じゃないので見られて恥ずかしい情報はないから、特に渋ることなく見せた。
「でかっ。二十センチくらい差がある」
「そんな差があるのか。海はもうちょっとあると思ってたんだけどな」
「そうだよね。こんなデータはあり得ない。測り直しを所望する」
海は男子にしては小柄だと思っていたが、まさか二十センチも差があるとは思わなかった。
素直に彩人がそう口にすると、海は嬉しそうに保健室へ突撃しようとする。
が、その場にいたもう一人に肩を掴まれそれは叶わなかった。
「盛りたくなる気持ちは分かるけど、海君何回も『もう一回』って測り直してもらってたから流石に変わらないと思うよ」
「正論パンチやめい」
春樹曰く、何回も測り直しをした後のようだ。
確かにそれは変わらないと彩人も思う。
しかし、現実を受け入れられないのか海は聞こえないとばかりに耳を塞いだ。
彩人と春樹は顔を見合わせ、愉快な奴だと笑い合う。
「おぉ、いとっち達お疲れ。結果どうだった? 見して見して」
「いいぞ」
教室に戻ると、赤茶色髪ギャルの
その後ろから、莉里と
ここ最近、莉里は彩人と話さない時はミナカと朱李とよく話している。
「うわっ、百七十三センチもあるのいとっち。デッカいね~。かいっちは逆に百五十五センチとちっちゃくて可愛い。はるっちは、まぁ、うん普通?」
「僕だけ扱いが雑じゃないかな!?」
「ドンマイ」
三人の結果を見て各々感想を溢す朱李。
一人だけ感想がおざなりだった春樹はもう少し何かなかったのかと抗議する。
だが、春樹は身長も体重はTHE平均という感じで他の感想と言われても難しい。
「莉里。身長どんな感じだった?」
ショックを受けている春樹を横目に、彩人は莉里に結果を尋ねた。
昔は記録用紙を見せろと言っていたが、矢花と莉里の教育によって矯正されたので勿論身長だけだ。
「一応伸びてたよ。〇・五センチ」
「誤差じゃん」
「一の位が変わっているのでちゃんと伸びてます~。彩人みたいに四センチも伸びる方がおかしいの」
「いやぁ、なんか伸び盛りでさ。てか、これでついにお前のこと抜いたな。今まで散々チビ扱いしやがって。これから覚悟しとけよチビ。やーい、チビチビ。あれ、莉里何処行った? チビ過ぎて見えねぇなぁ」
「くぅ~。こうなるって分かってたから負けたくなかったのに」
去年の時点ではほぼ背が並んでいた。
が、ミリの差で彩人の方が負けており結局例年通りチビ扱いを受けていた。
しかし、今年になってようやく関係が逆転した。
積年の恨みを晴らすように彩人が煽り散らかすと、莉里は悔しそうに唇を噛み締めた。
「おおっ、珍しい。りりっちがぐぬぬってなってる。レアだ」
「……そうね」
普段お目にかかれない友人の悔しがる姿に、ミナカと朱李は珍しいものを見たと驚く。
「そういえば、朱李。理想の身長差って知っている?」
「勿論知っているよ。大体十五センチだっけ。確かそれくらいがキスとかハグしやすいんだよね」
彩人が一頻り煽り終えたところで、話題は移り女性らしいものになった。
「十五センチ。ってことは百四十センチ」
「逆を探した方が早いと思うなぁそれは」
「じゃあ、私の場合は百七十七かぁ~。探すの大変そう。あっ、でもミナっちは百五十八だからいとっちと丁度良いじゃん」
「ッ!?」
「チッ」
「チッ!? って、お前今舌打ちしたか!? 流石に酷くね」
「空耳でしょ。被害妄想はやめてくれる?」
それぞれ理想の身長相手に話していると、突然舌打ちを喰らった彩人は仰天する。
ミナカとは殆ど話したことがなく、特別何か嫌われるようなことはしていないはずなのだが。
知らぬまに何かしてしまったのだろうか。
そうだとしたら謝りたい。
莉里の友人と気まずい雰囲気になるのは彩人としては本意ではないのだが、今の反応を見るに難しそうだ。
「別に理想の身長差だからって無条件に付き合うわけじゃないわよ。ヒールとかで多少調整出来るもの。隣に並んで丁度良ければそれでいいのよ」
「うわぁ、自分で話振っといたのに身も蓋もないこと言うねミナっち」
「別にいいでしょ」
明らかに不機嫌となったミナカが雑にまとめて話は終了。
先生が教室に来たところで解散となった。
「莉里のじゃん。ええっと体重は――」
「見ないで!」
「――カハッ」
席に戻る途中、莉里の記録紙が落ちていたので彩人は拾う。
少し悪戯心が湧き上がり、体重の欄を見ようとしたところで怒声と共に拳が鳩尾にめり込んだ。
会心の
あまりの痛みに記録紙を手放した彩人は、改めて女性の体重を見るのはタブーなのだと思い知った。
(五十九ってそんなに恥ずかしいもんなのか?)
ただ、微かに見えた数値は身長的にはかなり痩せている方だと思うのだけれど。
女という生き物は良く分からない。そう思いながら、彩人は意識を手放した。
◇
時は少し流れ、放課後。
駅のホームにて莉里と彩人はベンチに座って帰りの電車を待っていた。
「なぁ、これとか良さそうじゃね?」
「マッ○の店員ね。近場でそこそこ給料が良いけど、先生とか知り合いが来そうで怖いから却下」
「えぇ、じゃあ、ここのモ○は?」
「学校からはかなり離れてるけど。離れ過ぎてて毎日通うの大変だよ。っていうか、よくよく考えたら彩人がハンバーガー安く食べたいだけでしょ。私情なしでちゃんと選んで」
「へーい」
今日の話題はアルバイト。
せっかく高校に上がってアルバイトが解禁されたということで、お金も欲しいし良さげな求人を二人がかりで探しているのだが難航中。
ネックとなるのは
先生に見つからなさそうで、二人が一緒に通える場所となるとこれまた難しい。
途中で探すのに飽きてしまったのか、彩人は片っ端からハンバーガーショップの名前を挙げ出してしまった。
「ていうかさ、そもそも思ったんだけど。お前接客出来んの?」
「……無理かも」
「じゃあ、無理じゃん」
「終わったね」
その場の勢いでアルバイトをしようという話になったが、よくよく考えれば男嫌いな莉里に接客業や人と関わる仕事が務まるビジョンが見えない。
思い返してみれば、一度目に大学でしていたアルバイトは動画編集や広告作成といったもっぱらデスクワーク系で接客なんて一ミリもしたことがなかった。
どうやら、探している段階で結構詰んでいたらしい。
スマホをポケットにしまって二人揃って黄昏る。
すると、電車の到着を知らせるアナウンスがホームに響く。
莉里と彩人はベンチを立ち、列に並んだ。
「めっちゃ混んでね?」
「うん。次の電車にする?」
「っても、昼にめっちゃ遅延したらしいから暫くこんな感じらしいぞ」
「本当だ」
やってきた電車は人が入れる隙間があるのかと思うほど、ギュウギュウ詰めで二人は乗るかどうか躊躇った。
だが、スマホで調べたところ昼に事件があったらしく、次を待ったところで変わりはなさそうだ。
「乗るしかないね」
「それしか選択肢ねぇしな」
というわけで、覚悟を決めて二人は電車に乗り込むことに決めた。
ドアの前にいる人達に頭を下げ、何とか入れてもらうことが出来たのだが、かなりキツイ。
少し揺れただけで鞄や身体がぶつかってくる。
「……ちょっと、じっとしてろよ。すいません」
顔を顰め辛そうにしている莉里を見かねたのか、彩人が小さくそう呟くと莉里を守るように他の人との間に身体を滑り込ませた。
「これでマシになったろ」
(全然マシになってないよ!?)
確かに彩人が守ってくれるおかけで、ぶつからなくはなった。
ただ、その守り方が完全に所謂壁ドンの体勢で。
少しでも顔を動かせば唇が触れそうな距離に彩人の顔が来てしまっている。
この幼馴染のことだ。今更壁ドンなんて関係ないだろとでも思っているのだろう。
正直、莉里もそう思っていた。少し前までは。
数年前に彩人と二人で電車を使って遠出した時に、似たような出来事を体験したことがあったから。
(近い近い近い近い近い近い!)
だが、その時とでは決定的に状況が違うことがある。
それは、身長差。
数年前は、莉里の方が彩人よりも数センチ背が高かったのだ。
だから、壁ドンをしても彩人の顔は大体胸よりちょっと上か首くらいの位置にあってあまり気にはならなかった。
今回も同じシチュエーションになる。
無意識のうちにそう決めつけてしまっていたのだ。
意識外からの不意打ち。
全く想定していなった事態に陥った莉里の頭は故障状態。
身体の熱が暴走し、物凄い勢いで顔に熱が集まっていくのを感じる。
――これは不味い。
理性と本能が幼馴染に見られるのは不味いと警鐘を鳴らす。
莉里は咄嗟に顔を横にずらし、彩人の肩に顔を埋める。
「どうした急に?」
「……何でもない」
全然、全く何でもなくはあるんだけど。
この
バレたら絶対弄られるに決まっている。
ドッ、ドッ、といつもの倍以上の速さで脈打つ心臓に鎮まってくれと切に願うが、言うことを聞いてはくれなくて。
結局莉里が電車を降りるその時まで、心臓の鼓動は早いままで身体の熱が一向に引くことはなかった。