3章 見てはいけないものを見ている(4)
――それは、まるで昨日観た番組を聞かれて答えるような。
今日の献立を聞かれて答えるような、明日の天気を聞かれて答えるような、それくらい軽い口調で放たれた言葉。
真実、彼は特別なことを言っているのだとまったく自覚していないとしか思えない表情で。
バゴン、と音を立て。
グラグラしていた足元が崩れ、わたしは落ちた。体が心が魂が、それをはっきり感じている。
落ちる、落ちる落ちている――わたしは、堕ちている。
じっとりと背中を伝う汗、けたたましく騒ぐ鼓動、お腹の奥の方から疼く痒いようなもどかしさ。
あ、あ、あ、……あ。
わからないとか、はっきりしないとか、ついさっきまではあったそんな余地、もはや小指のつま先ほどだって残っていない。
「……地藤さん」
「はい」
「わ、わたし――」
堕ちるわたしは体を包む浮遊感そのままに、口を開いて。
「…………す、すみません。……妹からかも」
「いえ、ぜひ出てあげてください」
すごいタイミングで鳴り出したスマホの着信音に、ギリギリで我に返った。
「すみません、で、ではちょっとだけ……」
「店の中を適当に見回っているので、ごゆっくり」
地藤さんを残して足早にお店の前から離れながら思う、……わたし、さっき、なにを言おうとした?
通路の端で深呼吸しながら、熱にうだった頭でとにかく今はと電話に出る。
『もしもし、お姉ちゃん? 買ってくれた? どう? 実物どう?』
「ちょうど今、お店に買いに来ているところ。Tシャツとパーカーよね? 可愛いよ、詩音に似合うと思う」
『ほんと!? やった~! 楽しみ~!』
いつもよりテンションの高いその声に苦笑すると、……なんだか、脳に冷静さが戻ってきた。周りの景色がくっきり見え始めたことで、とみに実感する。
「詩音、ありがと……」
『……? なんで? なんでお姉ちゃんがありがとうなの?』
「……あー、……いや、ごめんね、あはは、なんでもない」
『……? 変なの』
そんなやりとりもそこそこに、そっちは夜も遅いだろうからと言ってわたしは話を切り上げた。
「……ふぅぅぅぅ」
深く深く、息を吐いて。
ただ、思う。
………………ど~しよぉぉ~~~~~~~~~!!!!
どうしたらいいの!? こういうのってどうしたらいいの!?
わからない、わからない、わからない……! 自分の気持ちがわからない、じゃない。それは完璧にはっきりしている。
わたしは、彼に、地藤さんに……。
「っ、……はっ、……はっ、…………はっ」
その名前を、顔を、声を言葉を思い浮かべるだけで、心臓が跳ね上がって、ズクリズクリと体の中が疼く。
「……ちふじ、さん」
もしかして、とは思っていた。彼が風邪を引いたあの日。涙をこぼしたあの姿に。
すごく大人で、しっかりしていて、がんばり屋で……でももしかして、その内側には、小さな小さな子どもみたいな、すごく脆くて怖いくらい儚いところがあるんじゃないかって。
そして本人はそれに気づいていなくて、だから労わることもできていなくて。
――生まれてきてもよかったんだって思えるかも、なんて言葉、よりによってあんな表情で言うのは、だって、そんなの……。
「……はっ、……はっ、……はっ、…………~~~~っ」
だめだ、結局は理屈じゃない。
彼についてまだまだ知らないことばかりなくせに、わたしの心の真ん中の部分は、自分の見立てに確信を抱いている。
そして、たまらなくなっている。
「ち、ふじさん……」
もう一度、その名をつぶやく。
……ほしい。わたしは、わたしは――
「…………い、やいやいやいやいや!」
と、ずるりとまた思考が一段深くまで転がり落ちてしまいそうになったあたりで、すこし冷静さを取り戻す。
「………………」
だがそうなってくると、途端にずうんと気分が滅入ってきた。
だって、………………これ、実際。
「…………絶対、無理じゃ……」
自分のその言葉にショックを受けて、体が傾いで頭が壁にゴンとぶつかった。痛い。痛いがそれどころじゃない。
だって!
いままで彼にしてきたこと、見せてきた姿を思うとわたしって、傍迷惑なおもしろ生態女でしかないのでは!
そもそも始まりがストーカーだし!
「ああぁぁぁぁぁぁぁ……」
初恋は実らないともよく聞くし、そんなものかなと呑気に考えていたけれど、実際、渦中で溺れるのがこんなに辛いとは。
……出会いからやり直しってわけにはいかないですか?
「………………はあ」
ダメだ、がっくりきすぎていて、このままではこのショッピングモールの壁際がわたしの本籍になってしまいそう。
気合いでなんとか体を動かし、トボトボと歩き出す。
「…………」
あまりに悲惨な現状に、『逆に良いことを考えよう』なんて思ってきた。
良いこと、良いこと、……あるとするなら、それは。
「……恋は、できた」
なんてことだけは、言えるかもしれない。
わたしは、まともになりたいのだ。
自分の異常性にコンプレックスを抱えて生きている。なので、『自分がやれていないけど、普通の人ならすること』には憧れがある。
恋は、そのひとつだった。
だからこうしてまともなことができて、ちょっとだけ真っ当になれたような気はする。
……うん、うんうんそうよね。
地藤さんとのことを出会いからやり直せないかと思ってはいるけど、それはそれとして、方向性としてはいい気がする。
なんせ、人に甘えることがちょっとだけでもできるようになれたのだから。まともな人へと続く道筋だ。
人にお世話をしたい気持ちを制御できず、中学時代は合計六つもの部活に迷惑をかけた。今も懲りずにとにかくお世話をしたくてしたくて、したすぎて。
そんな自分が異常だとわかっているから、まともになりたい。
正直、自分が地雷系になれるとは思っていないけど、すこしでも甘えることを覚えて、人にお世話したい欲が強すぎることとのバランスを取る――その計画は順調ではあるんだ。
まだまだ異常なわたしではあるけれど、マシになる道には乗れている。
それが今ある救いだった。
「……ええっと、地藤さんは」
さっきのお店の中に入り、ウロウロと彼の姿を探して歩く。
「こういうのもおすすめですよ~。今、とても人気で」
「へえ、そうなんですね」
「……あら」
すぐに見つけたけれど、どうやら店員さんと話しているようだった。
若い女性の店員だ。
自分たちとそこまで歳は変わらないだろうか、距離感が近い。ニコニコと明るく笑う接し方も、ともすれば肩が触れるくらいの位置取り的にも。
「お客さま、スタイルいいので映えますよ~」
「いえ、そんな」
「………………」
必要、あるだろうか。あんな距離。
必要、あるだろうか。あんな笑顔。
必要、あるだろうか。あんな……。
あんな。
「あ、ふふ、お客さますみません、襟が」
「え?」
その女性店員が彼に笑顔を向けているだけで、彼の隣にいるだけで、わたしの中には黒くて重い泥が湧き出てきていた。
ギリギリ、一応まだ内側に隠しておけるくらいのものではあったそれは、
「さっきジャケットを試着されたときでしょうか。ちょっと失礼しますね」
「――は?」
彼女が地藤さんの襟元へ手を伸ばし、立っていたそれをススッと直したときにドロリと溢れた。自分でも聞いたことのないくらいの低い声として、現実の世界へ表出する。
なに? は? なに?
なんで?
なんで、その人のことをあなたがするの? なんで?
頭でグルグルと思考を回しながら、体をじっとしておけるほどわたしは落ち着いた人間じゃなかった。
「地藤さん」
「ああ、雷原さん」
こちらへ振り返る地藤さん。彼の声と言葉に胸の中で心臓が跳ね、その隣にいる女性の姿に腹の中で泥が増す。
「お待たせしました。……ええと、そちらの方は」
「店員さんです、いろいろ教えていただいていまして」
「あはは、ごめんなさい、彼女さんですか? お邪魔しちゃいまし、た、……ね……」
こちらの顔を見た女性店員は、みるみるうちに表情を強張らせていく。
ありがたい、伝わるものね。
女には女の敵意がちゃんと。
わたしは一歩さらに近づき、彼女の目を覗き込んで言う。
「いえ、お世話になったみたいで」
自分自身で言葉にした内容に、怒りと苛立ちで頭が割れそうになる。
なんで、ねえ、なんであなたがこの人のお世話をするの?
目の前から小さく息を呑む音が聞こえる。女性店員はわたしからすぐさま顔を逸らし、「ご、ごゆっくりご覧くださいね!」と言い残して去っていった。
「……すみません、地藤さん。恋人の邪魔をしたと誤解されてしまったみたいで」
「はは、まあ、休日に男女で買い物に来ていればそう思われてしまいますよね」
地藤さんは爽やかに笑う。その言葉になんの含みもなさそうなのが、勝手にとても苦い。
「妹さんでしたか、電話」
「ええ。用件も予想通りでした」
答えながら、彼が手に持っているものに気づく。
「地藤さん、そのジャケット」
「せっかくだから買っていこうかと。さっきの店員さんがおすすめしてくれたものです」
「…………そう、ですか」
薄手で品のいい作りのそれは、これからの季節に気軽に着られそうだし、彼によく似合うと思う。
だけど、……それ、わたしじゃない女が。
…………。
……。
「……雷原さん?」
「……え、あ、……すみません」
「……ん、すこし顔色が悪いような」
「えと、それは……」
体調が悪いのではなくて、先ほどからの勝手な怒りと苛立ちで血の気が引いているだけだ。
でも、……そうか、でも。
「ご、ごめんなさい、なんだかちょっと立ちくらみが……」
「……っ、それはいけません、休みましょう」
人生で一度も立ちくらみなんてしたことがないわたしの吐いた嘘を、地藤さんは信じてくれた。
「通路に休憩用の椅子があるので、そこまで行きましょう。……歩けますか?」
「……ちょっとクラッときただけなので」
「それはよかった。でも、一応休みましょう」
彼はわたしを店の外へと連れ出した――もちろん、手に持っていたジャケットは戻して。
……そうしてくれるって、わかってた。
「よかった、空いてますね」
「はい……」
大型ショッピングモール特有の、通路脇に置かれた椅子。そこにわたしを座らせてくれたあと、彼は心配そうにこちらを見る。
「……ほ、ほんとにちょっとだけですから。……あはは、慣れないことをしたものだから体が拒否反応を示したのかも」
「なるほど、はは、雷原さんらしいかもですね」
あるいはこちらを元気づけるためにだろう、わたしの言葉に明るくそう地藤さんは返してくれる。
優しい人だ。
そんなこの人に、わたしはなんてことを……。こんな――…………あれ?
こんな?
「そうだ、何か飲み物でも…………雷原さん?」
わたし……あれ? これって……。
「え、ちが、……わたし……」
「雷原さん? どうしました?」
「うわ、あれ見て、地雷系」
「ほんとだ。しかもなんかヘラってる感じじゃね? イメージ通りすぎて笑う」
――わたしの耳が、そんな声を拾ったのは偶然ではないのだろう。
聞くべくして聞いたのだ。
自分の行いを、振り返ってみる。好きな人の気を引くために、優しい反応をしてくれるってわかった上で、具合が悪いと嘘を吐いた。
そういうコミュニケーションの取り方は、そういう人への甘え方は、それはまるで。
まるで、っていうか。
「……あ、れ?」
「ら、雷原さん?」
地雷とは、よく言ったものなのだろう。
踏んで初めてわかるのだ、それが埋まっていたことを。