3章 見てはいけないものを見ている(3)

 醜態を晒す、とはまさにあのことである。

「ほんとうにお世話になりました。ありがとうございました」

「いえいえそんな!」

 もはや定例と化した、雷原さんとの日曜日のひととき。

 俺からはとにかく、その話が出てしまう。すでに何度かお礼は伝えているが、それでも。

「雷原さんに伝染しませんでしたか……?」

「まったく。ふふ、生まれてから一度も風邪に罹ったことないので!」

 強い。安心させるために大袈裟に言ってくれているのだとは思うが、ほんとうにそうなのかもしれないと感じさせる凄みがある。

「地藤さんこそ、もうご体調はだいじょうぶなんですか……?」

「おかげ様ですっかり。学校にもバイトにも行けています。そしてこの通り、ゲームセンターにも」

「まあ、ふふ。よかったです」

 今日、ふたりでやってきたのは市内繁華街にあるゲームセンターだ。広々とした店舗の中は、さまざまな客層で賑やかである。

「懐かしいですね、ここ、小学校のころに来て以来です」

「あら、そうなんですね。わたしは、上の妹が特に好きなのでよく」

「へえ、どんなゲームを?」

「もっぱら対戦系のものでしたね」

 なるほど、勝負事の好きそうなアスリートっぽい。

「せっかくなので、それもあとでぜひやりましょう。ただ、今日の自分たちのお目当ては……」

「これですね!」

 俺たちがやってきたエリアにずらりと並んでいるのは――ゲーセン界隈の王様のひとり、クレーンゲーム。

 雷原さんの本日のミッションは『景品プライズをねだる』だ。

「……しかし、昔よりもクレーンゲームがめちゃくちゃ増えてる気が……。こんなに台数ありましたっけ?」

「あー、そう言われてみれば多くなったかも……。クレーンゲームのエリア、ここまで広くなかったような」

「人気なんですね」

 ズラッと並んだ筐体たちは、俺の記憶よりも明らかに多い。その間を、ふたりでウロウロとどんな景品があるか見て回る。

「し、しかし、……い、いいんでしょうか? ほら、お金もかかってしまうので……」

「来る前に言った通りですよ。自分もあんな豪勢なお弁当をいただきましたし、何より、この間は看病もしてもらいましたから」

「でも…………い、いえ、……甘えないと、はい!」

 グッと握り拳を作って気合いを入れる雷原さん。

 彼女はやがて、一台の筐体の前で足を止めた。中に並んでいるのはうさぎのぬいぐるみ。うるうるとした瞳とグルグルに巻かれた包帯が特徴のキャラである。

「お、見たことあります。クラスの女子がグッズを持っていた気が」

「じ、実はわたしもいくつか持ってます……」

「へえ、お好きなんですね」

「はい、可愛いですよね、ウサバャン」

「……なんて?」

 そういえば初めて聞いたこいつの名前は、同じく人生で初めて聞く発音だった。ウサ……なに?

「ふふ、ウサバャンですよ、ウサバャン」

「ウサビャン」

「惜しい、バャンです」

「……舌の修業が足りないようです」

 俺のレベルでは難しい名前らしかった。

「そういえば、今の雷原さんの格好のような、地雷系ファッションに似合う感じですよね」

 可愛いがベースだがちょっとダークなテイストもあり、というところが共通項だ。

「そうなんですよ、定番グッズで! …………え、えと、なので」

「はい」

 ガラスケースには『期間限定プライズ専用デザイン!』の文字が躍る。今しか、そしてクレーンゲームで取ることでしか手に入らないのであれば、同じものをすでに持っているというのもなさそうだ。

「そのー……」

 彼女から言葉が出てくるのをゆっくり待つ。映画館のときに功を奏したやり方を、今回も俺は採ることにした。

 雷原さんはクレーンゲーム機と俺の間で何度も視線を往復させる。

「ええと、……その、……ええとですね」

 彼女は、そして最後にすこし俯きながら、こちらをおずおずと見上げつつ、

「……あの子、が、ほしいの、ですが、……ほしい、ので!」

「はい」

「…………と、取ってもらえると、うれし、……いや、えと、取ってもらいた……その、……取って、ください、ますか!」

 俺に向かってそう告げた。ぎこちないけれど、はっきり目を見て。

「はい、ちょっと待っていてください」

 極論、この時点でもう今日の目的は達しているのだが、それはそれだ。当然、シンプルに取ってあげたい。それこそ、ああしてがんばってくれたのだから。

 胸中、つくづく感謝するのは叔父さんだ。

『男にとって、練習する価値のあるものがふたつある。ブラをノールックで外すことと、クレーンゲームで景品を取ることだ』とは叔父さんの言で、……ひとつめについてのコメントは控えるが、ふたつめは、もしかしたら正しいのかもしれない。

 少なくとも、小学生時代にしっかりコツを叩き込んでくれたことは役に立ちそうだ。

「アームの爪は……角度ついてるか。他は……」

 そもそもこの遊びは台選びがその成否の多くを占めているのだが、見る限り、景品の位置取りも含めてそんなに条件は悪くなさそうだ。

 百円を入れて、まずは一回目。

 特徴的な音楽を流しながら目標へ向かったクレーンは……爪を引っ掛けたものの、持ち上げるには至らなかった。

「あ、惜しい……」

「……アーム、そんなに強くないですね。なるほど、……じゃあ」

 ちょうど今ので、目当てのぬいぐるみは顔から突っ伏すようにコテンと倒れ込んだ。狙うのはもちろん、尻についた商品タグだ。

 二回、三回、四回目。

「わ、すごい!」

「いけそう……ですね、よし」

 クレーンの爪は無事、狙い通りにタグの輪の中に入り込んだ。そのまま持ち上げれば、ぬいぐるみはしっかり浮き上がる。

 吊り上げたまま移動して、獲得口へ。

「わ~、あっさり……」

「なんとかなりました」

 ずいぶん久しぶりだし、仕様もあのころとはいろいろ違うだろうからどうかとは思ったのだが、やきもきさせずに済んだようだ。

 ガコンと音を立てて落ちてきたぬいぐるみを、安堵しながら屈んで取る。

「どうぞ。雷原さんのものです」

「……あの、……ありがとう、ございます」

 俺の差し出したぬいぐるみを受け取って――彼女はそれを抱きしめて微笑んだ。

 すごいな、CMみたいだ。

 地雷系ファッションに身を包んだ雷原さんの腕の中、まるで最初から決まっていた定位置に収まったみたいな顔で、ウサバ、……ャン? は抱かれている。

 作り手はまさに、きっとこういう女の子にこういう顔でこういう風にしてほしかったんだろうな、なんて思ってしまうほどだ。

「……すみません、……えへへ、その、う、嬉しいですね! 取ってもらうのって」

 パタパタと自らの顔を手で仰ぐ雷原さん。喜んでもらえて何よりだ。

「それはよかったです。……いや、ほんとになにか看病のお礼をしたいとは思っていたので。むしろこれで足りるのか心配なくらいですが」

「そんな、……そもそもわたしがやりたくてやったことですから」

「でもあの日、それがとてもありがたかったんです。雷原さんにああしてもらっていなかったら、もっと拗らせていたかもしれませんし、それに……」

 熱で朦朧としていたので細かく覚えていない部分も多いのだが、……あのとき、彼女の温かさにとても救われた感覚が、今でも残っている。

「雷原さんほどではないかもしれませんが、俺もあまり人に甘えるのが得意なタイプではないんです。だから、つまり、雷原さんにああしてもらわなかったら、ああいう経験は人生でずっとしないままでした」

 それこそ、彼女はおそらく中学時代の思い出を原因とした『自分のお世話は人に迷惑をかける』という気持ちを強く持っているのだろうけれど、少なくともここにひとり、反例がいることは伝えたい。

「俺はあの日、雷原さんが雷原さんだから、とても救われました。それは、お伝えしたくて」


「雷原さんが雷原さんだから助かった人間が、一応いることだけ覚えておいてもらえると」

 ずっと、体が変だ。

 この言葉をもらったからじゃない、ぬいぐるみをもらったからでもない、その前からずっと。そして、前からずっとなのに、言葉とぬいぐるみをもらってさらに変になる。

「は、はい……」

 なんだか、グラグラする。頭の中がまとまらなくて、足元が落ち着かない。

 声が変な風に上擦らないよう、気をつけに気をつけてわたしは彼に返事をした。今日は最初の挨拶から全部そんな調子。

 普通に話せているように見えていたらいいのだけど……。

「そういえば、他にもいますよね、そのシリーズのキャラクターって。強そうな顔で睨んでる子とニコニコ笑っている子を見たことが」

「いますいます、ウサボャンとウサベャンですね」

「ダメだ、舌のレベルが足りない……」

 なんでもないような顔で会話を交わしながら、ずっと心臓の鳴りも早い。

 これも今日、彼の顔を見たときから。なにかをわたしに伝えようとするように騒がしい。

 ええと、だから。

 つまり、あの~、……そういう感じのあれとか、なのかな。

 いや、でも、わからない。はっきりしない。これ! ってわかるものじゃないのだろうか。今のわたしにわかるのは、ただ、グラグラしている足元がとにかく落ち着かないことだけ。

 チラリと隣の地藤さんの横顔を盗み見て。

『すみません、……はは、熱で涙腺おかしくなったのかな……』

「……っ」

 不意にあのときの彼が脳にフラッシュバック。ゴクリと喉が鳴りかける。

「ウサバ、ャン、ウサビャン、……ダメだ、ウサバ、ャン、ウサバ、ャン、……ウサビャン、……んん?」

 発音の練習をする地藤さん。

 小さく首を傾げるその姿に、大人っぽくて頼りになるその人の仕草に、……可愛いって、思ってしまう。

 無意識、ぎゅうっとわたしは腕の中のぬいぐるみを抱き締めた。

「他のゲームもせっかくだからやっていきませんか。上の妹さんとやっていた対戦ものってどんなのを?」

「は、はい。あの子がいちばん好きなのはですね――」

 彼を連れてきたのは、独特の雰囲気がある格闘ゲームのコーナーだ。

「お~、格ゲー」

「ネットワーク対戦もできるのに、『人間とやってる感が欲しい』ってわたしや下の妹と戦いたがるんです、ふふ」

 下の妹の花音は人と競うことに興味がないので、もっぱら詩音の相手はわたしの役目だった。

「見てみたいです」

「上手くもないのでお恥ずかしいのですが……」

 言いながら、わたしは椅子に腰掛けて筐体に百円を入れる。よかったら、と地藤さんがウサバャンをあずかってくれた。

 馴染みのキャラクターを選んで、一人用のストーリーモードを選択。レバーを倒す手は幸い、さほどぎこちなくはない。

「うーん、ギャップがあって絵になりますね、地雷系ファッションの方がこういうゲームをやっている姿は」

「ふふ、そうかもしれませんね。あ」

 対戦相手が現れました、の表示。対人戦の始まりだ。

「お、がんばってください」

「はい!」

 と言っても、ほんとうにわたしはこういうゲームに詳しいわけではない。なので、コンボとかはよくわかっていないので……。

「……えい、……っほ」

「……雷原さんの攻撃、すごくよく当たりますね」

「いえいえ、単純なことしかやってないんです。相手の動きを見て、当たるときに当たる攻撃を出すボタンを押してるだけなので」

 ガードも同じだ。相手の攻撃が見えたとき、間に合うなと思ったらレバーを後ろに倒してるだけ。

「……? 相手の動きを見てからボタンを押して、それで間に合うんですか?」

「意外と間に合うんですよ。ダメなときはダメですが……あ、でも勝てました」

 わたしのキャラの蹴りで、相手が後方へ吹っ飛んでいく。ちなみにこのキックはササッと出てくれるので、相手の攻撃がちょっとゆっくりした技の場合、後から出したこちらの方が先に相手に届く。なので、特に愛用している。

 2ラウンド目が始まった。

「ほら、今の相手のパンチ、出始めがわかりやすいじゃないですか。このときにボタンを押せばこっちのキックが当たります」

「……いや、……ん?」

「ほら、これです。あ、また」

「ぜ、ぜんぜんわからない……。え、見えてるんですか? 今のが?」

「なんとなくですよ、なんとなく」

 なんてやっている間に、相手の体力ゲージがまたゼロになった。2ラウンド取ったので、これでこちらの勝ちだ。

「上手な人たちはこんな行き当たりばったりのやり方じゃなくて、ちゃんと『こういうキャラはこういうときこういうことをやってくる』って読んで戦うんだと思いますが、わたしは何にもわからないので」

「いや、それをやらずに勝てるというのはむしろ……。……もしかして、反射神経もめちゃくちゃいいんですか、雷原さんって」

「どうでしょう……あ、妹には野生の獣の戦い方だと言われます」

「すごい表現だ、強そうですね」

 ……あれ、い、言わない方がよかったかな?

 だって可愛い感じじゃないよね……? なんて後悔するのは、可愛いと思ってほしいから?

 ……可愛いと、思ってほしいの?

 つくづく今日は、自分でも自分の心の動き方がわからない。

「今度の相手はちょっと強いんですね」

「そ、そうかも、ですね!」

 ごめんなさい、……正直さっき戦った人とあまり変わらないかも。先の会話の動揺が響いているという、わたし側の問題だ。

 いやいや、集中集中。と思いながら、どう見えているんだろうと気になってしまって、チラッと彼の方を見てしまい。

「っ……!」

 思ったよりも近かったその距離に、手の中でレバーがずるりと滑る。

「……あ、……ま、負けちゃいました、あはは」

「いえいえ、良い勝負でしたね。次のラウンドはきっと勝てますよ」

 地藤さんはただゲームを熱心に見てくれていて、だから画面にすこし前屈みで、その結果こちらとの距離も近いだけ。

 勝手に緊張しているのは、わたし側の問題だ。

「あ、えと、……わ、……ええと、えと」

 次のラウンドもダメダメ。驚くほど集中できていない。

 わざと負けてかわい子ぶりっ子したいとか思っているわけじゃないけど、……あれ、でも、その方が男性からしたら好印象?

 わからない、男女のイロハを何も知らない。それを後悔、しているのだろうか、わたしは今もしかして。

 頭の中がまとまらないまま、結局試合には負けてしまった。これでゲームオーバーだ。

「接戦でしたね。でもすごいな、全然練習していないでこれなら、やり込めばかなり強くなれるのでは?」

「いえいえ、……あはは、楽しいゲームだとは思うんですが、人と勝ち負けを競うのはそこまで」

 そこら辺が、これを好む詩音とわたしの決定的な違いだ。

「ああ、なるほど」

 頷きながら、こちらにウサバャンのぬいぐるみを手渡してくれる地藤さん。

「…………」

「……雷原さん?」

 受け取るやいなや黙り込んだこちらに、地藤さんは不思議そうな顔をした。

「え、あ、いえ、ありがとうございます」

 お礼を言って笑って誤魔化しながら、わたしの胸の奥では、心臓がすこしその鳴りを高くしている。

 いや、いや、……気のせいだ。今の今まで彼の腕の中にあったぬいぐるみから、熱のようなものを感じるだなんて。

 じゃあ、それで自分の頬が熱いのは?

 ああ、ボーッとして、……グラグラする。頭が熱っぽく、足元が落ち着かない。一度も引いたことないくせに、これが風邪なんかではないという確信は持てる。

 グラグラ、グラグラ。

 わたしの足元は、絶えず揺れている。

 それは結局、この日地藤さんといっしょにいる間ずっとそうで――。


「お、雷原さん、これじゃないですか?」

「あ、そ、そうですね! これみたいです」

 ダメだ、治らない。

 一週間経っても、彼に会った瞬間に同じ症状が現れる。

「……うん、合ってます。詩音が欲しがってたコラボTシャツ。これです、はい」

「妹さん、お好きなんですね、イカが戦うあれ」

「そうなんです、スケートの次くらいに。ふふ、昨日から『明日発売だからね! ちゃんと買っておいてね!』って何度もメッセージを送ってきてるんです。今に電話を掛けてくるかも」

「こっちが昼下がりなので妹さんたちがいるらしいカナダは……真夜中? むしろ早朝ですか? いや、熱烈なファン魂ですね」

 わたしたちがいるのは、一回目に出かけたときと同じショッピングモール。

 映画館、ゲームセンターとうまくいったので、またここに再挑戦しに来たのだ。

「格闘ゲームについてもそうですが、おっとりしてる子ながら勝負事が好きで。三姉妹でいちばん熱くなるんですよ。下の妹は逆に、普段は人にはっきり言いたいことを言える子なんですが、勝ち負けにはあまり興味がなくて」

「姉妹でいろいろ性格が違うんですね」

 普通に会話をできている、とは思う。つまりそれは普通の会話の裏側でもずっと、頭が熱っぽいまま、足元が落ち着かないままだということだ。

 この一週間、これがいわゆるあれなのだろうかと悩んできた……けれど、いまだに自分の中でははっきりしない。

 恋愛ごとに疎すぎるからなのだろうか。情緒の発達が足りてない……?

「……ふたりには、『お姉ちゃんがいちばんクセ強だからね』とも言われるのですが。両親まで頷くんですよっ」

「はは、でも、もう言われなくなるかもしれませんよ。ほら、今日だってうまくいきましたし」

 そう、実は今日の挑戦はもううまくいっているのだ。前と違い、なんとかかんとか『自分の行きたいところに人を連れ回す』ことができている。

「そ、そうですよね! ……自分が使うものじゃなくて妹へ贈るものを買う、というところは、ちょっと大目に見てほしいのですが」

「大きな一歩ですよ、すごいと思います……ん、雷原さん、あれもそうじゃないですか? あのパーカー。コラボアイテムみたいですが」

「あら、そうですね。ありがとうございます、……サイズも……うん、合うものがあります」

「よかった」

 妹から頼まれていた品は揃ったので、レジへ行って会計。

「へー、この無人レジ、バーコード読む必要もないのか……」

 興味深げにレジの機械を眺める地藤さん。

 可愛いな、とか思ってしまう。手が震えてパネルのタッチミス。落ち着け落ち着け。

「ところで、上の妹さんにばかりプレゼントを買うのは、揉め事に繋がったりしないんですか? 自分は兄弟姉妹がいないので感覚わからないのですが」

「揉めますね~。下の妹にも買って送ってあげたいものがあるので、……よ、よければこの後そちらも……」

「なるほど、もちろんお付き合いしますよ」

 人を自分の都合に付き合わせることには、まだまだやっぱり体が慣れない。でも、段階を踏んだ練習のおかげで、どうにかおっかなびっくりながらもできるようになった。

 地藤さんはこの前の看病のことをすごく感謝してくれていたけれど、あんなもの、やっぱり受けている恩を考えたらお返しのうちに入らない(というか、わたしからすればやりがいの塊でしかないので、負担にすらなっていないのだ)。

 店を出てショッピングモールの通路を歩いていると、地藤さんが着ている服とテイストが同じ方向のものを売っているショップの前を通りかかった。

「せっかくなので地藤さんの服も見ませんか? このお店なんていかがでしょう?」

「あー……」

「……?」

 言い淀んだ彼は、やがて苦笑して答えた。

「実は、お恥ずかしいことに自分で服を買った経験がほとんどなくて」

「え、そうなんですか? でも、いつもよくお似合いのものを」

 今日だってそうだ。スッキリとしたデザインのシャツを中心に合わせた、大人っぽい装い。いわゆる綺麗めのファッションで、彼によく映えている。

「全部お下がりなんです、叔父の。……あ、店長のことです」

「あら、そうだったんですね」

 わたしの返事には二重の意味がある。服のことと、……そうなんだ、単なるバイト先の店長じゃなくてご親戚だったんだ。

 やっぱりわたしは、この人のことをまだまだ知らない。……この言葉も意味が二重だ。文字通りのものと、だからもっと知りたいというものと。

 ああ、グラグラする。

「着こなしも不安ですよ」

「そんなことないです、とても素敵ですよ」

 足元が揺れて揺れて、落ち着かなくて。

「ほんとうですか? そう言っていただけるとホッとするのですが、なにぶんセンスがないもので」

 わたしの隣で、うーむ、と自らの服装を見下ろしながら言う地藤さん。

「ちゃんとしてなければならないので、なんとかそれらしくなっていればと思います」

「…………」

 ちゃんとしてなきゃ、って。

 その言葉には聞き覚えがあった。

『なにやってんだろ、……ちゃんとしてなきゃいけないのに』

 ベッドの上に涙を降らせながら、彼はそう言っていて。

「あの……地藤さん」

「はい」

「ちゃんとしていなければダメ、ってどうしてですか?」

 自然とその問いが口を突く。

 そして、予感はいつも遅刻魔だ。それをしたなら後戻りはできないぞと、そう教えてくるのは言葉が舌を離れてからでは間に合わないのに、意味がないのに。

「え、ああ」

 地藤さんは、ニコリとごく自然に微笑む。

「大した理由じゃないんです。ただ、ちゃんとしていれば、そうあり続けていればいつかは俺も」

 そのまま、彼は続けた。


「生まれてきてもよかったんだって思えるかもって、はは、それだけです」

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