第一章 動機なき容疑者たち(2)


 彼もリチャードの補佐として、時にはリチャードに代わってウィマー家を率いていく立場だ。

 だからこそ、将来強力な縁故を持つようになるセラを狙うとは思えない。

 何より、家族全員がセラを愛していたのは、彼女の知識にもある。

「そうなるとやはり、家族に犯人はいなさそうか」

「はい。やはり外部の者じゃないですかね?」

「屋敷の中に外部の者が入ってこれるとは思えない。となると、誰かの差し金が送り込まれていたかもしれない」

「裏切者が屋敷の中に?」

「ああ。誰か事件後に姿を消した者はいない?」

 問われてセシルは、今度は真剣な目で思案する。

 彼女にとってセラは姉も同然、家族も同然の存在だ。それを害する犯人が自分の同僚にいたとなると、真剣にもなるだろう。

「今は夏の最中で、休暇を取る者も多いですから……誰が消えたと断言できるわけではないです」

「そうか、残念」

「ですが食事に毒を盛られたのなら、厨房の関係者を調べてみればいいかもしれません」

「お、セシル頭いい」

 それは俺が動けるようになったら、真っ先に調べてみようと思っていた事柄だった。

 しかし今は自分で動くことはできず、また幼い彼女に調べさせようというのは危険極まる。

 なので、当面の間は傍観するように命じておく。

 この間に証拠などを隠滅される可能性もあるが、セシルの命には代えられない。

「犯人がいたのなら、セシルの命が危なくなる。あまり無茶な行動はしないように」

「でも、逃げられちゃいますよ!」

「セラが倒れてから、もう一週間。逃げるならとっくに逃げてるはずだ」

「あ……」

 今下手に動くと、セラが生きていることや、こちらが調査に乗り出したことまで、相手に悟られてしまう。

 一週間も出遅れてしまった以上、対応は慎重に行う必要があった。

「まずは俺が回復して、自由に動けるようになってから」

「分かりました。それまで私は何をしていればいいでしょう?」

「そうだな……先に言ったけど、用意してもらいたい物があるから、それを集めてくれるかな」

「分かりました!」

 目の前には情報を書き込んだ紙が散乱している。それを片付け、人目につかない場所にしまい込む。

 家族を疑っていたと知られるのは、やはり気まずいものがあるのだから。

「それで、私は何を用意すればいいのでしょう?」

「まずは使用人全員のリストからかな。捜査するにしても、対象を絞り込まないと、とてもじゃないけど手が足りない」

 ウィマー家は公爵位を持つだけあってかなりの領地を持っている。

 その本拠地ともいえる屋敷には、公爵を守るための騎士団すら常駐しているほどだ。

 使用人、執事、護衛の騎士。屋敷に出入りする人間を数え上げれば、キリがない。

 せめて怪しいと思える者のリストくらいないと、やっていられなかった。

「セシルは使用人、特に厨房周りをリストアップしてくれる? でも決して危ない場所には近付かない事」

「大丈夫です、慎重にやりますから!」

 どこかワクワクした表情で、目を輝かせるセシル。その顔は思わず頭を撫でてあげたくなるほど可愛らしい。

「ゴホン。それと身体を鍛え直す必要もあるかな? 一週間も寝続けていたのなら、かなり鈍っているはずだし」

 俺も警察に所属していたので、剣道や柔道の心得はある。日本の警察ではそういった武道の習得を推奨されていたからだ。

 もっとも、実際に命のやり取りがあるこの世界で、スポーツと化した技能がどこまで通じるかは、全くの未知数だった。

「駐留している騎士の人に話を通しておきますか?」

「……いや、まだ俺が生きていることは最小限の人だけにしておきたいから、まだいいかな」

「分かりました。では準備だけしておきます」

「リストアップの件、くれぐれも慎重にね」

「はい」

 セシルは少し名残惜しそうにしつつも膝から飛び降り、一礼してから部屋を出て行った。

 それを見送ってから、俺は改めて机に向かう。

 今後必要な物を紙に書き出しておくためだ。この世界では、科学があまりにも未発達だ。

 それはこの世界に、魔術という力が満ち溢れているからかもしれない。

 もちろん個人の力量に差はあるのだが、それでも自分には理解できない魔術は、大きな力に感じられた。


「その分色々足りないから、作れる人材を探してもらわないとな……」

 欲しい物を紙に書き出し、それを先ほどのメモと同じ場所にしまい込んで、俺は再びベッドに横になったのだった。


 翌日から、俺は鈍った身体を鍛え直すためのリハビリに励むことになった。

 それというのも、今のセラの身体は身を起こすのが精一杯で、机に移動するにもセシルの補助がいる。

 何よりこの世界、トイレの概念があるのは良いが、それだけに用を足すためにそこに辿り着く必要があった。

 一人で歩くこともできないし、常時セシルの力を借りるわけにもいかないため、侍女の一人に肩を貸してもらってトイレに行くことになるのだが、扉の前で待たれていると思うと非常に居心地が悪い。

 携帯トイレの概念もなければ、大人用のおむつという道具も、この世界には存在しなかった。

「自動洗浄トイレとは言わないけどなぁ」

 ただでさえ男女の性差で違和感のある行為。できるなら落ち着いた状況で用を足したい。

 なのに扉一つ挟んだ向こうに侍女が控えているというのは、どうにも馴染めなかった。

 できるだけ早く、一人でトイレに行けるようになりたい。その一心でリハビリに励んでいた。

 その甲斐あってか、三日後には自分で立ち上がり小走りで走ることができるまでに回復した。

「リンドーさん、もう立ち上がって大丈夫なのですか?」

「そうみたいだな」

 毒を受け、全身が衰弱した状況から、一週間寝込んだとはいえ、リハビリ三日で自在に動けるようになる。

 考えてみればセシルの指摘通り、異常な回復速度なのかもしれない。

「この身体、意外とスペックが高いのかな?」

 生存したことを隠すため、できる限り人目に付く場所は避けないといけない。

 そのおかげで今の俺は、ほとんど部屋に軟禁されたような状態にある。

 先の付き添いの侍女も、そういった事情を理解している古参の信頼できる者だ。

「お嬢様は昔から、運動は苦手でしたよ?」

「そうだったのか?」

「勉学が優秀でいらっしゃいますから、別にそこは欠点にはなっておりませんでしたが」

「その話、どこで聞いたのかな?」


 セラは学院に通い始めて半年ほど。もちろんセシルはそこについていけない。

 彼女の成績を知るには、学院に通っていないと分からないはずなのに。

 そう思って質問すると、セシルはなぜか明後日の方向に視線を向け、聞こえない振りをしていた。

 その態度であっさりと悟る。

「セシル、学院に忍び込んでいたね?」

「い、いえ、お嬢様をお迎えに上がった時に、ちょっと小耳に挟んだだけですよぉ」

 そう言われれば多少は納得もできるか? 十代の若者が通う学院の前に、こんな愛らしい少女が待っていたら、誰しも構いたくもなる。

 きっと女子などに囲まれ、さぞかし可愛がられたことだろう。

 その光景が脳裏に浮かぶようだった。

「まぁいいいか。セシル、少し背中を押してくれる?」

 俺は自室でできる運動として、柔軟体操を行っていた。

 寝間着のままで行っているので、多少行儀が悪いとは思うが、部屋から出られないのだから仕方ない。

 床にぺたりと座り込み、足を伸ばして身体を前屈させる。

 しかし固まっているのか、なかなか前に倒れてくれない。

「え、私がですか? その、それはさすがに」

「背中を押すくらい良いだろう?」

「ですが、女性が他者に身体を触れさせるというのは、少々はしたないと思います」

「十歳そこそこのお子様が生意気言うな。そういうセリフはあと十年経ってから言いなさい」

「うぐっ、こう見えてもそれなりに成長しているんですからね」

 セシルがこの屋敷にやってきたのは、三年前。当時十歳の少女は、それからかなり背を伸ばしていた。

 とはいえ、まだまだ小柄であることは確かである。

「せめて五年って言ってくださいよ、もう……」

 言いながらも背中に手を当てて、恐る恐るといった感じで押してくれる。

 その力はかなり弱く、屈伸の補助になっていない。

「ほら、もっと力を入れて」

「いいんですか? 私、結構力ありますよ」

「子供の力なんて知れたモノだろ。遠慮するな」

 傍から聞いたら少し怪しい会話に聞こえかねない気がしないでもないが、セシルは言われた通り、背中に圧し掛かるようにして体重をかけてくる。

 先ほどよりは強い負荷が背中にかかり。身体が大きく前に倒れ――

「いた、いたたたた⁉ ストップ! セシルストップ⁉」

 すぐさま限界を迎えて、セシルに制止を求めた。この三日でなんとなく分かっていたが、セラの身体は非常に硬く、鈍い。

 三十過ぎの前世と比較するまでもなく、運動オンチだった。というかポンコツだった。

 そして反対に、セシルの腕力が予想以上に強かった。

 考えてみれば、彼女は年上のセラの身体を事もなげに支えてみせる場面が多かった。

 実は腕力があることは、想像に難くなかったのだ。

 ともあれ前屈はこれが限界ということを知り、続いて開脚前屈へと移行する。

 この運動なら、先ほどよりも身体が前に倒れる……かもしれない。

「お、お嬢様、さすがにそれははしたないです!」

「ん?」

 言われて自分の格好を見下ろす。確かに運動服ならともかく、女性用寝間着で足を拡げた開脚前屈は、そう言われても仕方ない格好だった。

 しかしこの場にはセシルしかいないので、気にする必要もないと思うのだが。

「別にいいじゃないか、セシルしかいないし」

「いいえ、『私が』いるんです!」

「俺は気にしないよ?」

「『私が』気にするんですぅ⁉」

 口煩くすったもんだしながらも、結局逆らうことができない辺り、彼女はセラに心酔しているというべきか。

 柔軟運動を終えた結果、セラの身体は予想以上に快適さを取り戻していた。

 なんというか、無理が利くというべきか、運動をすればするほど、倒れる前の状態に戻っていく感じがする。もっとも、それは運動オンチの領域から出ることはなかったけど。

 ともあれ、結構汗をかいたので、身体を拭いてもらうことにした。

 公爵家の屋敷であるウィマー家には、もちろん風呂の設備はあるのだが、部屋を出られないセラでは使用することができない。

 そこで事情を知るセシルともう一人の侍女に身体を拭いてもらうことで、当面の問題を回避していた。

 俺と共に運動したセシルが退室し、代わりに侍女がお湯を張った桶を持って入ってくる。

 絨毯の上で湯浴みはできないので、なにも敷いていない場所に革のシートを敷いて、そこで身体を拭き、髪を洗ってもらうことになった。

「セラお嬢様の髪は本当にお綺麗ですこと」

 どこか陶然とした表情で侍女がそう告げてくる。

 実際、セラの髪は黒く長い。しかも毛先まで艶やかで、どのような手入れをすれば、これほどの艶になるのかと不思議に思うほどだ。

 一週間寝込んでいたせいで、その間は手入れをされていないはずなのに、と俺は首を傾げる。

「私が臥せっている間も手入れを?」

「そうですね。不潔になるといけませんので、拭くくらいは」

 おかげで髪がべたつくこともなく、清潔に保たれていたのかと納得する。

 しかしそれはそれとして、この髪は少し不便でもあった。

 長く美しい髪は確かに見栄えは良い。しかしそれを得てしまった元男の俺としては、頭が重いし、暑苦しい。

 今後はこの髪と付き合っていくのかと思うと、少しばかり面倒に思ってしまう。

「夏だし、少し短くしてもいいかな?」

「とんでもございませんよ、これほどの髪を切るなんて!」

 悲鳴のような声を上げる侍女に、俺は不思議そうな視線を向ける。

 前世では手入れの楽な角刈り頭だったので、髪を洗うのも実に簡単だった。

 しかしこの髪の量では、一人で手入れできる気がしない。

 雑な手入れで髪質を落としてしまうくらいなら、最初から短くしてしまうのもありなのではないか、とそう考えていた。

 何より……

「動きにくいのは問題があるから」

 これから先、俺――というかセラが生きていることを知られると、再び刺客が差し向けられる可能性もある。

 もしも荒事になった場合、この髪はそれだけで不利に働く。

 長い髪は相手が掴みやすいし、自分の視界を塞ぐ可能性もある。身体のどこかに引っかかっただけで動きも阻害される。

 どのみち、捜査のために動き回るなら、この目立つ髪は邪魔になるはずだ。

 髪を洗い終わった侍女が退室し、部屋で一人になったことを確認してから、寝間着を脱いで鏡の前に立つ。

 一枚板の姿見には、美しい少女の姿が映る。

 いまだ未成熟な面があるとはいえ、明らかに男性とは隔絶した姿。

 細くしなやかな手足や豊かに育ちつつある胸、くびれた腰などは十五歳とは思えない色気を持っている。

 しかも容貌は少しきつさがあるとはいえ、可憐と言って差し支えない。

 十人中、十人が彼女を美少女と呼ぶだろう。

「やはり、目立つな」

 毒の入手経路を探るとなれば、街に出る必要がどうしてもある。

 目立たないように、この上から少年の服やボロ着を纏った姿を想像してみるが、どう考えても違和感が残ってしまう。

「髪を汚してみたら? 肌も煤で汚してみるか? ダメだ、どうあがいても男には見えん」

 セラの毒殺に使われた毒の出所は、どうしても調べたかった。

 前世でも凶器の出所というのは、非常に重要な情報だし、犯罪の予防という面でも流通経路を把握しておく必要がある。

 まず、毒をこの屋敷の中で入手することは難しい。おそらく街中で手に入れたはずだ。ならば街に出てそれを調べる必要がある。

 しかし調査をするには、騎士たちでは目立ち過ぎる。

 ヘルマンが各地に派遣している密偵ならそれも可能だろうが……正直、この世界の捜査レベルが分からないため、成果はあまり期待ができない。

 セラの知識では、指紋の概念すら存在していなかったからだ。

「もっともセラには必要のない知識だから、持ち合わせていないだけって可能性もあるか」

 未来の大公妃として教育されてきたセラが、現代の捜査知識を持っているはずもない。

 ともあれ、他の密偵たちに期待できない以上、自分で動くしかない。

 そもそも今の状況だと、他人の調査が信用できないというのもある。敵は他にも潜んでいるかもしれないのだから。

「よし、切るか」

 セラの身体に手を入れるのは少々どころではなく申し訳なく感じるが、必要である以上は覚悟を決める。

 なにせ俺とセラの命に関わっているのだから、大目に見てもらおう。

 テーブルの上から紙を切るためのハサミを取り出し、それをマジマジと見つめる。

「なんとも、妙な世界だよな」

 全体的な世界観としては中世か、それに準ずるレベルなのだろう。

 しかし民間で姿見の一枚板のガラスが存在していたり、ハサミのような金属加工技術が存在していたりと、微妙に進んだ面も存在する。

 それもこれも、この世界に存在する『魔術』という存在の影響が大きいのだろう。

 前世では科学の恩恵を受け、それをベースに発展してきていた。

 しかしこの世界には魔術という技術が存在し、そちらを利用する文明が築かれている。

 その影響で文明が一部進んでいたり、逆に未発達だったりする可能性があった。

「――いくぞ」

 ともあれ今は、髪をどうにかする方が問題だった。

 セラの身体に手を加えるという罪悪感を覚えつつ、気合を入れてハサミに力を籠める。

 ジョキリと繊維を切る感触が伝わり、一房の髪の束が床に落ちた。

 一息に大きく切れなかったのは、ハサミの切れ味が悪いことと、やはり俺の踏ん切りのなさだろう。

 心の中で謝罪しながら、髪を肩口の辺りで切り揃えていく。

 専門の技能があるわけでもなく、あまり器用な方でもなかったため、かなり雑な整え方になってしまったが、首元がすっきりとして心地よい。

「髪は……集めておくか」

 現代日本ではあまり聞かなくなった話だが、昔は切った髪を使ってカツラなどを作ったという話を聞いたことがある。

 セラの髪は非常に美しいため、そういう需要があるのなら、後々金銭に交換できるかもしれない。

 もっとも、公爵令嬢である彼女が金銭に困るという事態はあまり想像できなかったが、備えあれば……というやつである。

「とはいえ、このままというのは、さすがに酷過ぎるな」

 ショートカットの女性が美しくないというわけではない。

 セラほどの美貌なら、髪を切ったところで、また違った美しさが発揮されるはずだ。

 しかしそれはきっちりと整えられた髪の場合である。

 雑に切られた髪では、その美しさも半減というところだった。

「……………………それでもこの可愛らしさか。末恐ろしいな」

 鏡に映る自分の姿を見て、思わず口に出してしまった。

 ざんばらに切られた髪だというのに、鏡に映ったセラの姿は、そこらのアイドルが裸足で逃げ出すほどに愛らしい。

 むしろ美しいから可愛いへと方向転換してしまったようにも見える。

 どこか少年のようにも見える、中性的な容姿へと変化していた。

「ま、まぁいい。とにかく毛先だけでも整えないとな。これはさすがに自分でもできないし……」

 かといって、別の人間を呼ぶわけにはいかない。

 この部屋にやってこられるのはセシルと侍女、それに家族だけなのだから。

 となると、選択肢は一つしかない。

「セシルにしてもらうか」

 寝間着を着直してから机の上のベルを鳴らし、セシルを呼ぶ。

 侍女を呼んだ場合は悲鳴を上げられそうだし、家族なんてもってのほかだ。

 セラの記憶から見るに、母親などは失神しかねない。

 そんな考えに耽っている間にも、部屋のドアが三度ノックされた。

「お嬢様、お呼びですか?」

 セシルは俺を『リンドーさん』と呼ぶが、人前ではきちんと取り繕って『お嬢様』と呼んでくれている。

 それが妙に距離を感じるため、俺としてはあまり好ましく思えない。

 それはセシルが、俺を通してセラを見ている証拠であり、ひいては俺を見ていないという証にもなるからだ。

「ええ、少し人目を避けたいので入ってくれる?」

「それは今さらだと思うのですけど」

 セシルの言う通り、今の俺は人目を避けて過ごす状況にある。

 彼女の言葉にもっともだと苦笑を漏らし、室内に迎えた。

 今の俺の姿を見て、セシルは大きく目を見開く。

 どうやら彼女も、あまりこの姿を好意的に思わなかったらしい。当然か。

「おじょ――むぐぐ」

 叫び声を上げることが様子から見て取れたので、俺はすぐさまセシルに駆け寄り、その口を手で塞ぐ。

 同時に部屋に引っ張り込んで、後ろ手にドアを閉めた。

「静かに。大きな声を出さないでくれる?」

 口を押さえて暴れないように後ろ手に拘束し、背後から抱きすくめるようにして動きを封じる。

 薄着の少女が十三歳のメイド少女を拘束するという、背徳的かつ訳の分からない状況に、俺本人も頭が痛くなった。

 最初はじたばたともがいていたセシルだったが、しばらくすると観念したらしく大人しくなった。

「大声出さない?」

「むぐっ」

 背後から耳元に囁くように警告すると、セシルは顔を真っ赤にしてコクコクと頷いた。

 同意を得たのでセシルの口から手を離すと、彼女は声を潜めながらこう返してきた。

「暴れませんから、早く離してください。当たってます!」

「ん?」

 言われて今の状況を冷静に把握する。俺はセシルの動きを封じるために、口に手をやり、反対の手で彼女の腕を後ろ手に固定し、背後から抱きすくめるように拘束していた。

 足も逃げられないように片足を絡めている。

 傍から見れば、かなり刺激的な恰好かもしれない。

 極め付けはセシルの背中に押し付けられた、胸の存在だろう。

 本来は形のいいそれは、圧力に負けてぐにゅりと形を変えている。

「ま、セシルならいいか」

「よくないですよ⁉」

 これがもし男性相手なら恥じらいも見せるべき場面なのだろうが、相手がセシルではそんなに恥ずかしくもない。

 むしろ照れるセシルが可愛らしく感じて、もっとイジメてみたい感情すら湧いてくる。

 俺に加虐趣味はなかったはずなのだが、と不思議に思う。

 ともあれ、このままでは話が進まないので、セシルを解放した。

「それで、お嬢様。その髪はどうしたんです?」

「今後の邪魔になるから切った」

「邪魔って……」

 俺の言葉に呆気に取られるセシルだが、現状身動きが取れない俺にとって、彼女の協力は必須だ。

 なのでなぜ髪を切ったのかを懇切丁寧に説明し、同意を求める。

「この先、身体を元に戻すために運動をしなくちゃいけないだろ? それに髪を切ることで私の印象を変えれば、変装になるかと思って」

「むしろ悪目立ちしちゃってますよ」

「だからセシルを呼んだんだよ。髪を整えて、せめて見栄えをよくしないと」

「せめて切る前に呼んで欲しかったです」

「呼べば絶対反対したくせに」

「当然です!」

 セシルは頬を膨らませて怒ってみせるが、その仕草自体が子供っぽくて可愛らしい。

 むしろ、イジメてしまいたくなる衝動すら湧いてくる。

 しかし今は、髪を整えることが本来の目的だ。

 俺は彼女に背を向けて椅子に座り、無言で作業を要求した。

 セシルもそれを察したのか、大きく溜め息を吐いてから、部屋にあった厚めの本を掻き集める。

 彼女の身長では、髪を整えるには少しばかり背が足りないので、踏み台に使うつもりなのだろう。

 そうして待つことしばし、不意に肩にセシルの上着が掛けられた。

「その恰好じゃ、寒いでしょう? 私のショールでよければ、羽織っていてください」

「ああ、ありがとう」

 確かに寝間着一枚では、いかに夏の夜とはいえ身体が冷える。

 その配慮に感謝を示しながら、彼女の気配りに感心した。

 しばらくして首筋に手が添えられ、ショキショキと音を立てて髪を切られる。

 丁寧に、しかし優しく繊細な手付きに、心の底から感心した。

 セラは少々どころではなく不器用なところがあったし、俺は大雑把な性格だったから、雑な散髪しかできなかった。

 しかしセシルのそれはプロも顔負けなのではと思うほど、丁寧だ。

「結構慣れてるね?」

「使用人同士で髪を整えたりしますから」

「給金はケチッてないみたいだけど?」

「ええ。お金はあるのですが、時間が……」

 言われてみれば、この世界には定休日や週休という概念は存在しない。

 彼女ら使用人は二十四時間年中無休で職務を要求される。

 休みといえば申告制で、それだって頻繁に取ってしまうと雇い主の心証が悪くなる。

 前世の基準で考えると、とんでもなくブラックな職務形態といえた。


「そういえば……セシルは疑われなかった?」

 どこか手持ち無沙汰になって、ふと思いついた疑問を投げかける。

 そう、考えてみれば、あの状況で真っ先に疑われるべきは彼女だ。

 セシルはセラの食事の給仕を行っており、毒を入れる機会が最も多い存在だった。

 俺は家族にすら真っ先に疑いをかけたというのに、なぜか彼女は最初から容疑者として除外していた。

「ええ、少し。ですがすぐに疑いは晴れましたよ」

「なぜ?」

「そりゃあ……私はこのお屋敷以外に、行く場所がないですから」

 セシルの実家は没落貴族だ。没落するということは、それなりの不名誉な出来事が存在したはずである。

 それはセラには詳しく知らされていないが、彼女が虐待されていたという話は聞いた記憶があった。

 もしこの屋敷を追い出されてしまうと、彼女は行き場を失ってしまう。これは紛れもない事実だ。

 もっとも、それは彼女を受け入れるという条件と引き換えに、セラの命を狙えと命じられれば、霧消してしまう条件ではある。

「なんでだろう?」

 なぜか彼女を疑えない。その事実に首を傾げて考え込む。

 すると即座にセシルが首の位置を元に戻す。少しゴキッと音が鳴ったぞ?

「リンドーさん、刃物を使っているんですから、首を動かさないでください」

「あ、ごめん」

 まっすぐに前を向き、微動だにしないままで思考を巡らせる。

 刑事時代の自分なら、真っ先にセシルを疑い、その疑惑を晴らそうとしたはずだ。

 だというのに、なぜか彼女に疑惑を持たなかった。

 その疑問にはやがて答えが出た。

 おそらくは、俺にセラの影響が出ていたのだろう。

 セシルという人間を知るために、セラの記憶を読み取った。

 その時の知識が、俺の思考に影響を及ぼした可能性がある。

「信頼されてるねぇ」

「信頼というか……私だけでは何もできないと侮られたというべきでしょうか」

「そんなことはないだろ」

 毒を盛ること自体は、それこそセシルより幼い子供でも可能だ。

 問題は毒をどう調達するのかと、誰にも見られず、知られずに盛れるかという点である。

 そういう点では、彼女一人で何もできないというのは事実かもしれない。

 なんにせよ、彼女が犯人というのは、確かに考えにくい。

 もし犯人だったなら、今この瞬間にもハサミで首を掻き切ればいい。

 セラも俺も、いつの間にかセシルに全幅の信頼を置いていた。

「セシル、そろそろ捜査に乗り出そうと思うのだけど?」

「リンドーさん自らですか? 私としては自重して欲しいところですけど」

 目覚めてまだ三日しか経っていない。普通ならようやく自立できるかというところだろう。

 しかしセラの身体は、運動能力こそ低かったが、回復能力は異常に高い。

 おかげでどうにか、日常生活なら不満のないレベルまで、すでに回復していた。

 問題は、それが俺本人のことだから分かることであって、セシルには知りようがない。だから彼女は反対していた。

「正直、屋敷で毒を盛られたんだ。誰を信頼していいか分からない。その点、セシルなら信頼できると思っている」

「それは光栄ですけど……」

 セシルはあれから、俺の指示通りに使用人のリストを作ってくれていた。

 その中で調理補助を担当している使用人が一名、姿を消していた。

 これは父のヘルマンも怪しいと思ったらしく、密偵を派遣してその行方を追っているらしい。

 しかしその結果は芳しくないとも聞いていた。

「密偵の中に一人でも裏切り者がいた場合、調査が行き詰まる可能性が高い。完全に信頼できるセシルと、自分で探すしかないんだ」

 もし密偵の中に裏切り者がいたら、その一人が正解の情報を押さえてしまえば、永遠に真実に辿り着けなくなる。

 顔も見たことない密偵よりも、自分で調べた方が納得できるし、確実でもあった。

「リンドーさんは自分が狙われているという自覚があるんですかね?」

「もちろん。あるからこそ早期解決を目指しているんだ」

「普通のご令嬢なら、自室に籠って捜査なんて人任せにするはずなんですが」

「普通じゃなかったってことだ。諦めな」

「その口調、なんだか似合いませんよ」

「……む」

 セラのような可憐な容姿で俺の言葉遣いは、どうにも外見と不似合いに聞こえてしまう。

 こればかりは慣れてもらうしかない。というか俺が慣れる必要があるのか?

「それより、本格的に自衛手段を講じたいから、動きやすい服が欲しいんだ」

「自衛に、動きやすい服ですか?」

「うん。せっかく騎士団が屋敷に駐留しているんだ。護身術程度でもいいから武術や魔術を学ぼうかって話をしたでしょ?」

「フム?」

 セシルが背後で、首を傾げたような気配が伝わってくる。

「で、動きやすい服。できればボタンみたいな留め具がない、一枚布を縫い合わせた服が良いな」

「一枚布ですか?」

「うん、それと通気性、風通しが良いとなお良い。あとズボンも丈の短い動きやすい奴を用意して欲しい」

「……なるほど、分かりました。準備しておきますね」

 意外と素直に、セシルは承諾してくれた。なんだか齟齬がある気がしないでもないが、用意してくれるなら問題はない。

 それにしても、屋敷に容疑者らしい者はおらず、怪しい使用人は行方不明。

 毒物の入手経路も不明となると、現状では八方塞がりだ。

「この事件、意外と面倒なことになるかもなぁ」


 日本なら捜査のためのチームが組まれるが、この世界では俺一人だ。

 密偵たちと違って、圧倒的に人手が足りない。

 かといって父親のヘルマンに協力を願い出るのも、怪しまれるだろう。

 愛する娘の中身がオッサン刑事に変わったと知られれば、どんな対応をされるか分かったモノじゃない。

 下手をすれば幽閉とかされるかもしれない。あの溺愛ぶりを見るに、その可能性は少なくないだろう。

 今信頼できるのはセシルだけだ。彼女と二人で、事件を解決まで持っていく必要があった。

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