序章 消える二人と目覚める一人
背中を貫かれる苦痛。同時に内臓を焼かれるような不快感を覚える。
背中は分かるが、内臓は全く記憶にない。
その不快感に苛まれながら目を覚ますと、見たことのない光景が飛び込んできた。
「これは……天蓋?」
漫画や映画などでよく見る、ベッドの頭部分に付ける風よけのカーテン。
それが目に飛び込んでくる。もちろん記憶にはない。
周囲は石造りながら丁寧に飾られた室内。絨毯も豪華な模様が織り込まれ、足が沈みそうなほど毛足が長い。
シンプルながら品の良さを感じさせ、相応に金のかかっていそうな部屋。
そこで『俺』は目を覚ました。
「どこだ、ここは……」
そう言って身を起こすと、身に覚えのない振動を感じた。
胸の辺りに猫が乗っていたかのような違和感。視線を下げると、そこには服を盛り上げる膨らみが視線を遮っている。
「……は?」
一見してそれが何か、理解はできる。理解はできるが、認識が追い付かない。
男として生まれてから三十年以上、自分とは縁の遠かった存在だ。
「む、胸? おっぱい? ほわい⁉」
悲鳴じみた声を上げて、胸を鷲掴みにする。手のひらから返ってきたのは、柔らかな極上の感触。
同時に肉を引っ張られる苦痛も感じられた。
その痛みが、膨らみが間違いなく自分のモノだと実感させてくる。
「なんで……どうしてこんなことに?」
胸から手を離し、頭を抱えながら項垂れる。サラリと流れ落ちる黒髪から、花のような良い香りがした。
明らかに、加齢臭に怯える自分の髪の香りじゃない。
どう考えても別人の身体。なぜこんなことになったのか、『俺』こと
◇◆◇◆◇
警視庁の捜査一課に所属する俺こと竜胆善次郎は、その日もたらされた情報によって、容疑者確保のために現場へと赴いていた。
目標は金目当てに暴行を繰り返した凶悪犯だ。すでに被害者は複数に及び、早期の確保が必要とされる。
一刻も早く確保する必要があるため、俺と相棒の新人が現場に先行し、容疑者の行動を見張ることとなった。
後は人員が到着するのを待ち、逃亡されないように包囲を完成させてから身柄を拘束する。
そんなあと一歩の状況で、新人が暴走を始めた。
「
まるでドラマのように、容疑者の前に姿を現し、時代劇の印籠のように警察手帳を見せつける。
いや待て。そんな刑事、今時いないぞ。という内心のツッコミはさておき、その行動に俺は舌打ちを禁じえなかった。
様々な職業で、なぜ二人一組で行動するのか。それは一人と二人では、安全性に天地の差が生まれるからである。
助けを呼ぶ、救助してもらう、数で威圧する。どんな状況でも人手というのはあればあるほどありがたい。
警察だって同じだ。犯人は目の前に警察が現れた際、真っ先に考えることがある。
諦めるか、抵抗するか、だ。
一人の警察官が目の前に現れた時、逃げられるかどうかはお互いの身体能力によって変わる。
取っ組み合うにしても、逃げるにしても、一人が相手の場合は逃走の成功率が高くなるし、抵抗する可能性も非常に高くなる。
しかし相手が二人いる場合、諦める可能性が大幅に上昇する。
二人相手じゃ逃げきれない。一人に追われている間に、さらに応援を呼ばれる可能性もある。
そういった考えが脳裏によぎり、諦念に襲われるのだとか。
だからこそ警察官は二人一組での行動を、基本的に推奨されている。
だというのに、新人は一人で先走った。若さゆえに功を焦ったのかもしれない。
決して褒められた行為ではない。戻れば始末書モノの暴走だ。いや、降格すらあり得る暴挙だ。
案の定、容疑者も抵抗を選択したようで、腰の後ろに手を回している。
明らかに普通じゃない動き。実際前に戻ってきた手にはナイフが握られていた。
俺はとっさに持ち場を離れ、相棒の前に身を躍らせた。
「バカ野郎がっ!」
「竜胆さん⁉」
突如目の前に飛び出した俺に、相棒の驚く声が響く。しかし容疑者の方はそれどころではない。
目の前の刑事を排除しなければ、自分は逮捕されてしまう。
その想いから、飛び込む俺に気付かなかったようだ。
容赦なく突き出されるナイフ。それは的確に相棒の胸――の前に躍り出た俺の背中に突き刺さった。
地面に倒れ、流れ出る血を認識する。
その量は多く、明らかに命に関わるレベルの出血だった。
『――救援を……』
助けを呼ぶように指示を出す声。しかし声はすでに出せなくなっていた。声は自分の心の中だけで響くに留まる。
しかし声が出せたところで、どうにもならないことは理解していた。
容疑者はすでに逃走にかかり、相棒は倒れた俺に取りすがっている。
さっさと追え、救援を求めろ、と言いたかったが、それはできなかった。
「竜胆さん、しっかりしてください、竜胆さん! いま救急車を呼びますから!」
そう言って携帯を取り出す気配がする。しかしすでに俺の目は見えなくなっており、意識も闇に包まれていったのだった。
◇◆◇◆◇
ウィマー公爵家の長女、セラ・ウィマー。それが私の名前。
最近、第三王子との婚約も決まり、後に大公となる方の妻となることが決定している。
大公とは王家の方が臣籍に下られた際に与えられる一代限りの爵位で、王族に次ぐ権威を持っている。
その代が終われば、正式に公爵、もしくは侯爵へと任じられ、他の貴族との差はなくなっていく。
元王族が無位無官というわけにもいかないため、かなり大きな領地を与えられることも多い。
そんな方の妻に、私は選ばれていた。
この話は幼い頃から進められており、私もそれを自覚していた。
だからこそ、己の身を律し、冷静沈着、公平無私であることを心掛けてきた。
未来の夫を支えるべく、知識を蓄え、淑女としてのマナーも誰よりも厳しく学んできた。
おかげで友人と呼べる者はほとんどいなくなってしまった。
今年入学した王立学院のクラスメイトともほとんど会話がなく、一人学び続ける日々。
それは苦痛ではあるが、支えてくれる家族がいたので耐えられた。
「いい天気ね」
学院が夏季休暇に入ったため、私は実家であるウィマー領の屋敷に戻ってきていた。
気温が高くはあるが、湿気の少ないカラッとした気候。
空には雲一つなく、青い空がどこまでも高く続いている。
そんな好天に誘われるように、私は屋外で昼食を取ることを、使用人に告げた。
学院では気を張ってい続けないといけなかったが、ここは自宅。少しくらい気を抜いても構わないだろう。
「でも、日差しが強いです。あまり日に当たられると焼けてしまいますよ」
そう言って昼食の給仕をしてくれているのは十代前半の金髪碧眼の少女。
人形のように愛らしい少女で、妹のように思っている。父であるウィマー公爵が没落した伯爵家から引き取ってきた子だ。
この屋敷に来るまではあまり恵まれた境遇ではなかったため、私付きの侍女として引き取られた少女である。
ウィマー公爵家において最も年下だった私は妹ができたみたいで、この子を凄く可愛がっていた。
「日傘があるから大丈夫よ、セシル」
強い日差しをパラソルで遮り、人工的な日陰で食事を取る。
その間も少女――セシルは私のそばに侍り続けていた。
「あなたも座って食事したら?」
「私は使用人ですから、お嬢様と同席はできません」
ややぶっきらぼうな口調。だけど彼女が私を嫌っているわけではないのは、理解している。
ここに来るまでの経験から、彼女は無表情を貫き、硬い口調で話すことに慣れてしまっていた。
今ではそんな態度も和らぎ、私に全幅の信頼を置いてくれていた。だからこそ、主従の関係を超える私の要求に、批判的な声を上げているのだ。
「そんな堅いこと言わなくてもいいじゃない。あなたは家族も同然なのに」
「光栄ですけど、人前で言わないでくださいね?」
使用人である彼女を特別視しているとなると、やはり外聞というものが悪くなる。
それを気にしての発言で、年齢不相応に気の利く子だ。それだけに不憫にも思える。
この歳で空気を読まないといけないくらい、周囲を気にして育ってきたのだということだから。
「まぁいいわ。それじゃあ、あなたの代わりに兄さんに同席してもらいましょう」
「え?」
私がそう言うと、近くの茂みががさがさと揺れる。
その音にセシルが一瞬身構えるが、茂みから出てきたのは背の高い甘い容貌の少年だった。
「いらっしゃい、アントニオ兄さん」
「いや、気付いていたのか?」
「どうせ草むらから私を驚かそうとしたのでしょう?」
「バレたか」
くしゃりと髪をかき上げ、苦笑いを浮かべる。
アントニオ兄さんは私より二つ年上の十七歳。ウィマー公爵家の次男で、武術の才能に溢れた人である。
長男のリチャード兄さんの補佐として腕を振るうと期待されている武人だが、イタズラ好きなやんちゃ坊主としても有名だった。
「今回は上手く隠れられたと思ったのにな。どうして分かったんだい?」
「家族ですもの、気付きますよ」
心底不思議そうな顔をするアントニオ兄さんに、私は優しく笑ってみせる。
こんな無防備な笑顔を見せるのは、家族とセシルにだけだ。
そこへもう一つの足音が近付いてきた。視線を向けるとリチャード兄さんがこちらへ歩いてきているところだった。
「いらっしゃい、リチャード兄さん。兄さんも昼食をご一緒しますか?」
「できるならぜひともそうしたいんだけどね。アントニオ、仕事の最中に抜け出すのはどうかと思うぞ」
「だって庭でセラが遊んでたんだぞ。俺だって息抜きしたいと思ってもしかたないだろう?」
「私は遊んでいたのではなく、食事をしていたのです」
不本意な言われように、思わずプクッと頬を膨らませてしまう。
こんな仕草、家族以外には到底見せられない子供っぽい仕草だ。
隣の席に座ったアントニオ兄さんが、私の膨らんだ頬を指でつつく。
そんな仕草をごまかすかのように、私はサンドイッチをパクリと口に運んだ。
少しきつめのマスタードの香りが鼻に抜け、思わず目に涙が浮かぶ。それを見て兄たちは笑いを堪えていた。
私もそれをごまかそうとして、セシルの用意した水出しのお茶に口を付ける。
芳醇な茶葉の香りと、かすかな酒精の香り。いつものお茶の風味に心が落ち着く。
と、その時、唐突に頭に痛みが走った。
「う……? コホッ⁉」
視界が急激に歪み、嘔吐感を止めることができず、とっさにテーブルにあったナプキンで口元を覆う。
「え? ……あれ?」
ついに耐え切れなくなって、どさりと椅子から崩れ落ちた。
その頃にはすでに頭痛は耐えられないほどになっており、起き上がることすらできなくなっていた。
地面に突っ伏し、意図せず体が震え出す。
慌ててテーブルを立つ兄たちと、お茶を注ぐポットを取り落として狼狽するセシルの姿が視界に入る。
あまりの苦痛に彼女に手を伸ばそうとしたが、それは叶わずパタリと落ちる。
これは明らかに、食中りなどではない。毒? でも誰が? 何のために……?
そんな疑問の答えが出ないまま、私の意識は暗い闇へ落ちていったのでした。
それはどれくらい時間が経った頃でしょう?
暗い視界の中で、一筋の光が見えた気がしました。
暗く、寒い世界。そこに差し込んだ光は、とても暖かく感じました。
『私』はその光に縋るように、渾身の力で手を伸ばす。
すると光の中から光る腕が伸びて、私の手を掴んできました。
まるで『私』同様に、何かに縋るかのように。
そして『私』は、光の中に飛び込み、光の中に溶けていったのでした。